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黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1925~1934(大正14年~昭和9年)

国境を越えはじめた放送 世界は急速に短波でつながる

年代史  >  1925~1934  >  国境を越えはじめた放送  | 海外放送の黎明期

主な出来事

1876明治9
  • 1876 米のベル、電話機を発明
  • 1877 エジソン、蓄音機発明
  • 1895 マルコーニ、無線通信実験に成功
  • 1897 ブラウン、ブラウン管を発明
1906 明治39
  • 1906 人間の声が初めて電波に
  • 1914-18 第一次世界大戦/1917ロシア革命
  • 1920 世界最初のラジオ局(米国KDKA局)放送開始
  • 1922 英国放送会社(BBCの前身)ラジオ本放送開始
  • 1923 関東大震災
’25 大正14
  • 1925 東京放送局愛宕山から1kWで本放送開始、アラスカなどからも反響
’26大正15
昭和元年
  • 1926 社団法人日本放送協会を設立
  • 1926 千葉県・検見川送信所開局
  • 1928 最初の全国ネット放送実施
  • 1929 世界大恐慌
’30 昭和5
  • 1930.10 ロンドン海軍軍縮条約祝賀の米英日の初の国際交換放送成功
  • 1931 リンドバーグ歓迎対米中継
  • 1932.12 BBC国際放送開始(The Empire Service)
  • 1933 日本国際連盟を脱退
  • 1934 台湾・満州・朝鮮向け定時国内放送短波中継業務を開始
  • 1934 来日したベーブ・ルースが対米放送

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熾烈な開発競争 日本も世界をめざす

人類の声が初めて電波に乗ったのは、1906年のクリスマスイブだ。その電波はアメリカのボストン郊外から発信され、通信技術はその後、革命的な進歩を遂げた。世界はこの新技術の吸収と開発にしのぎを削った。第一次世界大戦後の1920年代にはアジアに植民地を持つ列強は相次いで海外放送に乗り出した。

20世紀初頭、通信技術は劇的進化

1929年8月19日 ドイツの飛行船ツェッペリン伯号来日。ドイツへの中継放送に挑戦した

1929年8月19日 ドイツの飛行船ツェッペリン伯号来日。ドイツへの中継放送に挑戦した

19世紀、人間は電気と電波の存在を突き止める。1876(明治9)年アメリカのベルが人間の声を電気に換えて再生する電話機を発明し、翌1877年、エジソンが、音声を録音する蓄音機を発明した。1895(明治28)年にはマルコーニが無線電信を発明した。

人類の声が初めて電波に乗ったのは、1906年のクリスマスイブだ。電波はアメリカのボストン郊外からカナダ人の発明家レジナルド・フェッセンデンによって発信された。

世界が無線電信の威力を知ったのは、1912年4月14日深夜、タイタニック号の氷山との衝突事件だ。遭難のニュースは翌日朝には世界中を駆けめぐった。第一次世界大戦(1914~18)をはさみながら、しれつな無線技術の開発競争が続き、日本も名を連ねていた。

1925(大正14)年、日本のラジオ放送開始 アラスカからの手紙

日本のラジオ本放送開始(1925年7月12日)の地、東京・港区、愛宕山(標高26メートル)出力1kW

日本のラジオ本放送開始(1925年7月12日)の地、東京・港区、愛宕山(標高26メートル)出力1kW

1923(大正12)年の関東大震災の2年後、1925年3月22日、日本のラジオの仮放送がはじまった。出力はわずか220ワット。

3か月あまりたった7月12日に東京放送局が1kWで本放送を開始した。すると、まさに“奇跡”と呼べるような手紙が届き始めた。9月には、アラスカとオーストラリア、そしてアメリカ西海岸から聴取報告が寄せられた。国内放送のはずなのに、図らずも電波は太平洋を越えていた。

世界が競った短波放送技術開発

一方、欧州では1925年、オーストリア放送協会(ORF)の前身RAVAGがザルツブルグ音楽祭をヨーロッパ各地に中継した。日本も、逓信省が短波の送受信実験を開始していた。そして1929年8月19日、ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が霞ヶ浦に到着したとき、その実況中継と愛宕山からのドイツ語ニュースを芝の逓信官吏練習所と東京中央放送局(愛宕山)の短波実験装置により、バンドン(インドネシア)経由でオランダまで送信。そこから有線でドイツ向けに送信しようとしたが、これは成功しなかった。

1930年、ロンドン海軍軍縮条約祝賀、日米英初の国際交換放送成功

1930年、ロンドン海軍軍縮条約批准祝賀の浜口雄幸首相の初の国際交換放送時の演説風景(囲み:軍縮会議、若槻主席全権の演説)

1930年、ロンドン海軍軍縮条約批准祝賀の浜口雄幸首相の初の国際交換放送時の演説風景(囲み:軍縮会議、若槻主席全権の演説)

第一次世界大戦(1914~18)の後、世界が軍備拡張に進むのを抑制しようと、米・英・日・仏・伊の5大海軍国が軍艦建造の制限・削減をめざすロンドン海軍軍縮条約の交渉が行われ、1930年締結した。10月27日深夜、日英米首脳が世界に向けて、批准を記念する『軍縮記念国際放送』が行われた。浜口雄幸首相(東京)、フーバー大統領(ワシントン)、マクドナルド首相(ロンドン)が所信を述べた。浜口は愛宕山のスタジオから「世界は列強互に相敵視し、力に訴えてまで自国の利益を開拓せんとした〈冒険時代〉を既に経過して、いまや各国互いに相信頼して共存共栄をはかる〈安定時代〉に到達している」と世界の協調を訴えた。


演説を米国に送信する大役を担ったのは、1926年に開局した逓信省の検見川送信所。2週間ばかりで米国向けビームアンテナを突貫工事で建てて、水晶発振式の短波送話機でサンフランシスコに電波を飛ばし、放送は大成功を収めた。電波は米国からロンドン、そしてベルリンなどへも伝わった。これが最初の国際交換放送となった。

列強のアジア向け海外放送

1928年、オランダのPHOHI局はオランダ領東インド(現、インドネシア)向けの短波による定期放送を開始。ソ連もモスクワから独・仏・英語などの外国語放送を始めていた。フランス国営放送は、31年、海外領土向けの「ラジオ・コロニアル」(38年に「ラジオ・モンディアル」と改称)を、イギリスのBBCは、32年、海外の自治領・植民地向けに「エンパイア・サービス」を、ナチス・ドイツは33年に、34年にはイタリアも対外放送を開始した。
(『20世紀放送史』)

国際放送、戦前は“海外放送”と呼んだ

1920年代、日本は海外に向けて放送をはじめたが、当時は“海外放送”と呼んだ。戦前「国際放送」と呼ばれたのは、相手国の放送局でいったん日本からの放送を受信して、それを相手国内で放送することをさしていた。

ロンドン海軍軍縮条約の批准を祝って日米英の3か国首脳がそれぞれの所信を交換する国際交換放送が行われたが、米国では、NBC放送を通して放送され、これが当時の「国際放送」だった。

また日本国内の内地向けの全国放送に対して、外地と呼ぶ朝鮮・台湾・満州(事実上支配下にあった)や東南アジア、太平洋に面する諸国向けの「外地連絡放送」は、1941年「東亜中継放送」と改め、42年以降、東亜放送と改称した。戦後、1950年に公布された放送法によって、従来の海外放送は「国際放送」と改称された。

海外放送の黎明期 歴史的な日・米・英3か国国際交換放送

世界首脳の声を聞く 戦場・イベントからの中継も

日本はラジオの本放送を1925(大正14)年に開始、翌年には千葉県・検見川送信所が開局。1930年には、ロンドン海軍軍縮条約の批准を祝賀する日・米・英の3か国国際交換放送を成功させた。海外放送は満州事変以降次第に戦時色を強めていった。

リンドバーグ大佐の「歓迎の夕」米国へ中継。その3週間後、満州事変

1931年8月28日 太平洋横断飛行のリンドバーグ歓迎の対米国際中継

1931年8月28日 太平洋横断飛行のリンドバーグ歓迎の対米国際中継

1934.11ベーブ・ルースはホームラン13本。右は第11戦で力投の全日本伊達正男投手

1934年11月 ベーブ・ルースはホームラン13本。右は第11戦で力投の全日本伊達正男投手

1931年8月28日、太平洋無着陸横断飛行に成功したリンドバーグ大佐の「歓迎の夕」が米国へ中継された。その3週間後、1931(昭和6)年9月18日、満州事変が起こった。発端となった柳条湖での南満州鉄道の爆破は関東軍の謀略であった。

1932年3月には満州国の建国が宣言された。10月、国際連盟・リットン調査団は、日本軍の行動を自衛の措置と認めず、満州国成立の正当性を認めなかった。日本は孤立を深め、1933年2月24日、国際連盟総会は、リットン報告書の採択と満州への中国の主権を認めるとする勧告案を採決。賛成42に反対は日本だけ。棄権は1。3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を通告した。日本はその実情を対外的に知らせることが急務となってきた。

1934年6月1日、台湾・満州、朝鮮向け定期連絡放送を開始

1934年6月1日から、国際電話株式会社の茨城県・名崎送信所より、内地(日本国内)の放送番組の大部分が、台湾、満州へ短波で定期的に中継放送されることになった(朝鮮の各放送局も直接受信した)。後に東亜中継放送(東亜放送)となるものである。この放送は、東南アジアほか太平洋に面する諸国でも聴取できた。

1934年11月10日、来日した米選抜野球チームのベーブ・ルースが米国向け番組の「日本の野球界を語る」に出演した。放送は、速報性だけでなく、国境を越えた親善のための役割も期待されていた。

国際交換放送をした検見川送信所
千葉県・旧検見川無線通信送信所

千葉県・旧検見川無線通信送信所

検見川送信所は1926(大正15)年4月1日に開局。(現在の千葉市花見川区検見川町、逓信省の無線送信所)。1930(昭和5)年には歴史的なロンドン海軍軍縮会議の寄託式祝賀の“日本初の国際交換放送”を行った。コールサインは日本第1号を示すJ1AA。太平洋戦争中は南方の占領地との通信拠点となった。1979(昭和54)年の閉局後も、無線通信技術の進展をもたらした象徴、歴史的価値と大正末期の貴重なコンクリート建築として評価が高まり、2007年「検見川送信所を知る会」が作られた。

*設計は、東京中央郵便局などを設計したモダニズム建築の先駆者・吉田鉄郎氏