ニュース画像

WEB
特集
スラウェシ島 地震 津波 現場報告

9月28日、インドネシア中部・スラウェシ島でマグニチュード7.5の地震が発生。その後、局地的に10メートルを超える津波が街を襲いました。犠牲者は1948人(10月8日現在)にのぼっていますが、その数は増えるおそれが出ています。私たちは、地震発生から4日目の10月1日、大きな被害が出たスラウェシ島中部の都市パルに入りました。テレビでは伝えきれなかった、私たちが見た被災地の様子をお伝えします。(ジャカルタ支局長 川島進之介)

被災地への険しい道のり

地震のあと大きな津波が街を襲ったパル。私たちはジャカルタから空路、現地に入ろうと考えましたが、地震直後からパルの空港は閉鎖されていました。

管制塔が崩れたり、滑走路にヒビが入ったりして大きな被害を受け、いつ再開されるのかわかりませんでした。

ニュース画像

しかたなく、支援物資の輸送拠点となっているスラウェシ島北部の街・ゴロンタロからレンタカーを借りてパル入りすることにしました。

道のりはおよそ600キロ。東京から秋田県あたりまでの距離です。

途中1泊し、10月1日、パルに続く山越えの道に入りました。

ニュース画像

そこで私たちが見たのは、パルの街から外に避難しようとするたくさんの車。人々は余震がつづく街から逃げようとしていたのです。

山道はいたるところで崖崩れが起きていて、大渋滞が発生。ふだんであれば1時間のところが6時間以上かかり、夕方、パルに到着しました。

目に飛び込んできた津波の傷痕

海沿いの道を走るとすぐ、全長20メートルほどの船が津波で陸に打ち上げられているのが目に飛び込んできました。

ニュース画像

建物はことごとく破壊され、あたりには海水が腐った臭いがたちこめていました。

出会った男性は、逃げ遅れた子どもを助けようとして津波に巻き込まれ、奇跡的に木に引っかかって一命をとりとめたと話していました。

男性は「地震が起きてから3日もたつが、食料と水がほとんど手に入らない」と訴えていました。

この地域の人たちはテントも立てずに、全壊した自宅の土台で肩を寄せ合って、生活を続けていました。

芝生の上で野宿

夜を迎え、休める場所を探さなくてはなりませんが、私たちが予約していたホテルには何回電話をしてもつながりません。

街なかには倒壊したホテルも数多くありました。

泊まる当てがなくなった私たちは、地元テレビ局の記者が教えてくれた、州知事庁舎に向かいました。

ここは被災者の避難場所であるとともに、インドネシアや海外のメディアの記者やカメラマンが詰めかけていました。

しかし、庁舎の建物は、地震の揺れで天井が一部崩落するなどの被害が出ていました。私たちは野宿することを決め、芝生の上で汚れた衣類を詰めた袋を枕にして寝ました。

ニュース画像

蚊に悩まされながら何とか眠りにつくのですが、夜中に地震が起き、そのたびに飛び起きました。

地震が起きると、ドーンという音とともに知事庁舎が大きく揺れます。建物が崩れるのではないかという恐怖に襲われました。

避難している人たちも「安心して眠ることができない」と話していました。

食べ物が足りない

次の日(2日)、夜明けとともに車で出発すると、軍の施設の前にたくさんの人が集まり、大きな声で叫んでいるのを目にしました。

食料の配給があると聞いて集まっていた住民の人たちです。

ニュース画像

「この場所では食料は配給されない」と説明する軍の兵士に対し、怒りの声を上げているのです。涙を流している女性もいました。インドネシア人は基本的にはおだやかな人たちです。インドネシアに駐在して1年余りになりますが、あれほど大きな声で人に詰め寄るのを見たのは初めてです。

パルの街では、行政からの必要な情報がほとんど住民に伝わっていませんでした。どこに行けば食べ物や水が手に入るのか、誰もわからないのです。人々のいらだちは頂点に達していました。

生きるために必要な物資を手に入れるため、略奪も起きていました。

ニュース画像

地震のあと閉鎖されていたスーパーマーケットの入り口が壊され、男性や女性それに子どもまでが店の中に入って、食料品や水・日用品を手当たりしだい持ち出している光景を目の当たりにしました。

銃で武装した警察官もかけつけていましたが、住民が多すぎて制御することはできず、住民どうしの争いが起きないよう見守るだけでした。

「これ以上、物資不足が続けば住民どうしが殺し合うことにもなりかねない」と話す女性もいました。

物資不足で捜索にも遅れ

物資の不足は、行方不明者の捜索にも悪影響を及ぼしていました。

住宅の倒壊現場で取材をしていると、住民ががれきの山から衣類など使えるものを探していました。

ニュース画像

聞くと、ここでは10人以上が行方が分からず、倒壊した建物の下敷きになっているとみられるということでした。

私が到着した直後、「がれきのなかから人の息のような音が聞こえた」といって、住民ががれきの山に向かって必死に呼びかけていました。しかし反応はありませんでした。

しばらくすると、インドネシア軍の兵士たち50人ほどが捜索のために到着しました。しかし、いつまでたっても作業は始まりません。

ニュース画像

がれきの量が多すぎて重機がないと捜索ができないのです。地震のあとパルの空港が閉鎖され、道路も寸断されるなどして物資の輸送が滞っていました。

たとえ重機が到着したとしても、それを動かすための燃料も足りません。兵士たちは、ぼう然とその場に立ち尽くしているばかりでした。

ニュース画像

この地域に住む住民は「行方が分からない知人がいます。がれきを片づけるために重機が必要です。どんな支援でもいいからほしいです」と話していました。

心に傷を追った入院患者

取材3日目(3日)、私たちはパル郊外にある公立病院を訪れました。

ニュース画像

到着後、目に飛び込んできたのが、屋外のテントで治療を受ける患者の姿です。

ほこりが舞う中で治療を受けている人たちを見て、地震で病院が一部使えなくなり、患者が病室に入りきらないのだと思いました。

しかし事実は全く違うことがわかりました。

患者の人たちはみな、外で治療を受けることをみずから希望していたのです。

取材に応じてくれた20歳のアニサさんがその理由を教えてくれました。

ニュース画像

アニサさんは、パルの海岸沿いのレストランで交際相手の男性とその家族と夕食を食べていた時、津波に巻き込まれました。

アニサさんは幸い助け出されましたが、全身を強く打っていて、立ち上がることができない状態です。

私が「室内で治療を受けたいとは思いませんか」と聞くと、アニサさんは「余震が起きるたびに津波に襲われたときの記憶がよみがえり、建物が壊れるのではないかと怖くなります。だからこのまま外で治療を受けたいです」と話していました。

余震を恐れて外で治療を受けている人は50人ほどいました。

アニサさんの交際相手とその母親はいまだに行方がわかっていません。さらに妹も行方不明です。見舞いに訪れていた家族からそう伝えられると、アニサさんは大粒の涙を流していました。

パルが復興するには、アニサさんのような心に大きな傷を負った人たちのケアも大きな課題になると思いました。

パルの人たちに笑顔がもどるまで

私が一番印象に残っているのが、パルの街の象徴として人々に愛されてきた「海に浮かぶモスク」の取材です。

ニュース画像

海底に打ち込んだ柱の上に建築され、海の上に浮かんでいるように見えるモスクは、パルの有名な観光スポットでした。

しかし、津波に襲われたあと、海の中の柱が折れて建物は傾き、海の上を6メートルほど流されてしまいました。

ここでは礼拝のために訪れていた多くの人たちが命を落としました。

モスクの代表のサラームさんは当時、別の場所にいたため、津波には巻き込まれませんでした。

多くの知り合いを亡くした悲しみに暮れながらも、「モスクを絶対に再建したい」と話してくれました。取材を終えて、私たちが帰ろうとすると、サラームさんは「写真をとらないか」と話しかけてきました。

ニュース画像
左から3番目が筆者 右から2番目がサラームさん

インドネシアの人たちは写真を撮るのがとても好きで、ふだんも取材が終わると記念写真を求められることが多くあります。

さすがに被災地でそういうことはないだろうと思い、最初はびっくりしましたが、一緒に写真をとることにしました。こちらの人たちがよくする、拳をにぎってガッツポーズを作って写真に収まりました。私はこうした状況でも普段どおり、写真を撮ろうと話しかけてくれるサラームさんの心の強さに驚きました。

あとから写真を見返すと、サラームさんは口を結び、厳しい表情を見せていました。

その表情からは、これからもこの街にとどまり、このモスクと一緒に生きていくという強い決意が感じられました。

パルや近郊の街では、地震や津波のほか液状化によって甚大な被害が出ています。

しかし、一部ではまだ救助の手が入っていない場所もあります。

復興に向けた動きは小さなままで、いったいどれくらいの時間がかかるのか分かりません。

今回、話を聞かせてくれた人たちが笑顔を取り戻せる日が来ることを願いながら、今後も取材を続けたいと思います。

川島 進之介
ジャカルタ支局長
川島 進之介