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“101回目”の甲子園

白球を追いかけた者なら誰もが憧れる甲子園。夏はことしで100回目を迎えますが、歴史上ただ1度だけ、公式には数えられていない「幻の甲子園」と呼ばれる大会があったのをご存じでしょうか。この昭和17年(1942年)の大会で決勝の舞台に立ったキャッチャーが、ホームベースから見つめていた景色とは。(京都放送局記者 佐藤崇大)

76年ぶりの応援

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原田清さん

ことしの夏の高校野球京都大会。車いすで球場に向かう男性の姿がありました。原田清さん(91)です。

平安中学=今の龍谷大平安高校のキャッチャーとして「幻の甲子園」に出場、準優勝を果たしました。

球場で母校の選手を応援するのは、そのとき以来初めて。龍谷大平安のコーチに出迎えられ、現役の選手たちに「がんばってね」と声をかけます。

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少しでも日陰で見てもらおうと選手の親たちが車いすを持ち上げてバックネット裏の日陰まで運んでくれました。

紺色に白で平安のHの字が入った、母校の帽子を自慢げに見せてくれました。

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「年明けにね、めいにもらったんですわ。せっかくだから被ってこようと思ってね。今回初めて被ったんですわ」

「野球はいいね。雰囲気がよい」ーーー原田さんは目を細めながら見守っていました。京都市はこの夏、記録的な暑さを記録。この日も38度以上の猛暑日でした。原田さんは3回途中で球場をあとにしましたが、強力打線を誇る龍谷大平安が得点を重ねるようすは見ることができました。龍谷大平安は、そのまま勝ち進み、100回目の夏の甲子園への切符を手にしました。

“鉄人”にいざなわれて

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衣笠選手(1987年)

私が原田さんに出会ったきっかけは、平安OBで「鉄人」と呼ばれた元プロ野球選手、衣笠祥雄さんの訃報でした。龍谷大平安高校を訪れて衣笠さんの思い出を探し、野球部100年記念誌をめくっていると、「幻の甲子園」に関する記述が目に入りました。

原田さんの出場した大会が「幻の甲子園」と呼ばれるのには理由があります。

太平洋戦争中、夏の甲子園は中止されていました。しかし昭和17年、甲子園を戦意高揚のために利用しようと国が主催したのです。現在の大会とは主催者も開催の目的も異なるため、公式の記録としては残されていません。

筆者も高校球児でした。龍谷大平安のような全国区の高校ではありませんでしたが、甲子園出場を夢見て、野球に青春をささげました。「戦時中に開かれた大会はどんなものだったのか」ーーー原田さんが京都府内の介護施設で暮らしていることがわかり、すぐに連絡をとりました。

「軍務公用です、直ちに家に戻ってください」

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「懐かしいなあ」ーーー当時の写真を見ながら振り返る原田さんは、ホームベースから眺めた景色を今でも覚えています。

バックスクリーンの写真には、スコアボードの左右に「勝って兜の緒を締めよ」「戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが書かれた横断幕が写っています。

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しかし戦時中の大会だということを最も表すものは、原田さんの言葉の中にありました。

「甲子園にはいっぱい入ってるでしょ、観衆。『何々様、軍務公用です。直ちに家に戻ってください』って流れるんですわ。するとみんな拍手ですわ。悲壮な時代でしたね」

このときも甲子園のスタンドは満員でした。アナウンスで召集令状が届いたことを知らせる、戦時色の強い大会だったのです。

兵士は戦場で交代できない

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戦争は、野球のルールさえも変えていました。

平安中学は、1回戦はノーヒットノーラン、2回戦も被安打1と、エース富樫投手の活躍で勝ち進みました。富樫投手は剛速球が売りでした。キャッチャーとして球を受け続けた原田さんが「おかげで今も手に血まめが残ってるんですよ」と話すほど。

しかし地方大会から連投につぐ連投で、富樫投手の肩が悲鳴を上げ始めているのが、原田さんには伝わってきました。痛み止めを打ちながら何とか決勝まで駒を進めましたが、限界をとうに超えていました。

ルールで、交代は認められていませんでした。「戦場で兵士は交代できない」というのが理由でした。

「富樫はまだ私は投げられますということでしたけどもね、でもあのときは全然。山なりのボールで。あんだけ速いボール投げていたけどもね。私のミットに届くのがやっとですわ」

延長11回の末、平安中学は押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫します。がっくりと肩を落とす原田さんの写真が残っています。

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この大会が、原田さんの最初で最後の甲子園になりました。

手には手りゅう弾、火薬

大会のあと、日本はさらに戦争へと突き進み、公式の大会はすべて中止となりました。平安中学野球部も廃部になります。ボールを握るはずの手で、武器を握る日々。学校では軍事教練で模擬手りゅう弾の遠投を競う「手りゅう弾投げ」が行われました。

肩を回復した富樫投手が投げた手りゅう弾が100メートル以上飛び、民家のガラスや屋根に当たって壊してしまうこともたびたびだったと、原田さんは回想します。大会から数か月後には勤労で火薬庫に務めていました。

「火薬詰めですよ。手真っ黄になってね」

平時であれば最後の大会を目指していたはずの翌18年の夏も、火薬庫の中で過ごしました。卒業後、原田さんは海軍へ。広島の呉で特殊潜航艇に乗り込み、沖縄への出撃の指示を待っていたと言います。幸い、潜航艇のたび重なる故障で出撃はないまま、終戦を迎えました。

「あとから知ったんやけどね、平安野球部の先輩も亡くなったしね。甲子園で戦った選手たちも戦争で死んどるんですわ」

「われわれはなにもわからんかったからね。結局意味がなかったわけですわな。負けて。みんなそう思ってるんちゃいますか」

原田さんの青春は、戦争に奪われました。

「幻の甲子園」母校の特別授業

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原田さんの経験は、後輩たちへと語り継がれています。龍谷大平安高校では、社会科の授業で毎年、「幻の甲子園」についての特別授業が行われています。時代背景を生徒に考えてもらうのが狙いです。

当時の大会について語ることができるのは、今では原田さんただ1人だけ。ことしは初めて、原田さんの証言が映像で紹介されました。

「スポーツのルールすらも、戦時下ではゆがめられてしまった」

記録に残らなかった大会が今に伝えるメッセージを、生徒たちは一生懸命理解しようとしていました。

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軟式野球部のマネージャーの女子生徒は「平和だからこそ中断とかなしに野球ができているわけやし、自分たちの好きな野球をできるのはありがたいことやと思います」と話していました。

“もう2度と戦争はかなわんね”

部屋を訪れると、原田さんは大リーグ、エンジェルスの試合を観戦していました。

「大谷いいよね、打てるし走れるし投げられるし。すごい選手やわ」

原田さん、実は大谷翔平選手の大先輩にあたります。終戦後、大学で野球を再開し、北海道日本ハムファイターズの前身、東急(東映)フライヤーズに入団。8年間のプロ生活では、4番も務めました。今でも毎日、プロ野球や大リーグの中継を見るのが日課です。

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テーブルには応援のときに誇らしげに見せてくれた野球部の帽子が、大切に置かれていました。

「幻の甲子園とよく言われるけどね。幻とは思いたくないしね。実際に甲子園の土踏んで来たんやからね。戦ってきたんやから」

原田さんにとって、あの大会は幻ではありません。

「101回になるね。ことしはね。わしらの大会を入れてもらえば。幻の大会も、今後はもう開かれんやろ。そう思わん?」

「もう2度と戦争はかなわんね。もうないでしょ、何があっても、もうないでしょ。そう思わん?」

幻と呼ばれる大会は、あの1度だけでいいーーーそれが原田さんの思いです。

佐藤 崇大
京都放送局記者
佐藤 崇大