ニュース画像

WEB
特集
都心に消えた“幻の遺跡”を追え

東京のど真ん中で「幻の遺跡」が見つかった。そんな情報を知らせるメールが届きました。その遺跡は、明治時代に発見の記録が残されているものの、その後、所在がわからなくなっていたと言います。密林や砂漠でもないのに、遺跡の場所がわからなくなるなんてことがあるの?調べていくと、東京の都心部では、所在不明になったり、全く知られていなかった遺跡が見つかる事例がほかにもいくつかあることがわかってきました。“都心に消えた遺跡”の秘密を探ります。(ネットワーク報道部記者 高橋大地)

東京都心部で縄文遺跡が

「池袋で、『幻の貝塚』として知られる遺跡が見つかったらしい」
知り合いの考古学者から記者のもとに1通のメールが届きました。

「あの池袋に遺跡?」「幻の貝塚?」
これは大ニュースではないかと、早速、現地に向かいました。

ニュース画像

池袋駅から1.6キロほどの教えられた住所を目指して住宅街を歩いて行くと、そこだけぽっかりと浮いたような空き地で発掘作業が行われていました。
豊島区の教育委員会による調査の真っただ中でした。

ニュース画像

次々に掘り出されていたのは、白っぽい塊。ハマグリやカキなどの貝です。
イノシシやシカなどの動物の骨も見つかっていました。

ニュース画像

土器の破片も大量に見つかっていて、型式から、3000年から4000年前の縄文時代後期の遺跡だと言うことでした。

さらに、当時の人が土を盛りあげて作った「盛り土遺構」や、火を使った跡も確認され遺跡は、集落の一角だったと見られます。

ニュース画像

120年間 幻の遺跡だった

こんな都心部で大規模な遺跡が見つかるなんて、それだけでも驚きでしたが、この遺跡の由来を聞いて、さらに、驚くことになりました。

この遺跡、実は、およそ120年前の明治時代の後半に、地元の考古学者、蒔田鎗次郎によって発見されたという記録が残されていたのです。

しかし、発見からほどなく、遺跡の周辺は急速に宅地化が進み、本格的な調査が行なわれないまま、その行方がわからなくなってしまっていたのです。

当時の記録が、東京大学の考古学研究室に残されていると聞いて調べに行きました。

ニュース画像

記録は、明治29年に発行された「東京人類学会誌」にありました。
この中に載っていた蒔田の論文に、遺跡の規模や発見状況が報告されていました。

「貝層ハ地下殆ンド一尺程ノ所ニアリテ断面ハ竹薮中ニ露出セリ」
面積は「凡ソ二十間平方モ有ナラント察セラル」

ニュース画像

遺跡は、「池袋東貝塚」と名付けられていましたが、発見場所については大まかにしか記載されていませんでした。

昭和になってからも地元の文化財担当者や研究者らが探し続けてきましたが、見つけることができず、戦災や戦前・戦後の開発などで失われた可能性も指摘され、「幻の貝塚」とされてきたのです。

事態が動いたのは、去年、10月。古くなった建物の建て替え工事が行われた際に、地面の約20センチ下から大量の土器や貝が見つかったのです。

当時の記録と、出土した遺物や場所がおおむね一致したことなどから「池袋東貝塚」だと確認されました。実に120年ぶりのことでした。

現地で遺跡を確認した明治大学の阿部芳郎教授は「東京では縄文時代後期の集落の遺跡が見つかることは少なく、当時の人々の生活の実態を知るうえで重要な発見だ。遺跡の保存状態が良いので、今後、調査をすれば、周辺で大規模な集落が確認できる可能性も高いのではないか」と話しています。

ニュース画像

所在不明 論争の末に…

かつて発見された古代都市が、密林のジャングルに埋もれてしまった…砂漠の隊商の街が月日とともに失われていった…。そんな話は聞いたことがありますが、そもそも大都会の東京で「遺跡の行方がわからなくなる」なんてことがあるのでしょうか。

専門家に詳しく話を聞くと、実は、こうした事例は珍しくないことがわかりました。

ニュース画像

日本人なら誰もが歴史の授業で習ったことのある「大森貝塚」。明治10年、現在の大田区のJR大森駅からほど近い場所で、アメリカの動物学者エドワード・S・モースが発掘した縄文時代のこの遺跡も、実は、いったん、その所在が「不明」になっていました。

ニュース画像

原因は、やはり、開発で周辺の景観が大きく変わったこと、そしてモースが住所や地図などはっきりとした場所を報告書に記載していなかったことでした。

大森貝塚は、日本初の学術的な発掘調査が行われたことから「日本考古学発祥の地」ともされる重要な遺跡です。

それだけに、その「本家」となる場所をめぐって、一時、論争が起きました。

昭和4年には品川区側に「大森貝塚」と書かれたモースの発掘を記念する石碑が。そして、その翌年には大田区側にも「大森貝墟」と書かれた石碑が建てられました。

ニュース画像

大森駅が大田区側にあるため、当初は保存活動やイベントなども大田区側が盛んでしたが、その後、昭和59年に品川区が行った発掘調査で、モースの報告内容に合致する貝の層が見つかりました。そのため、現在では品川区側でモースが調査を行った可能性が高いと考えられています。
2つの石碑は、現在も区をまたいで数百メートルの場所に立っています。

今も謎のまま「弥生式土器」発見地点

さらに、はっきりした場所がわからず、論争が続いている遺跡もあります。

弥生時代の名前の由来になった「弥生式土器」が初めて発見された場所です。

ニュース画像

重要文化財に指定されている赤焼きのつぼの写真、教科書で見たことがあるという人も多いと思います。

発見したのは、東京大学の人類学者、坪井正五郎など3人。明治17年のことで、見つけたのは東京大学本郷キャンパスの裏手でした。

ニュース画像

発見された場所は「弥生町」で、その地名をとってのちに「弥生式土器」と名付けられましたが、こちらもまた、周辺の宅地化や発見地点に関する証言の曖昧さから、弥生町のどこの場所かわからなくなっています。

こちらは、なんと候補地が6つほどあると言うので、現地を歩いてみました。

ニュース画像

手がかりになるのは、当時の記録にある「根津に臨んだ崖際」「根津の街を眼下に見る丘」などの記述です。根津は、上野公園の北西に位置します。

候補地は、千代田線の根津駅から言問通り沿いの坂をのぼった高台にあります。

①最初に訪ねたのは、言問通りから道を北に入った、異人坂という坂の頂上付近。

ニュース画像

坪井が残したスケッチの風景と似ていることから有力な候補地とされています。地形の高低差が当時の風景を思い起こさせます。

②続いて、東京大学工学部のキャンパス内。建物の裏手付近です。

ニュース画像

昭和50年に行われた発掘調査で、貝や弥生土器が見つかり、「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定されています。そして、ここからは確かに、根津の街が眼下に見えました。しかし、この場所は、貝層を構成する貝の種類が、記録と異なるなど、反論もあります。

③さらに、言問通り沿いにある「弥生式土器発掘ゆかりの地」という石碑。

ニュース画像

ここは、どうやら、記念の石碑を建てただけで、正確な出土地点ではないようです。

このほかにも、東京大学農学部のキャンパスの中④と東側⑤、それに工学部と農学部の境界辺り⑥も候補地とされています。

ニュース画像

いずれの候補地も、現在は多くの建物が建ち並び、当時の風景を想像することさえ難しい状態でした。それでも現場を歩いてみることで、この辺りに弥生時代の集落があったのだな、という感触は確かに得ることができました。

消えてまた見つかった「幻の遺跡」

ここまで、池袋東貝塚を含めて3つの遺跡を見てきましたが、いずれにも共通しているのが「明治時代に発見されている」ものの、「宅地化など開発の影響で場所がわからなくなった」という点です。

すでに触れたように、日本の考古学が始まったのは、明治10年、モースが大森貝塚を発掘した時からだとされています。しかし、日本に考古学的な手法が持ち込まれたあとも、遺跡などの埋蔵文化財を保護する法律の整備はすぐには行われませんでした。

モースのあとを追い、明治以降、日本人の研究者たちによって次々と遺跡が発見されたものの、その後、急速に進んだ宅地開発によって、姿を消してしまったのです。

一方、幸運だったとも言える情報も聞くことができました。

明治や大正、戦前までの宅地開発では、現在のように地面を深く掘り返していないので、遺跡は、完全には破壊されず、地下に埋もれたまま“保存された状態”になっているケースも多いというのです。

ニュース画像

「今回の池袋東貝塚のように、建物の建て替えなどでふとした拍子に再発見されるということは今後も期待できる」(阿部教授)

あなたも遺跡探しの旅へ

東京の都心部で、住宅や高層ビルの森に埋もれ、ひっそりと身を潜めていた遺跡が、たまたま私たちの前に姿を現した、というのが「幻の遺跡」の正体でした。

私たちが今いるこの街の地面を掘り返してみると、数千年、数万年の人々の暮らしの営みがあちこちに痕跡として残っています。その一方、地上の街の風景は、数十年、ときには数年でがらりと変わってしまいます。

ニュース画像

今回紹介した遺跡以外にも、所在がわからなくなっている“都心に消えた遺跡”は、23区内にいくつもあると言います。

遺跡の分布を示した「埋蔵文化財包蔵地分布図」が公開されていますので、その地図を手にぜひ街を歩いてみて下さい。もしかしたらあなたも「幻の遺跡」を発見できるかもしれません。

高橋大地
ネットワーク報道部記者
高橋大地