外したことがない 自信のあったPK
2大会連続の代表となった駒野選手は、1次リーグの3試合すべてでディフェンダーとして先発出場し、日本の決勝トーナメント進出に貢献していました。

日本の初めてのベスト8がかかる決勝トーナメントは0対0のまま延長戦でも決着がつかず、ペナルティーキック戦に。駒野選手は3人目に蹴るよう当時の岡田武史監督に告げられました。
駒野選手
「ペナルティーキック戦の前に円陣を組んだとき、監督から蹴る選手と順番を伝えられました。PKに苦手意識はなかったですね。むしろ得意だったかな」
2007年のアジアカップでは、2回のペナルティーキック戦に臨み、いずれも決めていたほか、練習でもほとんど失敗していませんでした。
ワールドカップの大舞台で3人目に蹴ると決まったあとも冷静で、1人目、2人目と両チームの選手が成功するなか、相手ゴールキーパーの動きを観察していました。

3人目の駒野選手はゴール左隅を狙って蹴ることを決めて、ボールを置きました。
ゴール正面の位置から、一歩、二歩と後ろに下がります。
主審の笛の音を聞き、短い助走からボールを蹴る瞬間でした。
ゴールキーパーが自分が蹴ろうとしていた左にわずかに動いたと言います。その姿に反応し、とっさにゴールキーパーが届く可能性が低い、左上にボールの方向を変えたのです。
ボールは惜しくもクロスバーに当たり、そのまま枠の外へと飛んでいきました。ゴールを決められなかった駒野選手は天を仰いで頭を抱えました。
このあとパラグアイの選手がすべてゴールを決め、日本は敗れました。
涙を流し、顔を上げず、敗退の責任をすべて1人で背負い込んでいました。同学年の松井大輔選手や阿部勇樹選手に支えられながらピッチをあとにしました。

駒野選手
「やってしまったなぁと。両チームあわせて自分だけしか失敗はしていなかったので、すごい責任が重いというか。自分の失敗で負けてしまったという思いがあったので、僕自身は他の選手と目を合わせることができなくてずっと下を向いていました」
「あまりはっきりと誰がどうして励ましてくれたとか、どう声をかけてくれたとか『そこからあまり記憶がないんです』。松井選手が肩を抱いて泣いてくれていたのもあとになってわかりましたし、そのときは本当に誰がどうしてくれたとか本当にわからなかったです」
救ったのはファンと家族
みずからを責め続け、サッカーを嫌いになっていた駒野選手を救ったのがファンと家族の存在でした。
関西空港に帰国した駒野選手。当時所属していたJリーグ・ジュビロ磐田の広報担当者は心配して車で迎えに来ました。
そのとき、手渡されたファックスに書かれていた言葉を今もはっきりと覚えています。
駒野選手
「チームに届いたファックスを持ってきてくれたんですけど、8割の人が『感動しました』、『前を向いて帰ってきて下さい』という励ましのメッセージでした。2割の人が厳しい言葉だったんですけど、励ましの言葉を読んだときはすごく感動しました」
帰国直後は、外で人とすれ違うことも怖かったという中、笑顔を取り戻すきっかけをくれのたのは幼い娘でした。
駒野選手
「チームから休みをもらっていたので、周りを気にしないようなところに行こうということで、旅行しました。プールやホテルの部屋にいたんですけど、娘は小さかったので状況も把握していなくて、ずっと笑顔でいてくれるんですよね。その笑顔に自分も笑うことになってしまって、その頃からまたサッカーやりたいなってそういう気持ちになってきました。笑顔を引き出してくれた子どもの存在が大きかったですね」
経験を伝え続ける

あれから12年。
ワールドカップのあとも、Jリーグなどでプレーしてきた駒野選手は41歳になりました。
7年前にできたクラブ、今はJ3の今治FCに所属し、あのペナルティーキックでの苦い経験も含めて、若い選手に伝えています。
駒野選手
「サッカー選手である以上、誰もがワールドカップ出場を目指しているので、日本代表はこういうところだよって話すことで目標を持ってもらえたら成長してくれると思います。南アフリカ大会ではゴールキーパーの川口能活さんがベテランとして選ばれました。川口さんは試合にほぼ出られない状況であっても練習から100%で常にやっていた。それを見ている若い選手は刺激になりました」

駒野選手
「そうしたベテランの姿勢によって、チームの和や団結力が生まれることをワールドカップで学んだので、僕自身もそういう存在になれるようにもっと取り組んでいきたいと思っています」

最後にカタール大会に挑む日本代表にエールを送ってくれました。
駒野選手
「今までやってきたプレーだったり、そういうことをやることだけを心がけてやってもらいたいですし、やはり日本は組織だったり、団結力が強い国なので、そこを前面に出して戦ってほしいですね」