第1回 1930年 ウルグアイ大会
~開催国が初代のチャンピオンに~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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7月13日~30日 | 13 | ウルグアイ |
記念すべき第1回大会には、13チームが出場しました。
▽南米からアルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ペルー、ウルグアイ▽北中米からメキシコ、アメリカ▽ヨーロッパからは、ベルギー、フランス、ルーマニア、旧ユーゴスラビアでした。
このうちヨーロッパの4チームは、12日間の船旅で開催地のウルグアイに到着しました。
大会には、合わせて59万549人が訪れました。
決勝は南米のチームどうしの対戦となり、ウルグアイがおよそ9万人の観客の前でアルゼンチンに4対2で勝って初代の優勝チームに輝きました。
第2回 1934年 イタリア大会
~初代チャンピオン ウルグアイ不在の大会~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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5月27日~6月10日 | 16 | イタリア |
この大会の前からワールドカップに出場するための予選が始まり、開催国を含む32チームが参加しました。この予選を勝ち上がった16チームが本大会に進み、アフリカからエジプトが初めて出場しました。大会には、合わせて36万3000人が訪れました。
優勝したのは開催地のイタリア。決勝で当時のチェコスロバキアに延長戦の末、2対1で勝ってヨーロッパのチームとしては初めてとなる優勝を果たしました。
一方、前回優勝したウルグアイは、前回大会でイタリアが長距離移動を理由に参加しなかった報復として出場を見送り、初代チャンピオンが出場しない異例の事態となりました。
第3回 1938年 フランス大会
~第2次世界大戦前 最後~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月4日~19日 | 15 | イタリア |
フランス大会には16チームが出場する予定でしたが、大会3か月前にオーストリアがナチス・ドイツに併合されたため15チームで争われました。
合わせて37万5700人の観客が訪れました。
優勝はイタリアで連覇を果たしました。
第2次世界大戦前、最後の大会となり、次の第4回は12年後の1950年にブラジルで開催されました。
一方、日本は初めてワールドカップ予選にエントリーしましたが、日中戦争の中国での戦線の拡大に伴い棄権しました。
第4回 1950年 ブラジル大会
~マラカナンの悲劇~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月24日~7月16日 | 13 | ウルグアイ |
ワールドカップは、1938年に第3回のフランス大会が開催されたあと、第2次世界大戦の影響で中断していました。
この大会に訪れた観客は合わせて104万5246人。初めて100万人を超えました。
13チームが出場し、グループリーグのあとの試合が決勝トーナメントではなく、唯一、リーグ戦で争われました。
この大会は、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を果たしました。
初優勝を目指していた開催国のブラジルは、決勝リーグの最終戦で、1対2でウルグアイに逆転負けを喫し「マラカナンの悲劇」と呼ばれました。
一方、日本は第2次世界大戦の際にFIFA=国際サッカー連盟から除名され、復帰が間に合わなかったため、初めての予選出場はなりませんでした。
マラカナンの悲劇とは

ブラジルはワールドカップに唯一、第1回大会から連続で出場し続けていて、通算優勝回数は最多の5回を誇ります。
「サッカー王国」と呼ばれるブラジルのワールドカップの歴史で語り継がれているのが「マラカナンの悲劇」です。
1950年にブラジルで初めて開催されたワールドカップで、初優勝がかかった決勝リーグの最終戦に臨みました。
7月16日にリオデジャネイロにある会場のマラカナンスタジアムを訪れたのは実におよそ20万人。国民の期待は高まる一方でしたが、ウルグアイに1対2でまさかの逆転負けを喫しました。
優勝が国民の目の前で消滅した「マラカナンの悲劇」と呼ばれています。
第5回 1954年 スイス大会
~初のテレビ中継 予選に日本初出場~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月16日~7月4日 | 16 | 西ドイツ |
合わせて76万8607人の観客が訪れ、大会の模様は初めてテレビ中継されました。
決勝は、1950年からの4年間に渡り国際試合で無敗を誇ったハンガリーと、当時の西ドイツの対戦となり、西ドイツが3対2で勝って初優勝を果たしました。
一方、日本は、1950年にFIFA=国際サッカー連盟に復帰し、ワールドカップの予選に初めて出場しました。
しかし、韓国との2試合で1敗1引き分けとなり出場を逃しました。
ここから日本は、1998年のフランス大会での初出場まで、実に50年近くかかることになります。
第6回 1958年 スウェーデン大会
~「13」 今も残る1大会の最多得点記録~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月8日~29日 | 16 | ブラジル |
大会には合わせて81万9810人が訪れました。
決勝は、開催国のスウェーデンとブラジルの対戦となり、ブラジルが5対2で勝って、初優勝を果たしました。
ブラジルを支えたのが、当時17歳、背番号10をつけて出場した、あのペレ選手でした。
ペレ選手は準決勝でハットトリックを達成し、決勝では2得点を挙げるなどチーム最多得点となる6ゴールをマークしました。

そのペレ選手を上回るゴールを決めたのが、フランスのジュスト・フォンテーヌ選手で6試合で13得点を挙げました。
1大会の最多得点記録「13」は60年以上たった今も破られていません。
第7回 1962年 チリ大会
~ブラジルが連覇~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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5月30日~6月17日 | 16 | ブラジル |
16チームが出場し合わせて89万3172人が訪れました。
この大会でブラジルは、エースのペレ選手が2試合目にケガをして、その後の試合を欠場。それでもババ選手やガリンシャ選手などの活躍で、順当に決勝トーナメントを勝ち上がりました。
決勝では当時のチェコスロバキアに3対1で勝って連覇を果たしました。
大会連覇はイタリアに次いで2チーム目で、南米からの出場では初めての快挙となりました。
第8回 1966年 イングランド大会
~サッカーの母国・イングランドが初優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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7月11日~30日 | 16 | イングランド |
大会には初めて150万人を超える合わせて156万3135人が訪れました。
決勝は初優勝を目指すイングランドと、のちに「皇帝」と呼ばれる当時20歳のフランツ・ベッケンバウアー選手を擁する当時の西ドイツの対戦でした。
試合は延長戦に入り、イングランドのジェフ・ハースト選手が2得点を挙げて、この試合でハットトリックを決めました。
開催国のイングランドが4対2で勝って、初優勝を果たしました。
この大会では、北朝鮮がグループリーグでイタリアから白星を挙げるなど1勝1敗1引き分けの成績で、アジアのチームとしては初めて決勝トーナメントに進みました。ベスト8の成績を残して歴史に名を刻みました。
第9回 1970年 メキシコ大会
~ブラジルが3回目の優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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5月31日~6月21日 | 16 | ブラジル |
初めてヨーロッパと南米以外で開催され、16チームが出場しました。また多くの試合がテレビで生中継されました。大会を通して合わせて160万3975人が訪れました。
決勝は、ブラジルがペレ選手(4大会連続出場)を中心にしたチームで、イタリアに4対1で勝って3回目の優勝を果たしました。
この大会は、当時の西ドイツのゲルト・ミュラー選手が10得点を挙げて得点王に輝きました。
第10回 1974年 西ドイツ大会
~“皇帝”対“空飛ぶオランダ人”の対決~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月13日~7月7日 | 16 | 西ドイツ |
当時の西ドイツで開かれた大会には、合わせて186万5753人が訪れました。
この大会では1次リーグのあと、2次リーグが行われる方式が採用され、決勝は当時の西ドイツとオランダが対戦しました。
西ドイツは「皇帝」と呼ばれたフランツ・ベッケンバウアー選手がキャプテンを務めました。
相手のオランダは、「空飛ぶオランダ人」の異名を取ったヨハン・クライフ選手を中心に全員攻撃・全員守備の「トータルフットボール」と呼ばれた戦術を用いて、一時代を築いていました。
サッカーの歴史に残るスター選手どうしが臨んだ決勝は西ドイツが2対1で勝って、1954年の第5回大会以来となる2回目の優勝を果たしました。
前回大会で3回目の優勝を果たしたブラジルに優勝トロフィーの「ジュール・リメ」が授与されたため、この大会から新しいトロフィーになりました。
現在のトロフィーは、2005年にデザインと重さがわずかに改良された3代目で、2006年のドイツ大会から使われています。
トータルフットボールとは

ヨハン・クライフ選手が中心として活躍していた1970年代のオランダ代表は「トータルフットボール」と呼ばれた戦術で、世界のサッカー界に大きな衝撃を与えました。
それまでのサッカーはフォワード、ミッドフィルダー、ディフェンダーというポジションごとに役割が分かれたプレーが中心でしたが、当時のオランダ代表は、選手たちがポジションにこだわらず、全員攻撃、全員守備を行うスタイルを確立させたものでした。
その力が発揮されたのが、1974年のワールドカップ西ドイツ大会で、クライフ選手を中心としたオランダ代表は、圧倒的な攻撃力と、全員が守備をする「トータルフットボール」で快進撃を続けて決勝に進みました。
決勝では当時の西ドイツ代表に敗れましたが、オランダ代表の戦術は、その後のサッカー界に大きな影響を与えました。
第11回 1978年 アルゼンチン大会
~アルゼンチン 地元開催で念願の初優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月1日~25日 | 16 | アルゼンチン |
この大会は合わせて154万5791人が観戦しました。
前回の第10回大会と同じ、1次リーグのあとに2次リーグを行う方式が採用されました。
2次リーグの2つの組の1位どうしが決勝で対戦しました。
決勝は、アルゼンチンとオランダが対戦し延長の末、アルゼンチンが3対1で勝って地元開催で念願の初優勝を果たしました。
決勝では「闘牛士」の異名を持つマリオ・ケンペス選手が先制点と延長戦で勝ち越しゴールを決め、勝利に貢献しました。
この大会で通算6得点を挙げたケンペス選手は、得点王と大会MVP=最優秀選手に輝きました。
また、この大会から延長戦のあとにペナルティーキック戦を行う方式が導入されましたが、実際に行われた試合はありませんでした。
第12回 1982年 スペイン大会
~ロッシの活躍でイタリア3回目の優勝 マラドーナがW杯デビュー~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月13日~7月11日 | 24 | イタリア |
この大会から出場チームが増え、24チームで争われました。
大会には、合わせて210万9723人が訪れ、初めて200万人を超えました。
大会方式は、4チームずつ6つのグループによる1次リーグのあと、各グループの上位2チームが2次リーグに進出。2次リーグは3チームずつ、4つのグループで、各グループ1位のチームが決勝トーナメントに進みました。
現在のワールドカップで行われている決勝トーナメントは、この大会から取り入れられました。
2次リーグ最終戦では、イタリアとブラジルの強豪どうしが対戦。イタリアサッカー界のレジェンドと言われるパオロ・ロッシ選手が中心のチームで、ブラジルはのちに日本代表の監督を務めることになるジーコ選手などが出場しました。

試合は、ロッシ選手がハットトリックの活躍で、イタリアが決勝トーナメントに進出。決勝に勝ち進んだイタリアは、ともに3回目の優勝を目指す当時の西ドイツと対戦しました。
ロッシ選手は決勝でも先制点を挙げるなどの活躍を見せて、イタリアが3対1で勝ち3回目の優勝を果たしました。
大会通算6得点をマークしたロッシ選手が、大会MVP=最優秀選手と得点王を獲得しました。
またこの大会では、アルゼンチンのディエゴ・マラドーナ選手がワールドカップに初めて出場したほか、準決勝の西ドイツ対フランスではワールドカップで初めてとなるペナルティーキック戦が行われました。
第13回 1986年 メキシコ大会
~マラドーナの“神の手”とあの“5人抜き”は同じ試合~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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5月31日~6月29日 | 24 | アルゼンチン |
合わせて239万4031人が訪れました。
この大会で注目を集めたのは、当時25歳だったアルゼンチンのエース、マラドーナ選手でした。伝説のプレーとして語り継がれているのが、準々決勝のイングランドとの一戦です。
マラドーナ“神の手”
0対0で迎えた後半6分、イングランドのペナルティーエリア内で浮き球をはじき出そうとしたゴールキーパーと、左腕を頭上に上げてジャンプしたマラドーナ選手が競り合いました。
マラドーナ選手に触れたボールは、そのままゴールに吸い込まれていきました。
記録もマラドーナ選手の得点となっています。

このシーン。
映像ではボールは頭ではなく、マラドーナ選手の左手に当たっているように見えます。このゴールは、マラドーナ選手の「神の手ゴール」として語り継がれています。
5人抜き
このゴールからわずか4分後、さらに世界中を驚かせるプレーがありました。

自陣でボールを受けたマラドーナ選手は、そばにいた相手2人に囲まれますが、まず巧みなボールタッチでかわしました。
ここから一気にスピードを上げて、イングランドの陣内深くまで進み、さらに2人を抜きました。
最後は飛び出してきたゴールキーパーもかわして、誰もいないゴールにボールを流し込みました。
当時、NHKアナウンサーとしてこの試合を実況した山本浩さんは「マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ来た~!。マラドーナ~っ!」と伝え、選手の名前を連呼する実況が多くの人の記憶に残りました。
このときの実況について山本さんは、2020年にマラドーナ選手が亡くなった際に振り返り「さわっていないのに相手選手がバタバタと倒れ、磁石にはじかれたように遠ざかっていく。あのようなシーンは他のプレーで見たことなく『マラドーナ』としか実況しようがなかった」と話しています。
この試合はマラドーナ選手の2ゴールの活躍で、アルゼンチンは2対1で勝利しました。
その後も勝ち進んだアルゼンチンは、決勝で西ドイツに3対2で競り勝って、2回目の優勝を果たしました。
マラドーナ選手は7試合で、5得点・5つのアシストの大活躍で、まさに「マラドーナのための大会」となったのです。

この大会、このほかの準々決勝でも記憶に残る試合がありました。フランス対ブラジルです。フランスは華麗なパスワークに高い得点能力も兼ね備えた世界的なプレーヤー、プラティニ選手が中心。一方のブラジルは、のちに日本代表監督も務めたジーコ選手などが出場しました。プラティニ選手のゴールで1対1の同点となった試合。ブラジルが後半、相手の反則で得たペナルティーキックを途中出場のジーコ選手が狙いましたが決められず、延長に入りました。そのまま両チーム無得点でペナルティーキック戦となり、プラティニ選手は外しましたが、フランスが制しました。準決勝で西ドイツに敗れましたが、フランスは3位決定戦でベルギーに勝って3位となりました。
第14回 1990年 イタリア大会
~ベッケンバウアー監督の西ドイツが優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月8日~7月9日 | 24 | 西ドイツ |
合わせて251万6215人が訪れたイタリア大会。開幕戦では、前回大会で優勝した強豪・アルゼンチンがカメルーンと対戦しました。
この試合では、カメルーンが前評判を覆して1対0で勝つ番狂わせ、いわゆる「ジャイアントキリング」をしました。

カメルーンは、エースで38歳のロジェ・ミラ選手を中心としたチームで勝ち進み、アフリカ勢として初めてベスト8に進出しました。
決勝は、フランツ・ベッケンバウアー監督が率いる当時の西ドイツと、ディエゴ・マラドーナ選手を中心としたアルゼンチンが対戦。前回の第13回大会と同じ顔合わせとなりました。
試合は西ドイツが1対0で競り勝って3回目の優勝を果たしました。
ベッケンバウアー監督は、選手と監督の両方でワールドカップ優勝を経験しました。
大会後に東西のドイツ統一を控えていたため、これが西ドイツとして出場した最後のワールドカップでした。

この大会では、開催国・イタリアの選手で、のちに日本のJリーグでも活躍したサルヴァトーレ・スキラッチ選手が通算6得点を挙げて大会MVP=最優秀選手と得点王を獲得しました。大会開幕前は控えメンバーでしたが、1次リーグの途中出場でゴールを決め、その後、先発に定着しました。
愛称は「トト」、「幸運」を意味することばです。
この大会には、のちに日本サッカー界に大きな功績を残した2人も。旧ユーゴスラビア代表、ストイコビッチ選手とオシム監督です。愛称は妖精“ピクシー”、ストイコビッチ選手は華麗なプレーでチームを引っ張りました。のちに日本代表監督も務めたオシム監督に率いられたチームはベスト8に進出。準々決勝でアルゼンチンにペナルティーキック戦の末、敗れましたが大きな印象を残しました。
第15回 1994年 アメリカ大会
~決勝 バッジョがPK外しイタリア敗れる 日本は「ドーハの悲劇」で出場できず~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月17日~7月17日 | 24 | ブラジル |
アメリカで開催されたこの大会は、過去最多となる合わせて358万7538人が訪れました。
前回大会で優勝した西ドイツは東西が統一され「ドイツ」として臨みましたが準々決勝で敗退。前回準優勝のアルゼンチンは、ディエゴ・マラドーナ選手の薬物の使用が発覚して出場停止処分を受けたことなどが影響し、決勝トーナメントで敗れました。
波乱の大会となりましたが、決勝はともに当時3回の優勝経験があるブラジルとイタリアが対戦しました。
ブラジルは、のちに日本のJリーグでも活躍しブラジル代表の監督を務めたドゥンガ選手がキャプテンを務めました。
一方、イタリアは、スーパースターのロベルト・バッジョ選手が中心でした。
バッジョ選手は当時、ヨーロッパで最も活躍した選手に贈られていた「バロンドール」を受賞していました。
試合は、延長戦を終えても0対0のまま決着がつかず、ワールドカップの決勝で初めてペナルティーキック戦が行われました。
ペナルティーキック戦ではイタリアの5人目、バッジョ選手が外した結果、ブラジルが3対2で制し、4回目の優勝を果たしました。
ドーハの悲劇も

一方、日本は、1993年10月にカタールのドーハで行われたアジア最終予選の最終戦でイラクと対戦し、勝てばワールドカップ初出場が決まる大一番でした。
しかし、1点リードの終了間際に同点に追いつかれて2対2の引き分けに終わり、あと一歩のところでワールドカップの道は閉ざされました。
この試合で出場を逃したことは「ドーハの悲劇」として語り継がれていて、当時25歳で選手として出場していたのが日本代表の森保一監督です。
第16回 1998年 フランス大会
~日本が初出場 地元フランスが初優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月11日~7月12日 | 32 | フランス |
合わせて278万5100人が訪れたこの大会から出場チーム数が8つ増えてカタール大会と同じ32チームとなりました。1次リーグが4チームずつ8つのグループで行われ、各グループ上位2チームの16チームが決勝トーナメントに進む方式となりました。
大会には、フランスのジネディーヌ・ジダン選手、ブラジルのロナウド選手とロベルト カルロス選手のほか、イングランドのデビッド・ベッカム選手とマイケル・オーウェン選手など、多くのスター選手が出場し活躍しました。
決勝は地元で初優勝を目指すフランスと、当時最多の4回の優勝を誇るブラジルが対戦しました。ジダン選手がヘディングシュートで2得点を決める活躍もあり、フランスが3対0で勝って、念願の初優勝を果たしました。

3位決定戦は、初出場のクロアチアがオランダに2対1で勝って3位に入りました。
得点王は、6ゴールを挙げたクロアチアのシュケル選手が輝きました。
日本が初出場

日本がワールドカップ予選に初めて出場してから40年余り、初出場の初戦はトゥールーズで行われ、南米の強豪、アルゼンチンと対戦しました。
スピードと技術がすぐれたアルゼンチンに対して、日本はボールを持った選手にプレッシャーをかける組織的な守りで対抗したものの、前半28分に隙を突かれてバティストゥータ選手に先制点を奪われました。その後、日本はチャンスを作りましたが、ゴールはならず、0対1で敗れました。
第2戦はナントで行われました。日本と同じ、初出場のクロアチアとの対戦でした。当時21歳の中田英寿選手を起点にチャンスを作りましたがゴールを決められず、前半を0対0で終えました。
互いに得点がないまま迎えた後半32分、相手のエース、シュケル選手に先制点を奪われ、そのまま0対1で敗れて2連敗となり、1次リーグでの敗退が決まりました。
最後の第3戦はリヨンで行われ、ジャマイカと初出場どうしの対戦でした。日本は前半39分と後半9分に相次いで失点し、2点を追う展開となりました。
後半29分、左サイドの相馬直樹選手からのクロスボールを呂比須ワグナー選手が頭で落とし、最後はゴール前に飛び込んだ中山雅史選手が右足で押し込んで決めました。
日本のワールドカップ初得点となった中山選手のゴールでした。

試合はそのまま1対2で敗れ、初めてのワールドカップは3戦3敗、勝ち点「0」に終わりました。
予選・ジョホールバルの歓喜

日本は、このフランス大会に向けてアジア地区第3代表決定戦でイランと対戦。延長戦で岡野雅行選手がゴールを決めて、初めてのワールドカップ出場を決めました。
アジア最終予選の途中から指揮を執った岡田武史監督は、ワールドカップ直前のメンバー選考で、長く日本のサッカー界をけん引してきた三浦知良選手や、北澤豪選手などをメンバーに選ばずに本大会に臨みました。
第17回 2002年 日韓大会
~日本が初のベスト16 ブラジルが最多5回目の優勝~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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5月31日~6月30日 | 32 | ブラジル |
アジアで初めて開かれた大会は、日本と韓国による共同開催となりました。開催国の日本と韓国、それに前回大会優勝のフランスを含む32チームが出場し、合わせて270万5197人が訪れました。
前回優勝のフランスや、2001年の「バロンドール」に選ばれたルイス・フィーゴ選手を擁するポルトガルとアルゼンチンが1次リーグで相次いで敗退する波乱の大会となりました。
日本は目標の決勝トーナメントに勝ち進んで、ベスト16に入り、韓国がアジアで過去最高となる4位に入るなど、大会を大きく盛り上げました。

横浜国際競技場で行われた決勝は、ドイツとブラジルの強豪どうしが顔を合わせ、6万9029人が訪れました。
ブラジルは、エースのロナウド選手とリバウド選手、それにロナウジーニョ選手の個人技を中心とした攻撃で臨み、ドイツは、ゴールキーパーのオリバー・カーン選手を中心とした堅い守りが持ち味でした。0対0で迎えた後半にブラジルのエース、ロナウド選手が2ゴールを決め、2対0でブラジルが勝って最多となる5回目の優勝を果たしました。
得点王は、8ゴールを挙げたロナウド選手が輝きました。
日本は初の勝ち点に初勝利 初の決勝トーナメント進出
開催国枠で予選を免除された日本は、大会に向けてフランス出身のフィリップ・トルシエ監督を招いて、4年間かけてチームを作り上げてきました。

トルシエ監督は、20歳前後の若い世代を中心に育成を強化し、ディフェンダー3人を横一列に並べる「フラットスリー」という守備陣形を取り入れました。ボールを奪ってから、素早く攻撃を組み立てる戦術を徹底して大会に臨みました。
日本は初戦でベルギーと対戦しました。会場の埼玉スタジアムには5万5256人が集まりました。

日本は後半12分、先制点を奪われましたが、その2分後、小野伸二選手が出したパスに鈴木隆行選手が抜け出すと、右足を目いっぱい伸ばして同点ゴールを決めました。

後半22分には、稲本潤一選手が相手のディフェンダーをかわして豪快にシュートを決め勝ち越しました。しかし、後半30分にディフェンス陣が隙を突かれて失点した日本は、2対2で引き分けました。日本はワールドカップで初めての勝ち点「1」を獲得しました。

2試合目は横浜国際競技場でロシアと対戦し6万9029人が訪れました。前の試合で途中出場の宮本恒靖選手と、出場機会のなかった明神智和選手がそれぞれ先発に起用されました。

両チームともに無得点のまま迎えた後半6分、稲本選手がゴールを決めて先制点を奪いました。このあとは、ロシアの猛攻を守備陣がしのいで得点を与えず、1対0で、ついにワールドカップ初勝利を挙げました。

2試合を終えて1勝1引き分けとなり、グループ首位に立った日本は、3試合目で決勝トーナメント進出をかけてチュニジアと対戦しました。大阪の長居スタジアムには4万5000人を超える観客が訪れました。

日本は途中出場の森島寛晃選手が後半3分にゴール前の混戦から、右足で豪快なシュートを決めて先制しました。勢いに乗った日本は後半30分、中田英寿選手のヘディングシュートで得点を追加し、2対0で勝って、初めて決勝トーナメント進出を決めました。

日本は、決勝トーナメント1回戦でトルコと対戦し、会場の宮城スタジアムには、4万5000人余りが集まりました。前半12分、日本は、トルコのウミット・ダバラ選手にコーナーキックからのボールを頭で決められ先制されました。追う展開の日本は、後半に入って何度もチャンスを作りましたが、堅い守りのトルコを崩すことができず0対1で敗れ、ベスト16で大会を終えました。
第18回 2006年 ドイツ大会
~決勝 ジダン(フランス)が頭突きし退場~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月9日~7月9日 | 32 | イタリア |
335万9439人が訪れたこの大会から、前回優勝チームの予選免除がなくなり、2002年に日本と韓国が共同開催した大会を制したブラジルも予選に参加しました。
大会ではスーパースターのロナウジーニョ選手を擁するブラジルや、司令塔のフアン・ロマン・リケルメ選手が率いるアルゼンチンがともに準々決勝で敗れました。
ベスト4に進んだのは、すべてヨーロッパ勢でイタリア、フランス、ドイツ、ポルトガルでした。
決勝は6大会ぶり4回目の優勝がかかるイタリアと、2大会ぶり2回目の優勝を目指すフランスの対戦となりました。
イタリアは、ゴールキーパーのジャンルイジ・ブッフォン選手や、キャプテンでディフェンダーのファビオ・カンナバーロ選手を中心とした堅い守りが持ち味で、準決勝までの6試合でわずか1失点。一方、フランスもテュラム選手など、ベテランのディフェンス陣を中心に準決勝までの失点がわずか「2」でした。
堅守のチームどうしの対戦は互いに持ち味を発揮した試合となり、延長戦にもつれ込みました。
延長戦でサッカー界の歴史に残る事態が起きました。
この大会で現役引退を表明していた世界屈指のミッドフィルダー、ジネディーヌ・ジダン選手の行為です。
延長後半5分、ジダン選手が相手に故意に頭突きをしたとして、退場処分となりました。
試合は1対1のまま決着がつかず、決勝としては3大会ぶり2回目のペナルティーキック戦にもつれ込みました。
ペナルティーキック戦は5人全員が決めたイタリアが5対3で制し、6大会ぶり4回目の優勝を果たしました。
イタリアに贈られたのは、前年の2005年にデザインと重さがわずかに改良された3代目のトロフィーでした。
決勝で退場のジダンがMVPに選出

このドイツ大会ではMVP=最優秀選手に、決勝で退場処分を受けたジダン選手が選ばれました。
投票は各国のメディア関係者が、上位4チームから選ばれた10人の候補選手から、それぞれ1位から3位まで順位をつけて3人を選び、順位が高いほど高いポイントが与えられました。
投票の結果は▽ジダン選手がトップの2012ポイント▽2位にイタリアのカンナバーロ選手で1977ポイント▽3位はイタリアのピルロ選手で715ポイントを獲得しました。
MVPに選ばれたジダン選手は、この大会での現役引退を表明していましたが、決勝の延長後半に相手選手に故意に頭突きをしたとして退場処分を受けていました。
ワールドカップのMVPは、1998年のフランス大会では開催国フランスが初優勝し「ジダン選手の大会」とも言われましたが、準優勝したブラジルからロナウド選手が選ばれました。
前回の2002年大会も準優勝したドイツからゴールキーパーのカーン選手が選ばれました。
日本は1次リーグ敗退

一方、日本はジーコ監督のもと、当時、ヨーロッパで活躍していた中田英寿選手などを中心としたメンバーで臨みました。
しかし、1次リーグの初戦でオーストラリアに1対3で逆転負けを喫したあと、第2戦はクロアチアと0対0で引き分けました。

3戦目のブラジルとの試合では、玉田圭司選手が前半34分に先制点を挙げて1対1で後半を迎えました。
ところが後半は、ブラジルの攻撃に圧倒され3点を失い、1対4で敗れました。
日本は2敗1引き分けに終わり、1次リーグで敗退しました。

ブラジル戦の終了直後、日本の初出場となったフランス大会から3大会連続でワールドカップに出場し、長年に渡って代表チームをけん引してきた中田選手が、しばらく、ピッチであおむけになりました。
この大会の日本を語る上で印象に残るシーンとなっています。
中田選手はのちに、この大会を最後に現役引退を決めていたことを明らかにしています。
第19回 2010年 南アフリカ大会
~「無敵艦隊」スペイン初優勝 日本は2大会ぶりベスト16~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
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6月11日~7月11日 | 32 | スペイン |
アフリカ大陸で初めて開催された大会には合わせて317万8856人が訪れました。
1次リーグで、前回大会を制したイタリアと準優勝のフランスが1勝も挙げられず、決勝トーナメント進出を逃す波乱の展開となりました。
また、決勝トーナメントでもブラジルやアルゼンチンが準々決勝で敗退するなど、優勝を経験しているチームが相次いで姿を消しました。
決勝はいずれも優勝経験のないスペインと、オランダの一戦となりました。
イニエスタ選手や、シャビ選手が中心のスペインが持ち味のすばやいパス回しでボールを支配。これに対してオランダは、中盤の激しいプレッシャーから、ロッベン選手やスナイデル選手を中心にカウンター攻撃を狙う展開になりました。
試合は90分で決着がつかず、両チーム無得点のまま延長戦へ。延長後半11分、スペインのイニエスタ選手が速攻から決勝ゴールを決め1対0で勝って、初優勝を果たしました。
得点王は、5ゴールで並んだスペインのビジャ選手とオランダのスナイデル選手、ドイツのミュラー選手、それにウルグアイのフォルラン選手でした。
日本はオシム監督に代わり岡田武史監督が指揮

日本は、この大会の出場に向けてチームを指揮していたオシム監督が2007年に脳こうそくで倒れ、後任に岡田武史監督が就任しました。
10年ぶりにチームに復帰した岡田監督のもとで、日本は4大会連続4回目の出場を決めました。

本大会で日本は、初戦でカメルーンと対戦。前半、日本は守りを重視し、エトー選手を中心とした相手の攻撃を組織的な守備で封じてチャンスを伺いました。前半39分、右サイドを崩した松井大輔選手のクロスボールを本田圭佑選手がトラップしてから左足で押し込んで先制しました。この1点を最後まで守り抜いて1対0で勝って国外でのワールドカップで初めて勝利を挙げました。
2試合目は世界ランキング4位で優勝候補のオランダと対戦しました。大会屈指のオランダの攻撃に対し日本は組織的な守備で決定的な場面を作らせず、前半を0対0で終えました。後半8分、オランダのスナイデル選手に豪快なミドルシュートを決められ先制点を奪われました。このあと相手の守備陣を崩せず0対1で敗れました。
1勝1敗で迎えた日本の第3試合目は、標高1500メートルの高地にあるルステンブルクで、デンマークと対戦しました。日本は勝つか引き分ければ、2大会ぶりの決勝トーナメント進出が決まる1戦でした。

前半17分に本田選手がおよそ30メートルの距離のフリーキックを決めて先制。

前半30分にはゴール正面の位置から遠藤保仁選手がフリーキックを決めて、2点をリードしました。

後半36分に1点を返されましたが、後半42分、途中出場の岡崎慎司選手がゴールを決めて3対1で勝ち、2大会ぶりに決勝トーナメントに進出しました。
日本は過去最高のベスト8を目指して、決勝トーナメント1回戦でパラグアイと対戦しました。試合は互いに得点を奪えず、両チーム無得点のまま延長戦に入りました。
延長戦でも決着がつかず、今大会初のペナルティーキック戦にもつれ込みました。パラグアイが5人全員成功したのに対して、日本は3人目の駒野友一選手が決めることができず3対5で敗れ、決勝トーナメント1回戦で姿を消しました。

第20回 2014年 ブラジル大会
~開催国がまさかの大敗~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
---|---|---|
6月12日~7月13日 | 32 | ドイツ |
1994年のアメリカ大会に次ぐ342万9873人が訪れました。
前回大会を制したスペインや、優勝経験のあるイタリア、イングランドが1次リーグで敗退した一方、南米は地元のブラジルやウルグアイなど、出場した6チームのうち5チームが1次リーグを突破しました。
スアレス選手 かみつき行為

1次リーグのウルグアイとイタリアの試合では、ウルグアイのエース・スアレス選手が相手の肩にかみついたとして、FIFA=国際サッカー連盟から代表として9試合の出場停止と、4か月間のサッカーに関わる活動禁止などの処分を受けました。
その後、スアレス選手は、CAS=スポーツ仲裁裁判所の聴聞会に出席して、処分の軽減を求めました。
スアレス選手側の訴えの一部が認められ、処分期間中の所属クラブでの練習参加などが許可されました。
ウルグアイは1次リーグを突破しましたが、決勝トーナメントではスアレス選手が出場することができず、コロンビアに0対2で敗れました。
開催国・ブラジルが大敗
開催国のブラジルは準決勝に進みドイツと対戦しました。
エースのネイマール選手が準々決勝で背骨の一部を骨折したほか、ディフェンダーでキャプテンのチアゴシウバ選手が警告の累積で出場できず、ベストメンバーで臨むことができませんでした。
前半だけでドイツに大量5点も奪われる展開となり、後半に入って、さらに2点を追加されました。
ブラジルは、終了間際に1点を返しましたが、ドイツに1対7の大差で歴史的な敗戦となりました。
ドイツが4回目の優勝

決勝はドイツとアルゼンチンの強豪どうしの対戦になりました。
ドイツがボールを支配してクロース選手を中心とした連係でゴールを狙ったのに対し、アルゼンチンは、エースのメッシ選手のドリブル突破などを起点に攻撃をしかけました。
両チームともに決め手を欠いて、無得点のまま延長に入りました。
延長後半8分、ドイツが途中出場のゲッツェ選手のゴールで先制し、そのまま1対0で逃げ切って、1990年のイタリア大会以来、6大会ぶり4回目の優勝を果たしました。
得点王は6ゴールを挙げたコロンビアのハメス・ロドリゲス選手が輝きました。
日本は…

一方、5回目の出場となった日本は、イタリア出身のザッケローニ監督が、日本の選手たちの技術やチームワークといった特徴を生かし、選手全員が連動して素早いパス回しでゴールに迫る攻撃的なサッカーで過去最高のベスト8以上を掲げていました。

コートジボワールとの第1戦では、日本が前半16分に本田圭佑選手のゴールで先制したものの、後半に2点を奪われ、1対2で逆転負けしました。
ギリシャとの第2戦では前半38分にギリシャの選手が退場しましたが、最後までゴールを奪うことができず0対0で引き分けました。

勝たなければ、1次リーグで敗退となる状況の中、第3戦のコロンビア戦では、1点を追う前半終了間際に岡崎慎司選手のヘディングシュートで追いつき、1対1で後半に入りました。
しかし、コロンビアの司令塔、ハメス・ロドリゲス選手を起点にしたカウンター攻撃で後半だけで3点を奪われ、1対4で敗れました。
日本は、この大会を2敗1引き分けで終え、1次リーグで敗退しました。
第21回 2018年 ロシア大会
~フランスの19歳・エムバペが躍動~

日程 | 出場チーム数 | 優勝 |
---|---|---|
6月14日~7月15日 | 32 | フランス |
合わせて303万1768人が訪れました。
この大会からFIFA=国際サッカー連盟は、ワールドカップで初めて「VAR」を導入しました。「VAR」はビデオ・アシスタント・レフェリーと呼ばれるものです。審判が映像でプレーを確認して主審に助言を行うシステムで、判定が覆り、決勝点につながるペナルティーキックが与えられるケースなど、勝敗を左右した試合もありました。
また「警告ポイント」も導入されました。これは「イエローカード1枚」がマイナス1ポイント、「レッドカード1枚」がマイナス4ポイントでポイントが積み重ねられていく方式で、1次リーグで勝ち点や得失点差などが並んだチームの順位を決める際に用いられました。
大会は前回優勝のドイツが1次リーグで敗退したほか、ブラジルやウルグアイといった強豪が準々決勝で敗退しました。
ベスト4に残ったのは、フランスとベルギー、クロアチア、それにイングランドとすべてヨーロッパ勢でした。
決勝は2回目の優勝を狙うフランスと、司令塔のモドリッチ選手を中心としたクロアチアが対戦しました。
初めて決勝に臨んだクロアチアに対して、フランスが19歳のエムバペ選手の豪快なミドルシュートなどで4点を奪いました。フランスが4対2で勝って、5大会ぶり2回目の優勝を果たしました。
得点王は、6得点を挙げたイングランドのケイン選手でした。
日本「ロストフの14秒」

一方、6大会連続6回目の出場となった日本はワールドカップ開幕まで2か月あまりに迫ったタイミングで、チームを指揮していたハリルホジッチ監督との契約を解除。当時、日本代表の強化責任者を務めていた西野朗技術委員長に監督を交代して大会に臨みました。
日本は初戦のコロンビアとの試合で、前半6分に香川真司選手がペナルティーキックを決めて先制しましたが、その後、追いつかれ1対1で後半に入りました。

そして28分にコーナーキックから大迫勇也選手がヘディングシュートを決めて勝ち越しました。
そのまま日本は2対1で勝って2大会ぶりの勝ち点「3」を獲得しました。

第2戦ではセネガルと対戦し、前半11分に先制されましたが34分に乾貴士選手のゴールで追いつきました。
日本は後半に勝ち越されましたが、33分に本田圭佑選手のゴールで再び追いつき、2対2で引き分けました。

第3戦のポーランドとの試合で、日本は後半14分に1点を奪われて0対1で敗れました。
しかし、勝ち点と得失点差で並んでいたセネガルと「警告ポイント」の差でグループ2位となり、2大会ぶりの決勝トーナメント進出を決めました。
この試合では、日本が1点をリードされている状況にも関わらず決勝トーナメント進出を争うセネガルが同時に行われていた試合で負けていたことから、試合終盤、自陣でボールを回して時間を稼ぐ戦術をとりました。こうした戦術に賛否がわかれました。
日本はロストフで行われた決勝トーナメント1回戦でベルギーと対戦しました。


後半3分に原口元気選手、その4分後(後半7分)に乾貴士選手がシュートを決めて2対0とリードしました。
しかし、その後、立て続けに失点し2対2の同点に追いつかれました。
さらに後半アディショナルタイムにカウンター攻撃からゴールを奪われ、2対3で逆転負けを喫し、念願のベスト8にあと一歩、届きませんでした。
この最後の決勝点の場面は、ベルギーのカウンター攻撃で失点するまでわずかな時間で「ロストフの14秒」として多くのサッカーファンの記憶に刻まれています。
