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『プレーバック“Jリーガーの鮮烈”』①Jリーグの底上げに貢献したセレソンたちのきらめき

ことしはワールドカップイヤー、そして1993年のJリーグ発足から30年目となる節目です。1990年代の草創期にはワールドカップで活躍したスーパースターがリーグを活気づけました。2000年代に入ると、Jリーグでプロのキャリアを確立し、ワールドカップへと羽ばたく外国人選手も登場しました。名プレーヤーの活躍とともにワールドカップの歴史を振り返ります。

第1回は Jリーグの底上げに貢献したセレソンたちのきらめき

ブラジルはワールドカップで最多5回の優勝を誇る“サッカー王国”。“セレソン”(ポルトガル語で選抜の意味)の愛称で知られるブラジル代表の名選手がJリーグ発足時の底上げに貢献しました。
(構成 アナウンサー 小宮山晃義)

目次

    神様ジーコの鮮烈

    〝常勝〟鹿島アントラーズを築いたジーコ

    その象徴的な存在がジーコ。セレソンで長く攻撃の中心として活躍し“サッカーの神様”と称されたスーパースターが日本にやってきました。1993年Jリーグ開幕節、当時小学4年生でサッカー少年だった私の視線はテレビ画面に映る背番号10にくぎ付けになりました。
    開幕戦でいきなり3得点のハットトリック。美しい軌道を描いた右足のフリーキック、カシマスタジアムに響く大歓声とチアホーンのかん高い音色、のちにJ1リーグ3連覇を果たし“常勝”と評される鹿島アントラーズの第一歩は、まさに鮮烈な記憶として残っています。

    ジーコは選手として3大会出場

    ジーコは選手としてワールドカップに3大会に出場しましたが、優勝の経験はありません。
    初めて出場した1978年アルゼンチン大会は3位。1982年スペイン大会では2次リーグで敗れ大会を後にしました。

    ジーコは3大会で優勝には届かず

    1986年メキシコ大会では準々決勝でフランスに敗れました。ジーコは試合中のペナルティキックに失敗し勝利に貢献することができませんでした。2歳だった私にその記憶はありませんが、小学生の時のチームの監督から当時の話を聞き、「弘法も筆の誤り」に似たことわざのように「ジーコもPKを失敗」という言葉が自分の中に残っています。

    柏レイソルでプレーしたカレカ

    この大会でブラジルの得点源として5ゴールを決めたカレカものちに柏レイソルで活躍しました。

    メキシコ大会は「マラドーナによるマラドーナのための大会」

    この大会ではアルゼンチンが2回目の優勝。稀代のサッカー選手、マラドーナが相手5人を抜いてゴールを決めるなど大活躍し「マラドーナによるマラドーナのための大会」と言われています。

    優勝メンバーが続々とJの舞台へ

    1994年アメリカ大会でブラジルは4回目の優勝を果たします。
    キャプテンのドゥンガをはじめ、主力のレオナルドやジョルジーニョなど優勝メンバーの多くがJリーグでプレーしました。

    アメリカ大会 優勝メンバーの多くがJリーグへ

    (写真上段 左から)
    キャプテンのドゥンガはボランチとして、ブラジルの優勝に大きく貢献。ジュビロ磐田でも強いリーダーシップを発揮しました。引退後は母国ブラジル代表監督を2回務めました。

    ブラジル代表の両サイドバックとして活躍したレオナルド(左)とジョルジーニョ(右)は、ともに鹿島アントラーズでプレー。
    レオナルドは「レオ様」の愛称で親しまれ、Jリーグでも華麗なプレーでサポーターを魅了しました。
    ジョルジーニョはJリーグMVPも獲得し、引退後は鹿島アントラーズの監督も務めました。

    同じく鹿島アントラーズでプレーしたベベットは、アメリカ大会でロマーリオとのフォワード2トップで攻撃を引っ張りました。
    ゴールを決めた後、子どもの誕生祝いに見せた「ゆりかごダンス」でも有名です。

    (写真下段 左から)
    ミッドフィルダーのジーニョはアメリカ大会全試合に出場、サンパイオとも一緒に横浜フリューゲルスでも活躍しました。

    ディフェンダーのロナウドはセンターバックとして清水エスパルスでプレーし、チームの優勝争いに貢献しました。

    フォワードのミューレルは柏レイソルでプレー。ブラジル代表の先輩、カレカと一時、チームメートでした。

    控えゴールキーパーだったジルマールはセレッソ大阪でプレーしました。

    ベベットは「ゆりかごダンス」でも有名

    ブラジルはロマーリオとベベットのフォワード2トップを中心とした高い攻撃力と、キャプテンでボランチのドゥンガを中心にした守りがかみ合い、 順調に勝ち進みました。

    決勝の相手はイタリア、0対0のまま延長戦にもつれ込む熱戦でした。キックオフは日本時間で平日の早朝、試合が進むにつれて小学校への登校時間が迫ってきます。延長戦でも決着がつかず、ワールドカップ決勝では初となるペナルティキック戦へ。 通勤、通学の時間帯でやきもきしながらテレビの前にいた方も多かったのではないでしょうか。

    イタリア代表のエース ロベルト・バッジョ

    イタリア5人目のキッカーはエースのロベルト・バッジョ。蹴ったボールが無常にもクロスバーの上を通過しブラジルの優勝が決まりました。歓喜のセレソンとともに、悲嘆にくれるバッジョの姿はワールドカップ史に残る名場面として語り継がれています。

    ブラジルは4回目の優勝果たす

    名ボランチ サンパイオ

    横浜フリューゲルスなどで活躍したサンパイオ

    日本が初出場した1998年フランス大会。開幕戦でゴールを決めるなどブラジルの準優勝に貢献したのが、横浜フリューゲルスのサンパイオです。ポジションはポルトガル語でハンドルを意味する“ボランチ”、中盤の真ん中で献身的に動き回る攻守のかじ取り役として活躍しました。1995年に横浜フリューゲルスに加入。20代後半のキャリアをJリーグで過ごしブラジル代表の座をつかみ取った姿に、Jリーグファンとして晴れがましい気持ちになりました。

    サンパイオは横浜フリューゲルスから世界の舞台へ

    ワールドカップを終え日本に戻ってきたサンパイオには厳しいシーズンが待っていました。所属する横浜フリューゲルスが経営不振などから、このシーズンを最後に他クラブへの吸収合併が発表されたのです。最後の大会となった天皇杯でフリューゲルスは快進撃を見せました。1999年1月1日の決勝。フリューゲルスとしてのラストマッチでサンパイオは先発出場し優勝に貢献、有終の美を飾りました。サンパイオはその後、柏レイソル、サンフレッチェ広島でもプレーし、名ボランチとして足跡を残しました。

    名ボランチとしてJリーグで活躍

    Jから羽ばたいたフッキ

    フッキもJリーグからブラジル代表へ

    もう1人、Jリーグからセレソンへと羽ばたいていったのがフッキ。分厚い胸板、丸太のような太もも、その屈強な体から繰り出される左足のシュートはファンの記憶に鮮烈に刻まれています。2005年に18歳で来日し川崎フロンターレに加入。当時のチームメートで元日本代表の中村憲剛さんは「練習で想像できない遠い距離からシュートを決めたことが記憶に残っている。ブラジルには、こんな選手がたくさんいるのかと驚いた」と当時を振り返ります。

    自国開催の2014年は4位に終わる

    フッキが初めて出場したワールドカップは2014年ブラジル大会。自国開催で優勝を狙ったブラジルでしたが、準決勝でドイツにまさかの7失点を喫し敗退。容赦なくゴールを決め続けるドイツ、悲嘆にくれるセレソンの姿は記憶に新しいところです。
    ブラジルは2002年日韓大会で優勝して以来ワールドカップを手にしていません。カタール大会でサッカー王国の復活となるのでしょうか?

    日程・結果(日本時間)

    日本代表