2011年3月18日、岩手県釜石市鵜住居町にある消防団の詰め所で撮影された映像があります。映っているのは当時67歳の鈴木堅一さんです。仲間に背中をさすられながら涙ながらに絞り出したのは、「あそこさ必ず住む」ということば。津波で亡くなった家族の供養のため、家を再建するという誓いでした。(盛岡放送局カメラマン 中村誠)
あの場所に家を構えてやりたい
家族5人で暮らしていた堅一さんは、妻の信子さん(当時65歳)、長男の健幸さん(当時44歳)とその妻・奈津子さん(当時45歳)、孫の理子さん(当時11歳)を津波で同時に失いました。
地震が起き、消防団員の堅一さんが家を離れている間に、4人は2階にある理子さんの部屋で津波に襲われました。
レスキュー隊に発見されたとき、家族を守るように手を広げた健幸さんのそばで、身を寄せ合うようにして亡くなっていたといいます。
家族の死を知った堅一さん。
仲間にしがみつき、はっぴをつかむその手は強く強く握られていました。
その後、堅一さんはカメラに向かってこう答えました。
堅一さん
「小さくてもいいから、家をあの場所に、構えてやりたい」
亡くなった家族との約束を果たすことを目標に、震災後を生きることにした堅一さん。
その歩みを記録したいと堅一さんのもとに足を運びました。
ときに笑顔で、ときに苦しそうに、そしてときには煩わしそうに、胸のうちを語ってくれました。
面倒見がよい「おやぶん」
太平洋に面し、ローカル線の三陸鉄道がのんびり走る穏やかな町、岩手県釜石市鵜住居町。
ここで堅一さんは生まれ、市の公用車の運転手として働いてきました。
お互いを屋号で呼び合う風習の名残から、堅一さんは「六松屋」という屋号と絡めて「ろっけんさん」「ろくさん」と呼ばれています。
消防団の本部長を務めたことなどから「おやぶん」と呼ばれることも。
取材中も周りの人から声をかけられることがしばしばで、面倒見がよく、まさに親分肌、といった感じの人柄です。
いろんなこと考えるのさ 考えたってもうダメさ
避難生活を余儀なくされた堅一さんは、離れて暮らす次男から同居を勧められますが、それを断り、仮設住宅でのひとり暮らしを選びました。
次男一家に迷惑をかけたくないという思い、そして、もともと自宅があった場所の近くで暮らしたいという願いからでした。
仮設住宅での暮らしは、ひとりあの日と向き合い続ける日々でした。
「周囲には気丈にふるまってきた」そう語る堅一さんですが、「じっとしていたら気が変になる」と気を紛らわすように菩提寺にある山の整備などに汗を流しました。
それでも仮設住宅に戻ればまた考えてしまいます。
「自分が消防団の仕事にむかわなければ家族は助かったのかもしれない」
「健幸が小学校に迎えに行かなければ理子は助かったかもしれない」
「でも理子だけ生き残り自分とふたりきりで暮らすよりは…」
堂々巡りが続きました。
地区全体をかさ上げする大規模な工事や区画整理に時間がかかり、いつになったら再建できるのか見とおせない日々。
堅一さんのプレハブ仮設での暮らしは9年に及びました。
これから何十年も生きるんだもん かわいそうだぜ
堅一さんが仮設住宅の玄関に掛けていたのは、孫の理子さんが使っていたランドセルです。
理子さんに「よく『くそじじい!』と怒られた」と堅一さんは笑います。
堅一さん
「かわいそうだぜ。(本当なら)うれしいことも悲しいことも経験して育っていくんだから」
11歳という若さで亡くなったことがやりきれない堅一さん。
私たちに見せてくれた再建する家の設計図は元の家と同じ2階建て、間取りは5LDKでした。
2階の部屋を指さし「ここは理子の部屋。ランドセルを置きたい」と教えてくれました。
2019年12月に地鎮祭が執り行われ、自宅の建設工事がようやく始まりました。
堅一さんは毎日のように建設現場を訪れ、長い時間そこで過ごすようになっていきます。
「町の音が聞こえるのがいい」と下校時刻の小学生たちの声に耳を傾ける姿がありました。
2020年10月には上棟式を行い、祝いに駆けつけた近所の人たちに餅まきをしました。
約束を果たすときが近づいていることをかみしめているようでした。
私のなかで復興はありません
2021年3月の釜石市東日本大震災犠牲者追悼式。
堅一さんは遺族代表として追悼のことばを述べました。
それは家の再建がひと山越えた頃のことでした。
語ったのは震災から10年がたった堅一さんの素直な気持ちでした。
堅一さん
「いくら家を建てても、家族を亡くした私のなかでは復興はありません。それはいつのことでしょうか、死ぬまでないと思います」
亡くなった家族のために家を建てること。
それは堅一さんの心の支えになってきたはずです。
でもそれで何かが元に戻るわけでもなく、心が本当に救われるわけでもない。
新たな家での暮らしが目の前に迫るなか、やりきれなさがにじみ出ていました。
10年でいちばんきょうが疲れたな
引っ越しの日。
私たちは朝からその様子を撮影させてもらう約束をしていました。
新しくできた家を訪ねると、すでに仏壇には線香があげられていました。
聞けば「家さ来たよ」と報告をしたそうです。
それだけはひとりで済ませたかったのだと思います。
堅一さんはいつものように「誰にも迷惑をかけたくないから」と、ひとりで荷物を運び込みました。
一段落すると、理子さんのランドセルと消防職員だった健幸さんが使っていたヘルメットを手にとり、仏間へ向かいました。
「あんたはここ。お父ちゃんはここ。こうやっておけば一緒でいいんだ」
そう声をかけ、仏壇の脇に並べて置きました。
その後、新たに購入したソファーやテレビを搬入する業者や、様子を見に来る近所の人たちなど多くの人が出入りするなか、笑顔で対応していた堅一さん。
ひと息つけたときにはすっかり日が暮れていました。
がらんとしたリビングでひとりタバコを吸いながら、ゆっくりと話し出しました。
堅一さん
「なんか疲れたな、10年でいちばんきょうが疲れたな。約束したことはやったから、それでいいんだ。これで良しとせねば」
“何をしても家族が亡くなったことは変わらない”と理解しながらたどりついた家の再建。
これを1つの区切りにしなければいけない、と自分に言い聞かせるかのようでした。
鈴木家のレクリエーションだ
家を再建したあと、堅一さんの生活に変化がありました。
次男の家族が泊まりで遊びに来られるようになったのです。
2021年8月には次男の公二さん(50)、孫の友太さん(24)と生真さん(19)、4人そろってアユ釣りに出かけました。
アユ釣りを教えてほしいとお願いしたのは友太さんでした。
家を再建したあと、堅一さんが力を落としているのではないか、そう気遣ってのことでした。
孫の友太さん
「じいじが大事にしているものを教わるのが私の目標でもありますし、教えるというのが、じいじにとっての生きる目標になってほしい」
青い空が広がる中、おとりのアユをつけてあげる堅一さん。
釣りの結果はというと…友太さんは1匹も釣れず、おとりのアユも逃がしてしまいました。
片付けをしながら、この日を総括して堅一さんがひとこと。
堅一さん
「鈴木家のレクリエーションだ」
何気ないひとことですが、亡くなった家族への思いを優先してきた堅一さんが、少しずつ今を見つめはじめているように感じた1日でした。
生きていくほうが大変なんだ
ことしの3月11日。
風も無く穏やかな朝でした。
堅一さんは、再建した家でいつものように朝刊に目を通しました。
紙面には東日本大震災から11年の特集記事。
消防による行方不明者の捜索の記事に目をとめた堅一さん。
堅一さん
「せめて遺体見つからないとかわいそうだぜ、これだけはかわいそうだなと思うな」
午前中に墓参りを済ませ、午後2時46分は自宅にいました。
町の行政無線からサイレンが鳴り始め、堅一さんは海のほうを向き、ひとり静かに目を閉じました。
堅一さん
「あとはふつうに生活していつまで生きるかだ。楽しみながら自分流で生きていくしかねえんだ」
震災直後、カメラの前で語った亡き家族との約束。
それを果たしたことでどれくらい堅一さんの心が慰められたのか、それはわかりません。
いま尋ねて返ってきたのは次のことばです。
堅一さん
「仏のことをずっと考えているわけにはいかねえのさ。生きてくほうが大変なんだ」
その日の撮影の終わり、堅一さんが1つ楽しみにしていることを教えてくれました。
それは庭の手入れです。
かつての家の庭と同じ場所に花や樹木を植えているのだとか。
この日は梅が1つだけ花を咲かせていました。
「あと10日もすれば咲くな。楽しみ、楽しみ」
別れ際、堅一さんになぜ花を育てるか聞いてみました。
堅一さん
「花を見て怒るやつはいねえんだ」
堅一さんは78歳になっていました。
堅一さんの11年を見つめ感じたことは、自分の中でも整理ができない、決して区切りをつけることのできない複雑な思いを誰にも語ることなく、ずっと抱えて生きているということでした。
堅一さんはあの日偶然、カメラの前で思いを語ってくれました。
その映像がもとになり私たちは11年間を記録し続けました。
ただ私たちが知るのはほんの一部の人でしかありません。
これからも被災地に足を運び、少しでも多くの人の声を聞き、震災後を生きる人たちの実像を伝えていきたいと思います。