震災を取材するわたしに3人の消防士が教えてくれたこと

私は入局7年目、29歳の報道カメラマンです。去年、仙台放送局に赴任しました。

取材をするとき、発災当時のことを直接は知らない自分に、引け目を感じていました。 そんな私に同世代の3人の消防士が教えてくれたことがあります。

(仙台放送局カメラマン 上林幹)

当時を記録した膨大な映像

NHK仙台放送局の資料室には、震災の発生直後から各地を取材した映像が保管されています。

放送用に短く編集した映像だけでなく、撮影してきた素材も残っており、移動式の棚に並んだテープやディスクは数万本にのぼります。

これを見れば、その当時の状況が自分の実感として感じられるようになるのではないか。
去年の秋から、時間を見つけては少しずつ、同僚のカメラマンやディレクターとともに映像を見始めました。

避難所に設置された電話(2011年3月15日)

例えば、発災から4日後、避難所となった学校にできた長蛇の列。

教室の机が並び、その上には衛星電話と思われる白い電話がずらり。

誰かと連絡がとれて安心したのか、受話器を握りしめて泣きじゃくる人の姿もありました。

だれと何を話しているんだろう。
声が聴けて、どんな思いがしただろう。

映像に映る人たち、それぞれの境遇に思いをはせました。

新人消防士の辞令交付式

新人消防士の辞令交付式(2011年4月1日撮影)

そうした中、私はある映像にひきつけられました。

津波で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市で2011年4月1日に撮影された「新人消防士の辞令交付式」の映像です。

発災からわずか3週間。
かつてない被害を目の当たりにしながらも、きぜんとした態度で表情ひとつ崩さず、まっすぐなまなざしで消防士としての辞令を受け取っていました。

当時のニュース原稿を見るとこの地域だけで10人の消防士が津波で殉職したと書かれています。

どんな覚悟で、どんな思いで、この辞令を受けたのだろうか。

自分と同じ世代の若者がどんな11年を積み重ねてきたのか知りたいと思い、彼らを訪ねることにしました。

消防士たちが歩んだそれぞれの11年

最初に訪ねたのは、辞令交付式で新人を代表して決意表明をした、須藤宏太さんです。

辞令交付式の須藤宏太さん

現在は消防士長として、気仙沼消防署で勤務していました。

須藤宏太消防士長

当時の映像を見てもらい、話を聞きました。

気仙沼消防署 須藤宏太さん
「消防士になる直前の災害で、何でもいいから早く役に立ちたいと思いました」

消防学校で1年間の基礎訓練を終え、最初に配属されたのは南三陸消防署。

須藤さんの役割は、仮設住宅での防火指導でした。

避難生活を送る人たちと接するなかで、須藤さんは消防士として、そこに住む人たちの暮らしを守りたいと思うようになりました。

須藤宏太さん
「新人消防士さんなんだね、って、がんばってねというような。いちばん自分たちがつらい状況のなかで、気遣いのことばをかけてくれる住民の方々にとても心を打たれました」

今、須藤さんは「予防」という仕事を専門にしています。

消火設備や危険物の保管状況を点検し、火災や災害を未然に防ぐ仕事です。

須藤宏太さん

須藤宏太さん
「消防士っていうと、火事で火を消して人を救助しているイメージが強いかなと思いますけれど。あまり表には出てこないけれど、防災というところで予防の仕事が生きて、安全な施設ができるんです。消防士の仕事は火を消すだけはない、未然に防ぐということも重要な役割だとあのとき気付きました」

当時の映像を懐かしんで、マスク越しに穏やかな表情を浮かべていた須藤さん。

辞令交付式で見せていた、あのまっすぐなまなざしは変わらないように見えました。

救助のヘリにあこがれて航空隊員に

防災航空隊 軍司雄太さん

震災直後に救助ヘリを見たことで航空隊員を目指し、その思いをかなえた人もいました。

仙台空港の宮城県防災航空隊を訪ねると上下オレンジ色の服を着たその人が出迎えてくれました。

宮城県の防災航空隊に所属する軍司雄太さんです。

防災航空隊は、火事や災害が起きるとヘリコプターでいち早く現場に駆けつけて空から消火や救助活動を行います。

発災の2日後、自宅の被災を免れた軍司さんは気仙沼市の避難所で手伝いをしていました。

そのとき大きな音に気付いて空を見上げると、たくさんのヘリコプターが飛び交っていました。

屋上にいた人を助ける救助ヘリ(2011年3月12日)

津波で壊滅的な被害を受けた町には全国各地からさまざまな機関のヘリコプターが駆けつけ、取り残された人たちの救助などを行っていたのです。

防災航空隊 軍司雄太さん
「当時は消防に航空隊があることを知りませんでした。地上から近づくことのできない場所でも空からなら人を助けられる。私もいつか、ヘリコプターに乗って多くの人を助けたいと感じました」

防災航空隊に入りたい。

辞令交付のあと軍司さんは、気仙沼市内の消防署に配属され、消火や救急搬送など消防士としての経験を積みながら、防災航空隊への入隊を希望し続けました。

そしておととし、念願の航空隊員になりました。

軍司雄太さん

ヘリコプターによる救助活動は、一度に多くの人を助けることができないぶん、1人の人に向き合うことが多くなります。

不安を感じさせないために、その人のけがや精神の状態を見極めることが重要です。

軍司さんは日々の訓練や救助の現場で、相手の表情をしっかり見て、サインを見逃さないよう常に心がけているそうです。

軍司雄太さん
「震災の時に見たあの人たちのように、今度は自分がたくさんの人を助けたいです」

まっすぐ前を見据えて話す軍司さんのその姿に、被災地の消防士として変わらぬ思いを持ち続ける芯の強さを感じました。

同い年の消防士

辞令交付式のときの三浦翔太さん

もう1人、会ってみたい人がいました。

三浦翔太さんです。震災当時は18歳でした。

私と同い年ということで、まず親近感が湧きました。

でも11年前、まだ学生だった自分に対して、三浦さんはすでにこのとき、社会に貢献しようと一歩を踏み出しています。

本当に立派だなと思いました。

三浦さんが何を考えて、何を体験してきたのか。

ぜひ話を聞かせてほしいと思いました。

左 三浦翔太さん 右 筆者

気仙沼消防署を訪ねました。

受付で待っていると、辞令交付式の映像に映っていた三浦翔太さんが階段を下りてきました。

眼鏡はかけていませんが、顔つきはほとんど変わらず、あの時のままでした。

子どものころから消防士になることが夢だった三浦さんは、発災直後、「自分にもできることはないのか」と、辞令交付式で着用する予定だった消防士の服を着て、先輩の元へ駆けつけたといいます。

しかし、先輩の消防士に言われたのは「帰れ。まだ消防士じゃないお前にできることはない」ということば。

悔しく思う一方で、この経験が三浦さんの消防士としての原点になったといいます。

直面した被災地の現実

「早く人の役に立てる消防士になりたい」

三浦さんは急病人やけが人を搬送する救急隊員として、仕事に熱心に取り組みました。

そんな三浦さんには今でも忘れられない出来事があります。

消防士になって3年ほどがたち、仕事を覚えて自信がついてきた頃でした。

女性が自傷行為をしているとの通報で駆けつけたのは、仮設住宅でした。

部屋に入ると仏壇の前でうつむいていました。

家族の話で、この女性が津波で子どもを亡くしていたことを知りました。

(イメージ)

救急搬送する際、三浦さんは何気ない気持ちで「なぜ自傷行為をしてしまうのか」と女性に尋ねました。

すると感情を無くしたような声でこう答えました。

「家族を亡くしてつらかった。(自傷行為は)生きているという実感がするんです」

そのことばを聞いた時、三浦さんは、はっとしました。

自分は苦しんでいる女性を問い詰めるようなことをしてしまったのではないか。

被災地の消防士として心の傷みに寄り添い、もっと相手を気遣うべきだったのではないか。

消防士として人の役に立ちたいと思っていた三浦さんは、激しく後悔したといいます。

被災者はそれぞれ違った事情を抱え、誰一人として同じではない。

そのことを突きつけられた三浦さん。

人との向き合い方を考え直すきっかけになったそうです。

いまでは、相手の気持ちや置かれた状況を想像して、どんな時でもそれぞれの人に合った接し方ができるように心配りを続けているといいます。

三浦翔太さん

気仙沼消防署 三浦翔太さん
「被災者というふうにひとくくりにするのではなく、1人の人として向き合っていくしかないのではないか。被災者の方と接してそれに気付いた。あの出来事がなければ、わからなかったかもしれない」

震災に向き合うということ

今回、話を聞くことができた3人の消防士。

11年前の初心にゆるぎはないと感じました。

取材の最後に、同い年の三浦さんに「震災を直接知らない私たちが取材することをどう思うか」と尋ねてみました。

三浦さんは「むしろ、震災を知らない、外から見たからこそ分かることもあると思う。僕ではできないことだし。上林さんだからこそ分かること、聞けること、伝えられることがあるのではないか。これからも上林さんの目線で伝え続けてほしい」と励ましてくれました。

ひとりひとりの人と向き合い、できるだけ多くの人の声を聞いて学びながら、自分らしく震災を伝えていきたいと思いました。

顔写真:上林 幹

仙台放送局カメラマン

上林 幹

2015年入局
名古屋局、甲府局を経て去年から現所属