「地震と避難の経験だけで、私は津波を見ていないんです。そんな私が語り部をしていいんでしょうか」
どこか自信がなさそうに、そう語った19歳の女性。
彼女は不安でした。未曾有の大震災を語る“資格”が自分にあるのかと。
(福島放送局アナウンサー 武田健太 /編集:ネットワーク報道部 村堀等)
本当に、私でいいの?
福島県の沿岸部、南相馬市で生まれ育った渡邉舞乃さん(19)。
2011年3月11日、小学3年生のときに東日本大震災に遭い、現在は震災と原発事故を伝える施設で語り部活動をしています。
けれど、舞乃さんは、自信を持てずにいました。
舞乃さん
私は津波を見ていないし、自分以上にすごい経験をされている方はいるから、語り部をしていいのかなとすごく不安になるんです。
大好きな家族と馬と
震災発生当時、小学3年生だった渡邉舞乃さん。
共働きの両親と祖母、そして姉と弟の6人暮らし。年子の姉とは仲が良く、当時1歳だった弟のことを2人で可愛がっていました。
小学校では竹馬大会に向けて、友だちと “マイ竹馬”を持ち寄って練習していました。伝統行事のために地元のあちこちで馬が飼われていて、馬にえさやりをするのも楽しいひとときだったと言います。
死んじゃってたらどうしよう
2011年3月11日。
舞乃さんのこの日の記憶の始まりは午後2時46分、地震が発生した瞬間からだといいます。
大きな揺れの中、教室の机の下に隠れた舞乃さん。ガラスが割れる音や友だちの泣き叫ぶ声を耳にしながらも、頭の中は家族のことでいっぱいでした。
舞乃さん
日中は家におばあちゃんと幼い弟だけで、とにかく2人のことが心配でした。泣きながら揺れが収まるのを待ちましたが、いつまでも収まらずにだんだん大きくなって、私自身もこのまま死んじゃうかもしれないとひたすら恐怖でした。
…ようやく揺れがおさまり、姉と一緒に急いで下校することになった帰り道。舞乃さんの不安をさらに掻き立てる光景が広がっていました。
いたるところでブロック塀が崩れ落ち、おばあちゃんと弟が待つ自宅の前は、いつもの竹馬やタイヤが散乱して入れない状況になっていたのです。
散乱しているものをよけて、ようやく部屋に足を踏み入れると…
「おかえり!」
おばあちゃんの声が…!
姉と2人、しばらく泣き合いました。
がれきに埋もれていたのは
しばらくしてお母さんが職場から帰ってきました。自宅からいったん避難することになり、情報を得ようとテレビをつけると、目を疑うような映像が映し出されました。
舞乃さん
大きな黒い波が街を襲う映像でした。私の家は海から6キロ余り離れていて、津波を直接、見ることはなく、このとき初めて「津波」という言葉を知りました。
なかなか帰ってこなかったお父さんも夜に帰ってきて、家族全員の無事を確認できたのは夜の7時頃だったといいます。
そして次の日、祖父の家が津波で流されたと聞き、家族で車に乗って沿岸部へ向かいました。幸い祖父は無事でしたが、その道中、舞乃さんにとって衝撃的な光景が広がっていました。
大好きだった馬たちが何頭も、がれきと一緒に用水路に埋もれて死んでいたのです。
「ここだと思うんだよな」
そうつぶやいたお父さんの言葉が舞乃さんの耳に残っています。祖父の実家があったはずの場所には何もありませんでした。
さよならも言えず
「今から出発する」
15日の夜、テレビを見ていたお父さんが突然、そう言いました。流れていたのは福島第一原子力発電所の事故を伝えるニュースでした。
当時、舞乃さんのお母さんは妊娠していました。しかし、出産予定だった病院の職員も避難してしまったため、舞乃さんたちも先に避難していた親戚のいる山形県に引っ越すことになりました。
舞乃さん
原発事故がどれだけ危険な状況だったか、当時の私にはよくわかりませんでした。でも、急に外で遊べなくなり、友だちが次々に避難していなくなっていき、「ただ事ではない」と感じていました。
引っ越しの準備が済んで地元を離れるとき、舞乃さんはまたすぐに会えると思って友達に「またね!」とあっさりした挨拶をしたといいます。
しかし、この日を境にさよならも言えずに離れ離れになった友だちがたくさんいました。
避難してから3年後。小学校を卒業するタイミングで、地元で仕事を続けていた父のもとへ家族で戻ることになりました。また友だちができるのか不安で、大好きな家族とぶつかることもあったといいます。
忘れてはいけない
中学校を卒業するころには震災の記憶が薄れつつあった舞乃さん。進学先に選んだのは、南相馬市内でも福島第一原子力発電所に近い、南部の小高区にある高校でした。
当時は避難指示が解除されて間もなく、戻ってきている住民は高齢者を中心にわずかで、「高齢者と高校生の町」と呼ばれていたと話します。
そんな場所で、家族や友だち、家やふるさとを失った地元の人たちと授業で交流するうちに、舞乃さんは同級生の「ある姿」が気になるようになっていきました。
舞乃さん
地元の語り部さんがガイドしながら被災地を回ってくれたときに、みんなあまり話を聞いてなくて…。私も含めてのことですが、震災が当たり前のことになりすぎていると感じました。
舞乃さんの中で、震災は忘れられてはならないものに変わっていました。
“語り部になってほしい”
高校を卒業した舞乃さんは、双葉町にある震災と原発事故を後世に伝える「東日本大震災・原子力災害伝承館」でスタッフとして働き始めました。
初めは受付業務を担当していましたが、ある日、職場の上司から「若い世代の語り部がいない。ぜひやってみてほしい」と声をかけられたのです。
舞乃さん
震災の経験を人前で語ったことはなかったので不安はありましたが、「少しでも役に立てるなら」との思いで引き受けることにしました。
舞乃さんは、当時の出来事を家族に聞いたり、自分の記憶を書き出したりし始めました。多いときで1日6時間、1か月以上かけて、A4サイズの紙で10枚ほどにまとめました。
語るにつれてなくなる自信
あの時感じた地震の恐怖、得体のしれない原発事故への不安、友だちとの思いがけない別れを1講演30分ほどかけてゆっくりと語り始めた舞乃さん。
ところが、語り部として活動するほど自信がなくなり、自分が語ることへの不安が大きくなっていきました。その理由のひとつが、ほかの語り部の存在でした。
目の前で近所の人が津波で流された男性
津波で教え子を失った元教師
学校が津波に飲まれた同世代の女性…
舞乃さん
私は津波を見てもいない…そんな私が語り部をしてもいいのだろうか。
こんな気持ちをかかえたまま、これからもずっと伝え続けていけるのか。
すでに10年がたって地元でも震災を振り返ることが少なくなってきている中、さらに10年、20年先も自分の語りに耳を傾けてくれる人がいるのだろうかと考え込んでしまうことも増えました。
被爆地・長崎で伝える震災体験
そんな舞乃さんに2021年12月、思いがけない転機が訪れます。
長崎市で福島の震災と原発事故の企画展が開かれるのにあわせて、長崎の被爆者の前で震災の経験を語ることになったのです。
長崎での語りの直前、舞乃さんは少し緊張した様子で私(武田)に気持ちを話してくれました。
舞乃さん
ずっと長い間、語り続けてきた長崎の方たちに私の語りがどう聞こえるのか、どんな気持ちで伝え続けてきたのか、すごく気になっています。
いつも通りの丁寧な語り口。長崎の被爆者や語り部の方たちもじっと聞き入っていました。
およそ30分の語りを終えると共感や励ましの声が次々にあがりました。
語り部の女性
大変なことを経験されたけど、過去のことをしっかり見つめて、さらに未来に向けてという気持ちを大切にされているところに感動しました。
被爆者の男性
小学6年生のときに被爆した経験と本当に重なりました。地震の揺れが長く感じたという話、原爆の熱線を我慢していたとき、私も同じ気持ちでした。
別の語り部の女性
原発事故の影響よりも友だちのことが大切だったとか、子どもの正直な気持ちがずんと入ってきました。
舞乃さんの背中をそっと押すような優しい言葉の数々でした。
“伝え続ける”ことこそが大切
会場では18歳で被爆し、94歳の今も語り部を続ける被爆者の築城昭平さんも舞乃さんに大切なメッセージを伝えました。
それは「経験の大きさではなく、伝え続ける大切さ」です。
築城さん
もう本当にぼやっとしておったら忘れられていく。福島のことも語り部がいなかったら、もう忘れられつつあるちょうどそのころになります。だからやっぱり努力して伝える人が必要だと思います。ぜひこれからも頑張ってください。私も命ある限り伝え続けます。
語り部の先輩との出会いを通じて、舞乃さんの気持ちは前向きなものに変わっていました。
現在も福島で語り部の活動を続けている舞乃さん。語りの最後には必ず、3つのメッセージを伝えています。
「災害には常に備えておくこと」
「当たり前を当たり前と思わないこと」
そして「出会いを大切にすること」
舞乃さん
長崎の方たちの言葉は重みがあって、本当に忘れられてしまうんだと改めて思いました。東日本大震災や原発事故も、長崎の方々のように何十年も語り継いでいかなければいけないことなので、私の語りで良いなら、これからもずっと続けたいと思います。
※年齢は2021年12月の取材当時のものです。
取材後記
私(武田)は去年12月、長崎から福島に転勤してきました。長崎では被爆体験の継承活動を中心に取材してきました。転勤を間近に控えた頃、福島の震災の語り部が、長崎の被爆者の前で語る機会があるということを耳にしました。
「記憶をつなぎ続ける大切さは、福島も長崎も、きっと同じはず」
そんな思いですぐに取材を依頼し、12月、初めて渡邉舞乃さんにお会いしました。そこで舞乃さんの悩みや不安を聞いたとき、長崎の被爆者の方々の悩みと似ていると感じました。
長崎でも、「爆心地から遠かった」「大きなけがをしていない」ことなどから、話すことを遠慮する人や、直接的な被爆経験のない二世、三世やボランティアの間ではこの先も長く語り継いでいけるのかという不安を抱える人たちが少なくありません。
それでも、長崎の被爆者の方々は70年以上、語り継いできました。
他の人と比べて些細に思ってしまうような経験も、それぞれの目線、立場で、まず語ることで次の世代に伝わっていく。長崎では「語る」ことこそが大切で、だからこそ、そんな語り部を支える存在が重要だと取材を通して感じました。
戦争も災害も、語り継ぐべきことは生活者の数だけ無数にあると感じます。私もそうした一人一人に向き合い、伝え続けていきたいと思います。