生徒に「絶対死ぬなよ!」と声をかけ生存者を探した…
10年前の東日本大震災で800人以上が犠牲になった宮城県南三陸町。
町内の高校で震災を体験した教師が、その1か月後、鮮烈な記憶を手記に残していたことが分かりました。
そこには、教師や生徒が危険を顧みずに津波が直撃した老人ホームに駆け込み人命救助を行ったことなど、震災の過酷な現実が記されていました。10年を経て明かされた手記。当時の教師と生徒を取材しました。(仙台放送局記者 北見晃太郎)
「震災から時間がたつほど当たり障りない表現に」
手記は、震災当時、町の高台にある志津川高校の教員だった百々智之さん(42)が書いたもので、震災当日から3月16日までの5日間について記されています。
百々さんはこれまで、遺族や生徒たちの精神的な負担になると考え、手記を公にすることを避けてきました。
しかし、震災から10年がたち、人々の関心が薄れていると感じたことから今回、私たちの取材に応じてくれました。
“ガス漏れの音が不気味に響き地獄のような状態”
百々さんの手記の内容を時系列にまとめました。
まず3月11日です。
“学校は入試業務のために、授業の無い日になっていた。
硬式野球部の監督だった私は、朝からグラウンドで部員達と汗を流していた”
志津川高校は町内にある唯一の高校で、当時は400人以上の生徒が在籍していました。
野球部の顧問だった百々さんは、部員の指導をしている途中に地震を経験しました。
町が津波に襲われる様子を高台にある校舎から目の当たりにしたあと、浸水した地域に下りる生徒たちを目撃しました。
向かった先は、高校の下にあった特別養護老人ホーム「慈恵園」。
逃げ遅れた高齢者たちを救出しようとしていたのです。
“私は、生徒が自分の命を顧みずに救助している姿を見て、自分も行かないわけにはいかないと思い、救助に参加した。
慈恵園は瓦礫(がれき)の山と化し、プロパンガスのガス漏れの音が不気味に響き、地獄のような状態だった。
生徒たちに「絶対に死ぬなよ!」と声をかけ、瓦礫の中の生存者を探した”
やがて「第2波が来た」という呼びかけを聞いて、その場にいた全員が高台に戻ろうとします。
しかし、百々さんは足を踏み外し、水たまりに落ちてしまいました。
必死に這い上がって、何とか助かりました。
学校に戻り、救助された人たちが運ばれた保健室で見た光景も、百々さんは「地獄」と表現していました。
“痛みで泣き叫ぶ人。
恐怖でパニックになる人。
寒くて痙攣(けいれん)が止まらない人。
そこには人の生死の狭間が強く感じられた。
私にできたことは、濡れた衣服を脱がせて泥だらけの毛布や布切れをかけてあげることくらいだった”
学校のカーテンや暗幕を毛布代わりに使い、廊下のすのこや美術館のいすをのこぎりで切って燃やし、暖を取ったといいます。
その日の夜、体育館に集まった避難者の対応などをしたあと見た光景も、忠実に書かれていました。
“外で見た星空は綺麗(きれい)だった。
自然は非情だと感じた。
校舎を見ると、火を灯して亡くなった人を運んでいるのが見えた。
何とも言えない気持ちになった”
慈恵園のその後の調査によりますと、入所者68人のうち28人が救出されました。
残る40人に加え、救出された8人もまもなく死亡。
犠牲者はあわせて48人に上りました。
「遺体は上げるな」あのときの旦那さんの顔は忘れられない
“朝が来ると、数人の教職員がグラウンドに「SOS」と「H」を大きく書いていた。
私は、外に出て登校坂から街を見渡した。
この世の終わりのような風景だった”
3月12日、百々さんは校舎内で亡くなった人たちを1つの場所に移動させました。
遺体を腐敗させないため、雪で冷やしていたといいます。
“女性教員や女子生徒は車の上に積もった雪をビニール袋に入れる作業をしていた。
動揺させないように女子生徒には黙っていたが、遺体を冷やすために頑張ってもらっていた”
その後、百々さんは「慈恵園」に下りて、行方不明者の捜索を行いました。
そこで、女性の遺体を発見しました。
“旦那さんが隣に立っていて、「ちょっとでも良いところで寝かしてやりたいので、よろしくお願いします」と泣きながら訴えていた。
みんなで、畳に乗せた遺体を必死で運んだ。
いくつもの瓦礫の山を越えて運んだ”
しかし、もう少しで学校というところで、「避難所の衛生面を考えて、遺体は上げるな」という連絡が来たといいます。
“あのときの旦那さんの顔は忘れられない。
私も辛く、涙を我慢できなかった。
運んだ遺体を慈惠園内の一番キレイなところに納め、手を合わせることで許してもらった。
改めて、悲惨な状況に置かれていると痛感した”
手記では3日目以降、範囲を広げて教員たちで救助活動したり、生徒の安否確認に没頭したりした状況が詳しく書かれていました。
当時の生徒「正解だったのか分からない」
当時、百々さんたちと慈恵園で救助活動を行った当時の生徒に話を聞くことができました。
当時高校1年生の首藤大知さん(26)は、巨大地震が発生した当時、学校の校庭で野球部の部活動に参加していました。
津波の第1波が襲来したときは高台の校庭にとどまり、波が一時引いたとき、ほかの部員たち数人と浸水した地域に降りて、慈恵園に向かいました。
施設に入ると、高齢者がベッドに挟まれて亡くなっているのを見ました。
その光景が、いまだに忘れられないと言います。
「亡くなった方の瞳を見た時、『なんで助けてくれなかったんだ』と訴えている気がした。もっと早く動いていれば、多くの人の命を救えたのではないかという後悔がいまでも残っている」
首藤さんたちは第2波が来るまで救助を行い、近くにあった畳を担架代わりにするなどして数人を救出し、生徒たちが津波に巻き込まれることもありませんでした。
首藤さんは大学進学後、教師となりました。
今は勤務先の石巻市の中学校で生徒たちに自分の体験を話し、命の大切さや防災について教えています。
生徒の命を守る立場となった今、あのときの行動が正しかったのか、自問自答を続けているといいます。
「命の危険を冒してまで助けに行ったことが正解だったのかは、自分でもわかりませんが、あの経験を『仕方なかった』で終わらせたら、防災教育は進まない。少しでも多くのことを後生に伝えていくことが使命だと思っています」
いまの生徒に伝える
百々さんもことし2月、現在勤めている塩釜市の高校で野球部の部員16人に手記の写しを配りました。
そして読み終えた部員たちに「震災から間もなく10年が経つが、手記に書いてあるような悲惨な出来事が実際に起こったことは忘れないでいてほしい」と語りかけました。
2年生の部員は、「10年前、家族と避難したときのことを思い出しました。災害が起きた時は誰もがパニックになると思いますが、そんな時こそ落ち着いて行動したい」と話していました。
「あの日は大変だった」と笑える日を信じて
再び手記の内容に戻ります。
最後の1節には、復興への願いが記されていました。
“この南三陸町が何年後に活気のある町に戻っているかわからない。
でも、みんなの力で少しずつ復興に向かっていることは間違いない。
いつか、あの日は大変だったなぁと笑える日が来ると信じている”
この記述について、百々さんに今の思いを聞きました。
「町を盛り上げようと外から帰ってきた教え子もいる一方で、人口は減り続け、かつてよりも地域のつながりが希薄になっている姿を見ると、復興への道のりは険しいと感じている」
ありのままを伝えるということ
手記の取材に初めて応じ、内容について説明する百々さんのことばの一つ一つに、「風化を食い止めたい」という強い意志と、批判を恐れず記憶に真正面から向き合う覚悟を感じました。
あの日を思い出すのはつらいことですが、同時に、決して忘れてはいけないことでもあります。
非情な現実を知ることで、悲劇を二度と繰り返してはならないと、自分や大切な人の命を守る行動につながるのではないかと感じました。
仙台放送局気仙沼支局記者
北見晃太郎
2019年入局
警察担当を経て去年から気仙沼支局勤務
気仙沼市と南三陸町で震災や水産の取材に励む
「時間がたつほど、震災の話は美化されたり、当たり障りのない表現に変わったりしてしまう。傷つく人もいると思うが、心を少しでも揺さぶられる人がでてくれば良いと思った」