支えたのは、経験とサンドバッグ
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多くの人たちがそれぞれの進路に向けて巣立って行く時期を迎えます。
東日本大震災の被災地にある学校も同じです。
宮城県にある高校のボクシング部では、震災で練習場を失いました。それでも厳しい練習を続けてきた多くの部員たちが社会に巣立ち、それぞれの道を進んでいます。
新型コロナウイルスの感染で苦しい状況が続く中、彼らを支えていたのは逆境に負けない「経験」と「サンドバッグ」でした。(映像センター カメラマン 渡部雄平)
ボクシング名門校 練習は“ロープを持って”
宮城県名取市にある宮城県農業高校のボクシング部は、地元では宮農「みやのう」の愛称で親しまれ、過去に何人もインターハイチャンピオンが誕生した名門校です。
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東日本大震災の津波で校舎は全壊しました。ボクシング部の練習場も使えなくなり、被災後は屋外にある園芸科の実習場所を間借りして練習してきました。
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アスファルトの地面での練習。
リングやグローブなどほとんどの道具は津波によって流されたため、生徒たちがロープを持って四方に立ち、ピンと張ることでリングを作り練習を続けました。
その後、仮設の練習場を経て、7年後には練習場も新設されました。
厳しい環境の中、震災からこれまでに50人がボクシング部を巣立ち、それぞれの道を歩んでいます。
卒業生 “復興に関わる道を”
6年前にボクシング部を巣立った櫻井淳哉さんは卒業後、宮城県内の住宅メーカーに就職しました。櫻井さんは津波で被害を受けた宮城県名取市閖上地区の出身です。
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ふるさとは震災後、大規模なかさ上げ工事が行われ、櫻井さんの自宅があった場所には災害公営住宅が建ちました。櫻井さんは、さら地になったふるさとに再び家が建ち並び、人々の暮らしが戻ってくる様子を見てきました。
「被災した人たちが安心して暮らせる家づくりに携わりたい」
復興に関わる道を選択しました。
いとこの死、厳しい環境…
櫻井さんは震災が起きた翌年、宮農に入学しました。
家族は無事でしたが、近くに住む仲のよかった同い年のいとこが津波に巻き込まれて亡くなりました。8年前に取材に応じてくれた櫻井さんは、このことがボクシング部に入ったきっかけになったといいます。
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いとこの分まで何かに打ち込みたいと選んだのが、ボクシングでした。
しかし、練習は厳しかったといいます。
冬の屋外での練習はとても寒く、照明設備も無いため夕方5時すぎには辺りが真っ暗になりました。それでもいとこの分までボクシングに打ち込みたいと、練習を重ねたといいます。
監督のことば
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櫻井さんが最も思い出に残っている試合は、2013年の県新人大会の決勝です。
櫻井さんは序盤からリズムを失い、1ラウンドは何もできずポイントを取られてしまいました。その様子をセコンドで見ていたボクシング部の平間直人監督が、焦る櫻井さんに対して日々の練習を思い出させました。
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「暗い中でも、光がなくても、雨が降っても練習やってきたんだよ。そういう強い心をお前は持っているんだ。絶対負けるわけないんだ相手に。心でぶつかっていけ、心で。お前にはそれができる。ここから明日に向かっていけ」
監督のことばで目が覚めた櫻井さん。
一転して、相手に打たれてもひるまず前に出るボクシングを徹底し、2ラウンド中盤、相手をノックアウトし県大会で優勝することができました。
「どんな苦難も乗り越え、未来をつくる」
今、櫻井さんが担当する、はりを手作業で組み立てる作業は、地震に強い家を作るための大事な仕事です。
少しのずれも許されない難しい作業で教わったとおりにできず、失敗するたびに落ち込み不安に思うこともありました。
そんな時に支えとなっているのが、ボクシング部での経験でした。
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「ボクシングに打ち込んだ日々は、どんな苦難な試練でも乗り越えようという意志を与えてくれました。高校時代、自分の未来を切り開くために使っていた拳は今は人々の未来をつくる拳だと思っています」
プロボクサーに その胸にはいつも…
佐藤洸輔さん(19)も2年前にボクシング部を巣立った1人です。卒業後、上京してプロボクサーになりました。
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震災当時小学4年生だった佐藤さんが入部した時には、すでに青空のリングはなく先輩たちが経験した厳しい環境はほとんどありませんでした。それでも、先輩たちの思いがこもったものが練習場にあったといいます。
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唯一残った、1本のサンドバッグです。
津波で泥と塩水をかぶっていましたが、水洗いして修復し、被災直後から大切に使われてきたものです。
佐藤さんも先輩や監督から当時の状況を聞き、どんなに苦しい状況でもサンドバッグに打ち込んだ練習を忘れることはありませんでした。
敗戦、そしてコロナ禍…
しかし、現実は厳しいものでした。
2年前のデビュー戦は惜しくも敗戦。2戦目に向けて練習をしていたやさきの去年、新型コロナウイルスの感染拡大で所属するジムが閉鎖してしまいました。
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佐藤さんはそうした環境の中でも、近所の公園で黙々と練習を続けました。
そして、去年12月の2戦目。試合前に平間監督からメッセージが届きました。
「我慢は強さ、強さは自信」
監督が、震災当時の状況を知らない自分たちに言い続けてきたことばでした。
津波に耐えたサンドバッグでの練習の日々を思い出したといいます。
そして、見事に1ラウンドKOでプロ初勝利をあげました。
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「今までの先輩たちの思いがつながって来たから、今の自分がいると思います。これからもいろいろな壁にぶち当たった時も、乗り越える力をあのサンドバッグや先輩たちの姿が与えてくれました。これからも前を向いていきます」
H23. 3.11 “乗り越えてきた生徒の姿を”
宮農ボクシング部の練習場。新品の練習道具が並ぶ中、一つだけ、色あせた津波に耐えたサンドバッグが今もつるされています。
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サンドバッグには「H23. 3.11」と、震災の日付が記されています。
平間監督は、これからも新しい部員たちに先輩たちの姿を伝えていくことにしています。
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「卒業した生徒が困難を乗り越えてプロで活躍する姿が今の生徒にも伝わりました。10年前、当時の生徒たちが震災からの逆境を乗り越えたように、この困難な状況も今の生徒たちはきっと乗り越えていきます」
![顔写真:渡部雄平](/news/special/shinsai-portal/10/special-articles/article/still/article-reporter-13-01.jpg)
映像センター カメラマン
渡部雄平
2013年入局
仙台局などを経て現所属
入局以来、東北の取材に関わりふるさとで生きる若者をテーマに取材
「自転車でずっと探し続けました。9日後に亡くなったことを知り、何が何でも生きていてほしいという気持ちだったので無念でした。ボクシングをする姿を応援してほしかった」