定点、あの日から 被災地10年それぞれの物語
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「定点映像」。
NHKでは、東日本大震災の発生直後から岩手、宮城、福島の沿岸に定期的に通い、同じ場所、同じ画角で被災地の様子をカメラマンたちが記録してきました。
その映像には、復興へと向かう変化が映し出されています。
そして映像のひとつひとつに、多くの人たちのさまざまな思いがありました。
「定点映像」から見た被災地の10年です。
(仙台局・伊藤正人/名須川可帆 盛岡局・中本祐太 福島局・野村祐介)
“看板”に込められた覚悟:仙台局・伊藤正人カメラマン
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震災による犠牲者がもっとも多かった宮城県石巻市。
中でも沿岸の門脇地区は津波で大きな被害を受けました。
「定点映像」はその門脇地区が見渡せる高台など7か所で続けています。
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その「定点映像」の中で、震災発生から1か月後の映像にある看板がありました。
「がんばろう!石巻」。
震災当時、秋田局勤務だった私は取材応援で何度も門脇地区に入っていて、がれきの中で看板を掲げようとしていた男性に出会いました。
黒澤健一さんです。
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黒澤さんは、津波で経営していた水道設備の会社と自宅を失いながらも「地域の人を励ましたい」とその場所に看板を建てていました。
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門脇地区の定点撮影は、2011年4月から始まっていました。
小高い場所から住宅地を撮影した映像には、手前にあったはずの建物の姿はなく、一面、がれきが積み重なっています。
つぶさに見ていくと、がれきが残る看板の周りに、5月にはこいのぼり、7月には七夕飾りが掲げられていました。
当時のことを黒澤さんに聞きました。
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2013年の映像では、看板の前に多くの人が集まっています。
看板は、地区の人だけでなく、石巻市を訪れる人たちにとっても犠牲者に祈りをささげる場となっていったのです。
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しかし、2015年の映像では、看板のまわりで土地のかさ上げ工事が始まり、看板も立ち退きを迫られました。
そして2016年、看板は定点映像から消えてしまいました。
黒澤さんは当時の状況について「いずれ看板は役割を終えるときが来ると感じていた」といいます。
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ところが、その後、別の場所からの定点映像に、あの看板が姿を現していました。
震災の記憶を伝えるシンボルとして、整備中の復興祈念公園の一角に移設されて残ることになったのです。
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「ここであった悲しい出来事を継続して伝えなければ」と力強く語った黒澤さん。
「定点映像」の看板は、10年間で役割を変えながらも被災地にあり続ける黒澤さんの覚悟を映し出していました。
被災地記録し続けた定点映像
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NHK仙台拠点放送局のニュースフロアの一角にある棚には「定点映像」が記録されたディスクが並んでいます。
全国の250人余りのカメラマンが撮りつないだ映像はこれまでおよそ100か所、6000カットに及びます。
原発事故からの“希望”:いわき支局・野村祐介カメラマン
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定点映像では地震、津波の被害とともに、東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響を受けた福島県でも続けられています。
しかし、原発事故の影響で、大熊町や富岡町など原発に近い自治体で定点映像の撮影を本格的に始めたのは、震災発生から3年がたってからでした。
立ち入りが厳しく制限されている帰還困難区域では、自治体から特別な許可を得て、防護服を着て撮影しました。
時が止まったかのような空白の時間。
それでも、定点映像をひもとくとそこには小さな希望がありました。
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原発から10キロ圏内にある富岡町の富岡漁港。
定点映像はまだ全町に避難指示が出されていた2014年から残されています。
津波で壊れたままの漁港施設の鉄骨。
簡単に立ち入ることができなかったため、その後の映像にはその鉄骨が変わることなく映っていました。
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そして避難指示が一部で解除された2017年の定点映像に整備が急ピッチに進む様子が残されていました。
その映像に町の人たちはどんな思いを持っているのか、私は取材を始めました。
“自分の家”を復活させたい
出会ったのは、漁港の復興を担当した富岡町役場の職員、佐々木邦浩さんです。
「定点映像」を撮影をしていた漁港を一望できる橋の上で話を伺うと、佐々木さんは震災の翌朝、この場所で、町を見ていたといいます。
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「もう地獄絵ですよね。あのときはどういうふうに復興するんだろうって全く想像できませんでした」
佐々木さんはみずからも被災し、いまも帰還困難区域にある自宅には戻ることはできません。
復興から取り残されてきた漁港の姿は、みずからの境遇と重なったといいます。
「ここ(漁港)が漁業者の自分の家なんです。自分の家から仕事にいって帰ってくる。その人たちのために必ず復活させなければ、その一心でした」
避難先に家族を残して、漁港の再生のために奔走した佐々木さん。
定点映像を見てもらうと、ある映像を指さして目に涙を浮かべました。
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2017年に撮影した映像、そこには、小さく黄色の重機が映っていました。
「ショベルカーは涙が出るくらいうれしくて」。
帰還困難区域では重機が動くことさえ難しかった当時の現実を思い出したというのです。
「ここに重機が入るということは、漁港が確実に再生に向かっているメッセージ」と話す佐々木さん。
重機が動くことが、福島の復興への一歩だったと感じていました。
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富岡漁港は福島県内の漁港では最後の“復港”を遂げました。
しかし、帰還困難区域が残る富岡町に戻った人は全体の12.8%にとどまっています。
それでも佐々木さんは前を向いています。
「まだまだこれからですよ。自慢できる町を作っていきたいですね」。
若手カメラマンが向き合った定点映像
NHKでは全国各地から応援に来たカメラマンが被災地に入り、「定点映像」に関わってきました。
震災から10年、当時まだ中学生や高校生だった若いカメラマンたちも加わっています。
遠い災害と感じた:盛岡局・中本祐太カメラマン
入局2年目の私が定点映像をじっくり見たのは、盛岡局に配属となって1年半が過ぎようとしていた去年11月でした。
震災直後の生々しい現実にただただ衝撃を受けました。
当時、兵庫県の高校の2年生だった私は、あの日部活の帰り道に友人から震災のことを聞きました。
テレビに流れる被害も“遠い場所で起こった大変な出来事”という記憶でした。
そんな私が盛岡局で被災地の取材に関わるようになり、最初は自分が取材する資格があるのか戸惑いながら、被災地のことを少しずつ聞けるようになり、震災を遠くに感じていたからこそ伝えられることがあると思えるようになりました。
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今回、取材を担当したのは岩手県山田町でした。
大規模なかさ上げ工事で町の姿が何度も変化していて、住民がどう感じてきたのか知りたいと思いました。
定点映像といまの風景とを照らし合わせながら取材を続け、出会ったのが、生花店を営む中村勇二さんでした。
津波で店は被害を受けていましたが、「弔いの花が欲しい」という声にこたえようと、すぐにテントで店を再開。
泣きながら買っていく人たちの姿に「遺族の方の気持ちに寄り添いたい」と思ったといいます。
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そして3か月後からはプレハブで営業、5年後にようやく店舗を再建しました。
定点映像には店舗と重機が映っています。
周囲でかさ上げ工事が始まり、工事関係者も花を買いに訪れたといいます。
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「地元に残した家族に花を贈りたいとか、奥さんの誕生日プレゼントとかけっこうありました」
重機の映像の向こうに、さまざまな人の思いもあることを知りました。
そして、商店や住宅の再建が進んだここ数年は、祝いの花や観賞用の花を買い求める地元の人が増えたといいます。
町の変化とともに、求める花も変わっていく。
それは、「定点映像」の表面だけを見てもわからないことでした。
プレハブの食堂にはどんな人たちが来たのだろうか。
大漁旗を掲げた漁船では、どんな会話が交わされていたのだろうか。
移り変わる町の姿の中には、ひとりひとりの生活があるのだと思いました。
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私は山田町役場の屋上にカメラを据え「町のいま」を定点映像に収めています。
この町の小さな変化をこれからも見つめ続けていきたいと思います。
震災を取材していいのか:仙台局・名須川可帆カメラマン
私も入局2年目で、被災地の取材を始めたときは震災を知らない若者が話を聞かせてくださいなんて言っていいのだろうかと思っていました。
当時中学3年生の春休み。
神奈川県に住んでいて、大きな揺れがあったことと、新聞に大きく書かれた死者の数と、長く続いた計画停電以外、震災の記憶はありません。
そんな私は、仙台局に配属されて半年がたったころ、先輩たちの定点映像を初めて見ました。
街の再生に感動した一方で、さら地になっていく様子はそこにいる人たちの思い出が消えてしまうようでショックでした。
自分がいまやるべきことは何なのか、そんな思いで定点映像と向き合いました。
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宮城県東松島市の定点映像にある女性の家が写っていました。
新妻佳子さんの家です。
私は去年の3月、震災当時に贈られた千羽鶴を保存する取り組みを取材したときに新妻さんと出会いました。
明るい人柄が印象的で、震災のことを思い切って聞くことができました。
新妻さんは足が不自由な父親を車に乗せて避難しているときに津波に襲われ、父親が亡くなっていました。
そして実は父親のついの住みかとして震災の1年前に東松島に移り住んだこと、父を亡くしたあともこの場所に住み続けていることも教えてくれました。
つらい記憶を抱えてどうして住み続けるのか、その理由を知りたいと取材を始めました。
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「直接謝りたい。冷たかっただろうし、寒かっただろうし…」。
自分の運転する車で父親を救えなかった後悔をずっと抱えていました。
その思いがある場所に刻まれていました。
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2017年に高台につくられたメモリアルベンチです。
住民がプレートにそれぞれ亡き人への思いをつづっています。
新妻さんが書いたのは「側にいますか…」。
父親が自分のことを恨んでいるのではないか、自分のそばにいてくれないのではないか、そんな思いがこの問いかけになったと言います。
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思いをつづってから3年。
ベンチのある高台でいまの思いを聞きました。
新妻さんの視線の先には新しくなった建物や道路、ときおり車が走っていました。
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「ふと思ったのね。きっとここにいると思うの、父が。一歩一歩前に進んでるじゃない?つらいけど私ここで生きてる。だから見ててっていう気持ちになってきたのかな」
その後、新妻さんは、ベンチに向かって「そばにいてくれるよね」、そう語りかけていました。
10年をかけてようやくたどり着いた思い。
新妻さんはこれからも父親の好きだった東松島の復興を見続けていくつもりです。
私はいまだに震災のことを聞くためらいが消えません。
それでも過去といまの思いをつなぐ「定点映像」をひとりのカメラマンとして未来へ残したい、そして、前を向いて生きる人たちの思いを伝え続けたい、そう考えています。
これからの「定点映像」
東日本大震災の被災地の10年間を記録した定点映像。
隅々を見ると空き地が目立ち、工事が続く場所もあります。
復興はまだ道半ば、という印象を受けます。
「まだまだこれからですよ」。
福島県富岡町で漁港の復活に奔走した佐々木さんの言葉です。
「まだまだこれから、定点映像で見つめます」。
私たちの決意です。
![顔写真:伊藤正人](/news/special/shinsai-portal/10/special-articles/article/still/article-reporter-09-01.jpg)
仙台放送局カメラマン
伊藤正人
2003年入局
東日本大震災の取材を継続して行い
定点映像の撮影や「定点、あの日から」の取材・制作に取り組む
![顔写真:野村祐介](/news/special/shinsai-portal/10/special-articles/article/still/article-reporter-09-02.jpg)
福島放送局(いわき支局)カメラマン
野村祐介
2014年入局
名古屋局、静岡局を経て、津波と原発事故の被災地取材を担当
復興していく町並みをドローンでも記録を続けている
![顔写真:中本祐太](/news/special/shinsai-portal/10/special-articles/article/still/article-reporter-09-03.jpg)
盛岡放送局カメラマン
中本祐太
2019年入局
新人として盛岡局に赴任し、初めて震災の取材を経験
上空から被災地の復興を見るシリーズを担当するなど多角的に取材
![顔写真:名須川可帆](/news/special/shinsai-portal/10/special-articles/article/still/article-reporter-09-04.jpg)
仙台放送局カメラマン
名須川可帆
2019年入局
神奈川県出身。新人として仙台局に着任後、震災の被災地取材に携わる
これまでに千羽鶴保存の取り組みなど人と人との絆をテーマに取材
「地区の人たちから『おれもがんばるから』と声をかけられ、そのことが励みになって続けられていました」