東日本大震災【NHK特設サイト】3.11 あの日から10年

「震災直後の自分にいまなら
どのような言葉をかけるのでしょうか」

「10年の歩みを振り返り
何を思うのでしょうか」

アンケートでは、
被災した方に
メッセージもお願いしました。

ここに掲載できたのはその一部ですが、
心にせまるメッセージが数多く
寄せられていました。

震災から10年。
被災した方の思いです。

大切な人への思いを胸に

  • 50代女性岩手県宮古市

    「母さん!!反抗ばかりして
    御免なさい。
    一言、感謝!!」

    母さん、せめてあの時裏山に逃げていてくれたなら助かっていたはずなのに。今も一人になると涙が出ます。

    親のありがたさや尊さ、亡くなって初めてやっとわかりました。私達の為に一生懸命働いてくれてありがとう!!

    寒い日に真っ赤に手を腫らし頑張ってくれたね。痛いとも辛いとも苦しいとも言った事なかった母さんは偉い人だったんだね。決してまねできません。

    それなのに母さんに反抗していた私。ご免なさい!親孝行できなくて。反対に悪口ばかり。もっと素直になって色々、習っておくべきでした。

    後悔しています。
    今となっては只感謝だけです。

  • 50代男性岩手県石巻市

    「生きたくても、生きられなかった命が
    あるから、生かされた人間は生きる」

    あの日、生きてて地獄と言う場面で、生きる意味を失ってしまいました。死んでしまおうと、何度も考えた。

    しかし、長女と次女は、次の日、眠っている様な顔で見つけた。長男を見つけるまでは、死ねないと思っていた。

    10日後に自衛隊の方が、長男を見つけてくれた。すぐ長男が見つかっていたら、死んでしまっていたかもしれない。

    10日間必死に長男を探す中、生きたくても、生きられなかった多くの命を感じた時、生かされた人間は、生きなくては、と思える様になった。

    自分で命を絶ったら、3人の子どもたちに、蹴飛ばされると思った。3人の子どもたちと過ごした幸せな時間、思い出が私を支えた。3人の子どもたちの生きた証を創る生き方だったら、まだ生きてゆけると思った。3人の子どもの父親として生きてゆこうと決めた。

    先日、脳梗塞でまた死にかけた。3人の子どもに会えると思ったが、やりかけの仕事、活動がたくさんあり、まだ死にたくないと思った。3人の子どもがまだ生きろと、生かされたのだと思う。まだ生きる。

    人の想いを形にする仕事をして、3人の子どもたちに褒めてもらえるように、今、自分にかける言葉です。

  • 50代女性岩手県山田町

    「10年前の自分へ
    そして最愛なる息子へ」

    「大きい地震、津波がくるよー!!」「家族皆で逃げてー」って、大きい声で教えてあげたい。

    24才の息子を助けられなかった。息子は家族の事を心配して戻ってきた。後悔している。

    10年前の自分に言いたいのは「明るくなれ」「泣くな!!」「残された家族を守れ」「たくましい人間になれ」

    10年たった今は山の上に中古の家を買い、家族5人でくらしています。息子は常に一緒、遺骨は墓に入れずに家で皆と一緒にいます。お墓は虫がいるからイヤだって言ってたから、母さんははなしません。

    いっしょだよ。いつまでも。

苦しみはいまも

  • 60代女性宮城県南三陸町

    「大きな声で泣いていいよ!」

    次男が震災発生後10日目に私の元に帰って来てくれた。眠っている様な、物言わぬ顔「…ちゃん!」「起きなさい!」と声をかけたら目から一筋の涙が…。声を発する事も出来ず、ただただ息子の顔を撫でていました。

    まわりからは、悲鳴のような声、大きな声で泣き叫ぶ人、人、人、でも、母親を亡くしながらも懸命に明るくふるまい炊き出しに精を出す高校生、自分以外は全ての家族を失い不安な目の小学生。私より辛い想いをしている人達が沢山いる中で、自然に歯をくいしばり取り乱さないようにしようと必死でした。

    今になって、なんて冷たい母親!!なぜ息子のために形振り構わず、大きな声で泣いてやれなかったのか…息子もそうでしょうが、私も、彼があちらの世界に旅立ってしまった事が信じられず、いつの日か「母さんただいま!今夜のおかずはなに?」と、くいしんぼうの息子がケロッとした顔で帰って来そうに思え泣けなかったのかもしれません。

    10年が継とうとしている今も、未だに大声を出して泣き叫ぶ事が出来ずにいる母です。

  • 20代女性岩手県陸前高田市

    「卒業を控えていた小学校6年生の私へ」

    当時、何が起きたのか理解できなかった。大人達の顔は不安でいっぱい。ラジオからも深刻な状況ばかり聞こえてきた。「ツナミ」っていう言葉の意味が分かったのは、電気が開通してテレビをつけたとき。海から黒い水があふれて見知った街を飲みこんだ。後から家族と見に行った。

    私が知っている街はどこにもなかった。信じられなかった。だから私は悪い夢をみているのだと思った。でも何度寝て目が覚めても変わらなかった。

    3月に小学校を卒業する予定だった。お互いの無事を喜び合う大人たち、卒業式の中、震災で亡くなった人たちを悼む大人たち。私服で出席した卒業生と、在校生。不謹慎だが、卒業を祝ってほしかった。死を悼むばかりではなく、卒業する私達を、私を、祝ってほしかった。10年経った今でも、私は悪夢から目覚めていない。不謹慎な願いをしたせいだろう。

    私は震災の影響でPTSDを発症した。

  • 60代女性宮城気仙沼市

    「あなたに罪はありません。
    天命でした。
    自分がやりたいようにやっていい」

    実父・姑が避難の仕方が悪くて、亡くなってしまった。どうして、おんぶしなかった?避難しないから死んだんだ!!周囲から、上記のように言われ、つらかった。そうするしかなかったのだと思えるようになったのはつい最近のことだ。

    決して、3.11について、外の人間が意見してはならないと思う。

これからを生きる

  • 50代男性岩手県陸前高田市

    「新しい命がつながったよ」

    あの日、波にのまれた市役所の屋上で死を覚悟した長女が大学を卒業し、就職し、結婚し、子どもができました。あの日、隣人が声をかけてくれなかったら。市役所の人が建物の中に誘導してくれなかったら今、ここに娘はいない。(誘導してくれた方は、亡くなってしまった…)。奇跡的に助かった命が、今、新しい命をつないでくれた。これも1つの復興。命の大切さ、ありがたさをつくづく思う今です。

  • 30代女性福島県いわき市

    10年後あなたは楽な道のりではないけど、結婚して2人の子供を産んで、ばあの夢を叶える事ができているよ。小さな家だけど幸せに生きている。ばあはまだ見つからないけど10年後のあなたは被災した事をポジティブに考えられるようになっている。自分を信じて歩んで行ってほしい。

  • 40代男性茨城県(福島県双葉町から避難)

    「生きている限り無限の可能性」

    震災直後に産まれた長男が生きる希望となった。その後、次男が生まれ、家族が増えた。新天地を探し、家族のために事業を始めた。家族が生きる原動力となった。その気持ちは、震災直後と今も変わらない。

    焦らず、自分が本当にそれで良いと思ったのなら、信じて行動するだけ。行動した事で、結果を生み、次の可能性が見えてくる。焦らず、急がず、自分らしく。人目、世間体等、気にしない。背伸びしない。人と比べない。人生は今も大切だが、今が悪い状態の時は、忍ぶ事。トータルで、最後に振り返った時、良かったと思える事を信じて、希望だけは持ち続けて。何もしたくない時は、無理をしないで。

  • 40代女性岩手県陸前高田市

    「今の気持ちを抱えて、
    長い道のりになるぞ。
     負けないでいくぞ」

    この言葉は直後、自分に掛けた、自分の中の声だったと覚えている。その言葉と声をずっと10年抱えて、心も体も弱っていた自分にムチ打って走り続けている感じがする。ずっと長いトンネルの中だ。

    生まれ育ち、その中で生きて来た世界や仲間が、あの一日の出来事で、一時でメチャクチャに消えた。その信じられない事を自分は乗り越えられるだろうか怖くなった。でも、同時に、助けなければならない、守らなければならない、両親と小さい娘ちゃんが居て、負ける訳にいかないぞっていう気持ちもこみ上げてくる。逃げられない問題を一つ一つ立ち向かうしかなかった。失うことばかりで、絶望だらけでも。そう思って来た10年。良い方向へ向かって走っているか謎のまま。実際、本当に大変で長い道のり。キレイ事の無い現実と向き合った。人生で最も短い10年となった。でも、まだまだ走るようだと思える現状。

アンケート結果を
PDFにまとめています

PDFをダウンロード

その他のアンケート結果