「なぜ自分たちと同じ世代が…」“乙女の悲劇”たどる高校生

「なぜ自分たちと同じ世代が…」“乙女の悲劇”たどる高校生(2021/1/15 札幌局アナウンサー 芳川隆一)

「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」

終戦直後、こう言い残してみずから命を絶ったのは、樺太(今のサハリン)で電話交換手として働いていた、10代から20代の女性9人です。

その悲劇は「9人の乙女」として語り継がれています。

なぜ自分たちと同じ世代が。

高校生たちがその疑問を解くために悲劇を伝える朗読劇に参加し、見つけた答えとは。

母から受けた“バトン"を次の世代へ

「来月、朗読劇をやることになりました」

11月、私は取材で以前お世話になった方から電話をもらいました。

舞台の様子

電話の主の中間真永さんは、「9人の乙女」をテーマにした舞台を毎年8月に上演しています。

「あの戦争が始まらなければ、乙女たちの悲劇も無かった」との思いから、ことしは開戦から80年となる12月にあわせて朗読劇を企画したそうです。

中間さんと母親

母親は命を絶った9人の元同僚で、生き残った者として中間さんに繰り返し話を聞かせてくれました。その母親も9年前に亡くなりました。

中間真永さん
「次の世代にバトンを渡していくように、大切なことは伝えていかなくてはいけないという使命感があるんです」。

中間さんが今回、朗読劇のキャストに選んだのは、乙女たちと同じ世代の高校生でした。

"なぜ命をたったのか" 乙女の悲劇をたどる

加藤千尋さんと大西晃吾さん

さっそく高校を訪れたところ、バンド練習をしている2人と会いました。

朗読劇に参加する高校1年生の加藤千尋さんと、高校2年生の大西晃吾さんです。

2人とも音楽や演劇を学んでいて、朗読劇を通してより深く乙女たちの悲劇を学びたいと考えていました。

電話交換手の仕事風景

悲劇が起きたのは終戦直後の昭和20年8月20日でした。

ソビエト軍が南樺太の港町・真岡に侵攻し上陸したことがきっかけでした。

真岡の郵便局にいた電話交換手の女性たちは、電話をつなげて状況を伝え続けましたが、ソビエト軍が目前に迫る中で9人は青酸カリを飲んでみずから命を絶ちました。

加藤千尋さん

加藤さんは自分と同じ世代の女性たちがどうしてみずから命を絶ったのか、知りたいと考えていました。

加藤千尋さん
「好きな人がいたり、もっと遊びたかったり。もし私が当時、生きていたら、未来があるし、やりたいことだってあるので…」。

1人だけ逃げるわけにはいかない

その疑問を解きたいと加藤さんと大西さんは、元同僚の女性から話を聞くことになりました。札幌から車で3時間の和寒町に暮らす栗山知ゑ子さん、93歳。

栗山さんは、9人が命を絶った8月20日の数日前、家族で本土へ疎開するために電話交換手の仕事を辞めていました。

ソビエト軍が迫る中で幼いきょうだいを連れ、銃撃や砲弾を避けながら樺太をあとにしたと話しました。

栗山知ゑ子さん

栗山知ゑ子さん
「弾が海のほうからシュンシュンと何列も来るんだからね。4つずつ弾が並んで来るんだから。それに当たりたくなくて。生きた心地がしなかった」

加藤さんはどうしても知りたかったことをたずねました。

加藤さん:「もし栗山さんが9人の乙女が自決した8月20日に一緒にお仕事をされていたら どのような判断をされましたか?」

栗山さん:「やっぱり同じことをやったでしょうね。1人だけ嫌だって逃げるわけにはいかないんでね」

何のためらいもなく返ってきた栗山さんの答えに納得できない加藤さんは、さらに続けました。

加藤さん:「もし私が同じ時代に生きていたら、自分のやりたいこともあるし未来もあるので、1人だけでも薬を飲まずに助かりたいと思うんですけど、なぜ一緒に自決しようという考えになるんですか」。

すると栗山さんは一瞬、言葉に詰まる様子を見せてからこう話しました。

栗山さん:「当時は、戦争に負けてもしロシア兵が入ってきたら、女の人をみんな倒して体に触られるとかっていうのを聞かされていたんだよね」

つらい話をしてくれたことに丁寧にお礼を伝えた後、2人は栗山さんの家をあとにしました。家の外で加藤さんはこう話してくれました。

加藤千尋さん:
「私が栗山さんと同じ状況にいたら何もできないと思うので、きっとすごく考えたというか、怖かったというか、いろんな感情があったのかなと思います」

"本当は生きたかった" 見つけた答え

朗読会場

そして朗読劇の本番。加藤さんは「乙女たちは本当は生きたかったんだ」という思いに至っていました。約20分間の朗読劇で、その思いをことばに込めました。

私たちは床をはいつくばりながら

交換台にたどり着き

泣きながら残っている回線をつなげていきました

激しい爆撃音の中 電話をつなぎ続けました

回線が生きている限り 私たちも生きている

最後の回線を握っていた可香谷さんが

絞り出すような声で言いました

「皆さんお世話になりました。

これが最後です

さようなら さようなら」

朗読を終えた加藤さんに「乙女たちの悲劇について学んだことで、何か気持ちに変化はありますか?」と訪ねると、次のように話してくれました。

加藤千尋さん:
「親とけんかしたり友達とけんかした時に、『死んでやるから』『自殺してやるから』、そんな風に、私も言っていたんですけど、9人の乙女のお話を聞いて、親とけんかしたぐらいで、自分がむかついたぐらいで死んではいけないなと。乙女たちができなかったことを代わりに私がやると言ったら少し変かもしれないですけど、今、やりたい事が当たり前のように毎日できていることを幸せに感じて、感謝をしたいです」。

【取材後記】

高校生たちは稚内市で朗読劇をする前に中間さんの案内で、戦後に引き揚げた多くの人がたどり着いた稚内市の港を訪れました。

あらゆる財産を失い、家族や友人を亡くしながら引き揚げてきた人たち。

みずから命を絶った「9人の乙女」について知るということは、同時にそうして過酷な

状況を生き延びてきた人たちの歴史にも目を向けるという事である…そんな思いから、中間さんは高校生をその場所に案内したのだと思います。

太平洋戦争の開戦から80年。乙女たちの思いに触れた同世代の高校生たちが、今度は次の世代に記憶のバトンを渡していく存在になってくれることを願っています。