1973年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した動物学者のコンラート・ローレンツ博士が残したことばがある。
「イカは、人工飼育できない唯一の動物だ」
ブリやマグロ、ホタテなど、私たちの食卓に欠かせない魚介類の多くは養殖されたもの。いまや世界で生産される魚介類のうち、養殖は年間1億トンあまりを占め、天然を上回る。養殖現場での取材では毎度、技術の進歩に驚かされてきたが、ある日、耳を疑う情報が寄せられた。
「ある研究チームが、イカを安定的に養殖するシステムを作り上げたようだ」
デスクを説得して、早速、現地に向かった。
本当にいた!"養殖のイカ”

沖縄・恩納村にある沖縄科学技術大学院大学。2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したスバンテ・ペーボ博士が客員教授を務めていることでも話題になった国内有数の研究機関だ。
目の前に広がる透き通った海。見上げれば青い空。取材を忘れそうになったが、そうも“イカ”ない。研究施設に入ると、研究の中心人物、ズデニェク・ライブネルさんが出迎えてくれた。
ところ狭しと並ぶ、大小80個ほどの水槽。のぞけばさまざまな海洋生物が飼育されている。奥に案内されて、見せてくれたある水槽で泳いでいたのは…。
“アオリイカ”だ!
体長は15センチほど。アオリイカと言えば、市場で1キロ5000円を超えることもある高級食材だ。
目の前に広がる透き通った海。見上げれば青い空。取材を忘れそうになったが、そうも“イカ”ない。研究施設に入ると、研究の中心人物、ズデニェク・ライブネルさんが出迎えてくれた。
ところ狭しと並ぶ、大小80個ほどの水槽。のぞけばさまざまな海洋生物が飼育されている。奥に案内されて、見せてくれたある水槽で泳いでいたのは…。
“アオリイカ”だ!
体長は15センチほど。アオリイカと言えば、市場で1キロ5000円を超えることもある高級食材だ。

(ズデニェク・ライブネルさん)
「養殖はうまくいっているよ。研究用として冷凍保存してしまうから水槽にいる数は少ないけど」
これまで私が常識だと思っていた「イカの養殖は不可能」という考えは、あっけなく崩れ去った。
「養殖はうまくいっているよ。研究用として冷凍保存してしまうから水槽にいる数は少ないけど」
これまで私が常識だと思っていた「イカの養殖は不可能」という考えは、あっけなく崩れ去った。
イカ激減…全盛期の1割
煮たり、焼いたり、刺身で食べたりと、日本人にとっては古くからなじみ深い「イカ」。ここ数年で大きく数を減らしている。

1980年代、国内では年間75万トンもの水揚げがあったものの、ここ数年は8万トン前後と、10分の1近くまで激減。乱獲や海水温上昇の影響などが原因として挙げられているが、はっきりしたことはわかっていないという。最近は国内だけでは間に合わず、年間およそ10万トンを輸入に頼っているのが現状だ。
そうなるとおのずと養殖への期待は高まる。
取材したところ、イカの養殖は60年以上前から世界中で挑戦され続けているが、冒頭のノーベル賞受賞者のことばどおりで、商業化に成功した例はまだないという。
そうなるとおのずと養殖への期待は高まる。
取材したところ、イカの養殖は60年以上前から世界中で挑戦され続けているが、冒頭のノーベル賞受賞者のことばどおりで、商業化に成功した例はまだないという。
イカは“わがまま”

では、なぜ養殖が難しいのか。ズデニェク・ライブネルさんとともに研究に取り組む中島隆太さんが軽妙に答えてくれた。

「生物界きっての“わがまま”なやつなんです」
イカの多くは、吸い込んだ海水を勢いよく吹き出し、ロケットのように泳ぐ。このため、水槽で飼育しようとすると、壁に激突して死んでしまう。また、水質や水温の微妙な変化にも敏感で神経質。特に寒さに弱く、アオリイカだと海水温が20度を下回ると急激に弱まってエサを食べなくなり、15度以下だとほとんどが死んでしまう。
さらに、生きたエサしか食べないなど、好みが激しい。
まさに“わがまま”なのだ。
さらに、生きたエサしか食べないなど、好みが激しい。
まさに“わがまま”なのだ。
養殖するつもりはなかった
この不可能といわれるイカの養殖になぜ挑戦したのだろうか?ズデニェク・ライブネルさんはあっさりと答えた。

「もともと養殖するつもりはなかったんだよ」
研究当初の目的は、イカの行動や生態の観察や、遺伝的な研究だった。そのためにたくさん飼育していたら、途中から「養殖できるんじゃないか」と思ったという。
ズデニェク・ライブネルさんらは2017年に養殖プロジェクトを本格的に始めた。何を食べるのか、エサの量、与えるタイミング、飼育する水槽の大きさ。すべて手探り。初期は、全くうまくいかず、研究メンバーはイカが死ぬたびにいらだちを募らせたという。
ズデニェク・ライブネルさんらは2017年に養殖プロジェクトを本格的に始めた。何を食べるのか、エサの量、与えるタイミング、飼育する水槽の大きさ。すべて手探り。初期は、全くうまくいかず、研究メンバーはイカが死ぬたびにいらだちを募らせたという。

沖縄科学技術大学院大学 中島隆太 客員研究員
「最初は失敗の連続。イカが死ぬたびに、その原因について研究室で議論するが、意見が違ってメンバー同士でどなり合うのは日常茶飯事。成果が出ないので予算や人員も削減され、イカの養殖にたどりつく前に研究室が滅びそうになった」。
「最初は失敗の連続。イカが死ぬたびに、その原因について研究室で議論するが、意見が違ってメンバー同士でどなり合うのは日常茶飯事。成果が出ないので予算や人員も削減され、イカの養殖にたどりつく前に研究室が滅びそうになった」。
活路は「衣・食・住」!
思い思いにイカりをぶつけ合う研究チーム。難題を"イカ”にして乗り越えたのか?
カギは、快適な暮らしを送るための基礎、「衣・食・住」にあったのだ。
カギは、快適な暮らしを送るための基礎、「衣・食・住」にあったのだ。
①「衣」…慣れ親しんだ環境に近づけるための“海水掛け流し

通常、養殖では人工海水が使われることが多い。人工海水とは、真水に塩化ナトリウムなどの塩分を加えたもので、海から離れた場所でも魚などを養殖することができるほか、海水とは違って雑菌などが入りにくい。
こうしたメリットから、人工海水は養殖にしばしば用いられるが、温度管理に費用がかかるのがネックとなる。
そこで研究チームは、目の前の海水をそのまま飼育水槽に引水、汚れを取り除いて再び海に戻す方式を採用。温泉で言う、いわゆる“掛け流し方式”だ。飼育しているアオリイカは元々、沖縄の海で育っている。慣れ親しんだ環境に近づけることで、ストレスを減らす工夫をした。また、“海水掛け流し方式”は人工海水に比べて温度管理もほとんど必要なく、コストも大幅に削減できるという。
こうしたメリットから、人工海水は養殖にしばしば用いられるが、温度管理に費用がかかるのがネックとなる。
そこで研究チームは、目の前の海水をそのまま飼育水槽に引水、汚れを取り除いて再び海に戻す方式を採用。温泉で言う、いわゆる“掛け流し方式”だ。飼育しているアオリイカは元々、沖縄の海で育っている。慣れ親しんだ環境に近づけることで、ストレスを減らす工夫をした。また、“海水掛け流し方式”は人工海水に比べて温度管理もほとんど必要なく、コストも大幅に削減できるという。
②「食」…好き嫌いを“トレーニング”で克服

生きたエサを好むイカ。管理の難しさから、生きたエサだと莫大な費用がかかる。ところが、研究チームが養殖しているアオリイカに、死んだ小魚を近づけると…パクリ!
「ここが取材の肝だ!」
すぐさまメモ帳とペンを持った私だったが「特許の関係でこれ以上はNG」とバッサリ。これではおさまらない。デスクの“イカる”顔が目に浮かぶ。食い下がってみると、イカを“トレーニング”するというのだ。
「ここが取材の肝だ!」
すぐさまメモ帳とペンを持った私だったが「特許の関係でこれ以上はNG」とバッサリ。これではおさまらない。デスクの“イカる”顔が目に浮かぶ。食い下がってみると、イカを“トレーニング”するというのだ。

ふ化後の早い段階からイカを入念に観察した結果、1日の中で空腹のタイミングがわかるようになったという。さらに、ふ化後から生きていないエサに慣れさせることで、成長後も好き嫌いなく食べるようになったという。エサを与えるのは空腹を見計らって1日に5回、特にシラスとキビナゴが成長に適していることも判明。
…とここまで。これ以上は秘密と言われた。
…とここまで。これ以上は秘密と言われた。
③「住」…成長に適した広さ

そして「住」環境。
イカの多くは本来、岩などの障害物がない広い海で自由に泳ぐ。これはさすがに習性なので、止めようがない。そこで目をつけたのがアオリイカだ。アオリイカは、沿岸の岩場やサンゴなどの障害物のある場所に生息し、あまり移動せずにその場所でプカプカ浮いていることが多い。研究チームは、体長が大きくなるのにあわせて水槽の大きさを3段階に変化。個体どうしで過密にならないよう、成長のタイミングを見計らって水槽を切り替えることでイカのストレスを減らすことができたという。
「アオリイカを選んだのは高級食材だからでは…」という浅はかな考えを頭の中からすぐに消した。
イカの多くは本来、岩などの障害物がない広い海で自由に泳ぐ。これはさすがに習性なので、止めようがない。そこで目をつけたのがアオリイカだ。アオリイカは、沿岸の岩場やサンゴなどの障害物のある場所に生息し、あまり移動せずにその場所でプカプカ浮いていることが多い。研究チームは、体長が大きくなるのにあわせて水槽の大きさを3段階に変化。個体どうしで過密にならないよう、成長のタイミングを見計らって水槽を切り替えることでイカのストレスを減らすことができたという。
「アオリイカを選んだのは高級食材だからでは…」という浅はかな考えを頭の中からすぐに消した。
生存率は驚異の90%超

研究チームが5年間で育てたアオリイカは5万匹。
“衣食住”を改善させた結果、数パーセント程度だった、アオリイカのふ化後90日まで生き残る割合は、90パーセント以上に上昇。また、遺伝的な影響を出すことなく、10世代にわたって安定して増やすことができたという。研究チームは「世界で初めて成功した」と胸を張る。
“衣食住”を改善させた結果、数パーセント程度だった、アオリイカのふ化後90日まで生き残る割合は、90パーセント以上に上昇。また、遺伝的な影響を出すことなく、10世代にわたって安定して増やすことができたという。研究チームは「世界で初めて成功した」と胸を張る。
イカ養殖の未来は “イカ”に?

(沖縄科学技術大学院大学 ズデニェク・ライブネル博士)
「イカの漁獲量が激減しているので、この養殖システムがうまくいって、将来、役に立てばうれしいし、同時にこの研究によってイカの生態も解明し、減少の理由を明らかにすることも目指したい」
「イカの漁獲量が激減しているので、この養殖システムがうまくいって、将来、役に立てばうれしいし、同時にこの研究によってイカの生態も解明し、減少の理由を明らかにすることも目指したい」
そう語るズデニェク・ライブネルさん。聞きそびれていた出身地を聞いてびっくり。チェコだという。
海がない!
周りはドイツやポーランド、スロバキアなど、陸地ばかり。
海がない!
周りはドイツやポーランド、スロバキアなど、陸地ばかり。
ズデニェク・ライブネルさんは小さいころから魚が好きで、大学では淡水魚の養殖の研究をしていたという。チェコでは海産物を食べる習慣がほとんどないというがイカはほかの魚などと比べても圧倒的に成長が早く、3か月から6か月ほどで成熟するものもいる。周りが海に面していない場所でもこの手法をいかして、いつかはイカの養殖場を設立し、イカを広めたいと考えている。
ちなみに、食材としての「イカ」も大好物だとか。
ちなみに、食材としての「イカ」も大好物だとか。

「天ぷらとイカフライが特に好きだね。養殖しているイカは研究用なので、食べることはできないけど、絶対おいしいはずだよ。見ればわかる」

研究チームは、商業化を視野にこの手法の特許を申請中で、来年には認められる見通しだという。コスト削減や大規模な養殖場の確保など、乗り越えなければならない課題はいくつもある。研究チームはそれを乗り越えた先を見据え、将来的には地元の漁業者や企業などとも連携することで沖縄の新たな特産にしたいとも考えている。
沖縄をあとにする。水平線に輝く太陽。不可能といわれたイカの養殖に光が差した気がした。私たちの食卓に養殖イカが並ぶ日が来るのを楽しみにしたい。
沖縄をあとにする。水平線に輝く太陽。不可能といわれたイカの養殖に光が差した気がした。私たちの食卓に養殖イカが並ぶ日が来るのを楽しみにしたい。
取材を終えて

活路は「衣・食・住」。シンプルな解だが、その裏には研究者の絶え間ない努力と強い探究心があった。次に沖縄を訪れるのは、養殖イカの味を取材するときだと心に決めた。
取材後、デスクに声をかけた。
「アオリイカを食べに行きませんか?デスクのおごりで」
デスクは“どや顔”でこう返した。
「食べにいくのはアオリイカやろ?ないソデはふれないよ」。
一筋縄ではイカないと思った。
取材後、デスクに声をかけた。
「アオリイカを食べに行きませんか?デスクのおごりで」
デスクは“どや顔”でこう返した。
「食べにいくのはアオリイカやろ?ないソデはふれないよ」。
一筋縄ではイカないと思った。
2022年11月13日 おはよう日本「サイカル研究室」で放送