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医療
2022.10.16
「生きてはいるんだけど、もう心が死んじゃっているような状態」
充実した毎日を送っていた人が、突然、陥ってしまうこともある心の病気。
生涯では、5人に1人がかかるともいわれています。
そうした病気からの立ち直りの体験談は、「リカバリーストーリー」と呼ばれ、同じように不調に苦しむ人の回復につながる効果があるという研究もあります。
「リカバリーストーリー」を多くの人に届けたい。
そんな取り組みが動き出しています。
フリーライターの庄司友里さん(24)。
4年前、適応障害と自律神経失調症を発症しました。
今は症状が落ち着いて、仕事もできるようになり、みずからの「リカバリーストーリー」を歌で伝えるプロジェクトに取り組んでいます。
都内のスタジオで行われていたレコーディング。
『クズな自分が嫌で 情けなくて
この世界からただ 消えたくて』
歌っていた曲の歌詞は、心と体が動かなくなってしまった大学3年生のときの経験がもとになっています。
当時、海外に関わる仕事に就きたいと思っていた庄司さんは、国際的な学生団体の支部の代表をしていました。
しかし、団体の活動に学業などが重なって、自分の限界を超えてしまい、やるべきことをこなせなくなってしまったといいます。
こんなはずではないという気持ちでいっぱいで、自分に対する情けなさから消えたいと思うようになっていました。何をするにもやる気が起きず、食欲もわかなくなっていて、力が入らない感じでした。
その後、同じように精神的な不調を経験した友人に相談したり、引っ越しをして環境を変えたりするうちに、次第に気持ちが軽くなっていったといいます。
歌詞には、立ち直っていく過程で感じたリアルな思いを込めることを意識しました。
曲のタイトルは『05:44』。
眠れずに朝を迎えたときの心境を、何もできなくて苦しい気持ちと重ねたことを、制作チームに伝えます。
寝れずにボーっとしていたら、部屋に青白い色の朝日が入ってくるんですけど、また朝が来ちゃったな、何でこんなことしているんだろうって。この状況を変えたいけど、どうすればいいか分かんないとか、変えたいけど一歩踏み出せないみたいな。
作曲を担当したのは、シンガーソングライターのサムエル・ソングさん。
同じような経験を持つサムエルさんが、歌詞のイメージを汲み取ってメロディーにしていきます。
僕も双極性障害があって、夜寝れなかったり、部屋にこもって動けなかったりして、歌詞にかなり共感できました。庄司さんの気持ちに歩み寄りつつ、自分の体験も思い出しながら、曲を聴く人が共感できるような作品をいっしょに作っています。
できあがった歌詞の最後のフレーズには、自分の存在を肯定できるようになった庄司さんの率直な思いが込められています。
『今を生きてみたい
弱い自分も許し 愛したい
世界でたったひとつの存在を』
一番伝えたいのは、しんどくても無理しなくて、自分のペースで頑張ればいいっていうこと。自分自身を大事にして、自分の中で少しでも前向きに生きられたらいいなっていうメッセージです。
完成した曲は、早ければ10月下旬にもインターネットで配信する計画です。
庄司さんたちの曲作りのプロジェクトを企画したのは、ことし3月に立ち上がった「パパゲーノ」という会社です。
「パパゲーノ」は、1度は死を決意しながらも、最後には生きる道を選ぶ、モーツァルトのオペラ『魔笛』に出てくる登場人物の名前です。
会社では、心の病を患った経験のある人が回復していく「リカバリーストーリー」を、絵本や音楽などの作品にして発信しています。
つらい経験から立ち直った人や、それと向き合って生き続けている人の物語があることに触れてもらい、自分自身も勇気づけられる、そうした機会を提供していきたい。そうした機会が増えていくことで、生きていてよかったと誰もが実感しやすい社会に近づいていくと思っています。
代表の田中康雅さん(27)。
活動の原点は、かつて自殺を図ろうとした知人を支えた経験でした。
何とか思いとどまらせようと、どんなことばを伝えても相手に響かず、あのとき何ができたのだろうかと今も自分に問い続けているといいます。
明日自殺してもおかしくないと毎日思って生きていたので、すごい緊張感でした。死にたいっていう気持ちを持っている人に、「いや、生きようぜ」と言っても仕方ないということはすごく身にしみて分かっています。もう少し感性に訴えるような形でスッと入ってくるように寄り添ってメッセージを届けていくことができたらいいのではないかと思っています。それがリカバリーストーリーが持っている力の1つだと考えています。
制作費は、事業に賛同する人から資金を集める「クラウドファンディング」を活用して捻出。
精神的な不調を経験した当事者とネットワークを作り、多様なアートで表現されたそれぞれの「リカバリーストーリー」が、自然な形で街に溶け込んで気軽に触れられる社会を目指しています。
パニック障害と強迫性障害を抱えながらアーティストとして活動している五十嵐恵真さん(26)も、田中さんの会社の依頼で作品を制作しています。
五十嵐さんは、美術の専門学校に通っていた4年前、突然、狭い空間で息苦しさを感じる症状が出たのをきっかけに、次第に感情のコントロールが難しくなりました。
アートの勉強やアルバイトなどで充実していましたが、余裕がなくなるまでに忙しい毎日を送っていたため、知らず知らずのうちに蓄積していたストレスに耐えられなくなってしまったと振り返ります。
精神科病院に入院し、閉鎖病棟での隔離も経験しました。
自分が自分じゃないっていう感じがしていました。もう死にたいからはさみ持ってきてみたいな、包丁持ってきてみたいな感じに言っちゃっていて、生きてはいるんだけど、もう心が死んじゃっているような状態になっていました。
苦悩の日々から抜け出すきっかけとなったのが、ある作家が自らの体験を元に記していた「リカバリーストーリー」に触れたことでした。
『死にたいと思うことは何一つおかしなことじゃありません』ということば。当時もすごく響いたと思うんですけど、結構いろんな人が普通に感じている感情なんだなって、自分を責めることでもないんだなって思えるようになりました。
病気と共存する自分を作品に投影して、SNSで発信するようになった五十嵐さん。
今回、田中さんの会社から個展の開催を持ちかけられました。
個展に向け、2か月かけて制作したのが、『私は私に食べられそうだ。』という作品です。
縦1メートル62センチ、横1メートル30センチの特大のキャンバスに描かれている女性は五十嵐さん自身。
ヘビは自分が生み出した妄想を表し、その妄想に食べられそうになっています。
一方で、本来の自分を表す鮮やかな色彩がヘビを覆い始めています。
みずからの立ち直りつつある姿を描いたといいます。
個展は、10月10日の世界メンタルヘルスデーに開かれました。
病気と向き合うありのままの自分を表現した「リカバリーストーリー」は見た人に届くのか。
五十嵐さんは、「今の自分を表現するときに、不安もありつつ、楽しい部分の方が勝っている」と来場者に今の自分の気持ちを率直に伝えていました。
自分だけじゃなくて、ほかにもたくさん自分と同じような思いをしている人がいるんだなということを知れたので見てよかった。
私も精神的に弱いところがあることは自覚しているので、そういう弱さがありつつも、それを押し出しながら前に進む力となることができるんだと感じました。
いろんなつらいことがあるなかで、自分は絵を通してそれと向き合って、それを何か面白そうにやっていると思ってもらいたい。心の病気の負のイメージが払拭できるとは思わないですけど、負のイメージばかりじゃないんだみたいな感じに思ってもらえたらうれしい。
精神的な不調から立ち直る過程を伝える「リカバリーストーリー」。
多くの精神疾患の患者の立ち直りを支援してきた国立精神・神経医療研究センターの松本俊彦部長は、当事者の回復を促す効果があると考えています。
「リカバリーストーリー」を見聞きすることは、苦しんでいるのは自分1人だけではないと孤立感を和らげるだけでなく、自分でもできるかもしれないと、チャレンジしてみようという前向きな気持ちを引き出して、希望を与えることにつながる。
その上で、さまざまな「リカバリーストーリー」が多様な表現手段で広がることが、精神的に不調な人の回復のきっかけを増やすことになると指摘しています。
これから頑張ろうとする段階や回復の途中の段階、それに立ち直った段階などいろんなプロセスを見ることができるようになることが大切だ。また、それを届けるという意味でも、表現の媒体やツールが多様であることが望ましい。そうなることで、さらに多くの人が“人は変われる”と気付くことになり、精神疾患への理解を深めるきっかけになる。
※この特集記事の内容は、10月17日のおはよう日本でも放送されました。放送終了後から7日間の24日午前7時45分まではNHKプラスの「見逃し配信」でご覧頂けます。