STORY

写真家が体験した「戦争と平和」

2022.08.07 :

8月、戦争について考える時間が多くなる。

広島・長崎の原爆の日、そして終戦の日。

厳粛な気持ちで、犠牲者を追悼する。

 

こうしたなか、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続いている。

世界の各地でも戦争の種は尽きていないように思う。

 

戦争と平和について、もう一度考えたい。

戦場カメラマンだった写真家、後藤勝さん(56)を取材することにした。

(記事には、衝撃的な写真も含まれています)

後藤勝さん 写真家になるために

沖縄でアルバイトをしていた後藤さん。自由に生きたいと思って、ヒッピーに憧れて髪を伸ばした。1983年 沖縄
後藤さんは、1966年生まれ、愛知県の出身だ。
高校2年生のときに学校をやめて家を出た。
その後、訪れたのは沖縄だった。
働いたパブには、ベトナム戦争を体験した兵士たちがやってきた。
住民の中には、「ガマ」での集団自決の記憶を抱えている人もいた。
そんなとき、手に取ったのが戦場カメラマンの写真集だった。
ロバート・キャパや沢田教一、岡村昭彦…

写真家になるにはどうすればよいか。
守礼門の前で記念撮影の仕事をしていた先輩に聞くと3つの案を示された。

①偉いカメラマンに弟子入りする。
②写真の専門学校に入る。
③とにかく現地に行く。

後藤さんが選んだのは「現地に行く」だった。

コロンビアで

4人の市民がカフェで暗殺された。殺された夫に駆け寄る妻と娘。 1989年 バランカベルメッハ市/コロンビア 〔撮影・後藤勝〕
東京で働いてお金をためた後藤さんは、1989年、紙幣をおなかの周りにまいてアメリカへと飛び立つ。
そして、南米のコロンビアで、政府軍と右派民兵、それに左翼ゲリラの争いが激化しているという情報を聞いた。

「やっぱり、取材をするなら世界でいちばん危険な街だろう」
少し軽い気持ちがあったのかもしれない。

朝方、現地に到着し、宿に入ると、いきなりパンパンパンパンという音が鳴り、人が駆け出す音が聞こえた。
そこは、誘拐、暗殺、麻薬がはびこる場所だった。

後藤さんは、その街を拠点に活動している人権擁護団体の所長と連絡を取った。
「僕は日本から来た。あなたたちが危険を冒して働いている姿を撮影したい」と伝えた。
そして、団体の「記録係」として、写真家としての第一歩を踏み出した。
(後藤勝さん)
自分もまだ若くて、紛争というものを知らなかった。
その街では本当に昼から夜まで、ピストルの音がそこらじゅうに響き渡っていた。
僕が働いていた人権擁護団体は、紛争の被害に遭った市民が殺害されたときに、その姿を記録していて、僕がその仕事を担うことになった。
夫や息子などの行方が分からないとき、家族は団体の事務所を訪れて、僕が撮った写真を見る。
そして「死」を確認する。
僕が撮った写真は、いわば、その人の最期の姿。
とても重要な仕事だと考えていた。

人権擁護団体の中にも犠牲者が

そうした活動にも、実はリスクがあった。
人権擁護団体は、殺害の状況を、写真とともに国連などに報告していたという。
左翼ゲリラを殺害した右派民兵たちにとっては、後藤さんたちの存在は、目障りだったのかもしれない。
日中、人権擁護団体のオフィス前で、職員のフリオを含む3人が暗殺された。 1989年 バランカベルメッハ市/コロンビア 〔撮影・後藤勝〕
後藤さんがその街に行って、最初に案内役を任されたのが、フリオという、まだ20代の青年だった。
フリオは、街の近くにある左翼ゲリラの村の出身だった。
「自分たちの置かれている状況を広く伝えたい」と考えたフリオは、後藤さんの取材に協力してくれた。
しかし、ある日、団体の事務所の近くにあるコーヒーショップにいるときに、フリオは突然、銃撃を受けた。
銃声を聞いて駆けつけた後藤さんは、フリオが倒れ、血を流しているのを見た。
ほぼ、即死だったという。

フリオが殺害されたあと、右派民兵は声明を出した。
「外国人のジャーナリストに協力しているゲリラのシンパの若者、フリオを処刑した」

後藤さんがコロンビアにいた足かけ3年のうちに、15人ほどいた人権擁護団体のメンバーは3人になったという。
行方不明になったり、殺害されたり。
身を隠すために、家族と共に街を出て行ったメンバーもいた。
団体の所長は後藤さんに対し、「次はお前かもしれない」と告げた。

憎しみと恐怖の連鎖

なぜ、右派民兵は、左翼ゲリラを駆逐しようとしたのか。
後藤さんは、次のように考えている。
(後藤勝さん)
街があったのは、油田地帯だった。
すごく豊かなジャングルと川もあって、資源がとても豊富な地域だった。
資源を巡る利権争いが大規模な紛争、内戦に拡大していったようだ。
しかも、周辺にはもともと左翼ゲリラが多く住んでいた。
これに対して大地主が民兵を組織し、その勢力が徐々に大きくなっていった。
右派民兵は、街を奪うまで一人残らず左翼ゲリラを殺すことにしていた。
家族も全員、赤ん坊まで殺せというふうに。
なぜなら、赤ん坊が生きて成長したら、また左翼ゲリラになり、自分たちの敵になる。
それを防ぐためには虐殺でも許すというような考えがあったようだ。

右派民兵のリーダーのことば

後藤勝さん
人権擁護団体の所長の忠告を受けて、1992年、後藤さんはコロンビアを離れた。

ただ10年近くたったあと、右派民兵が左翼ゲリラを制圧した街に、もう一度、戻ることにした。
右派民兵は、なぜ、左翼ゲリラの掃討に力を入れたのだろう。
知り合いを通じて、民兵のリーダーと連絡を取り、直接、会えることになった。
 
後藤さんが訪れたちょうどその日は、南米の「母の日」だったという。
かつて銃声が響いていた街頭には何百人もの人出があり、音楽に合わせて踊っていた。
 
後藤さんに対し、民兵のリーダーは次のように話したという。
(右派民兵のリーダー)
こんなふうに平和になったのは、自分たちが左翼ゲリラを一人残らず抹殺したからだ。
それによって、この街には戦いがなくなった。
子どももみんな幸せになった。
平和が訪れるまでに、どれだけの人が死んだのか。
そこまでしないと、平和を取り戻すことはできないのか。
後藤さんの中に、怒りのようなものが湧き上がってきた。
…と、同時に次のような思いも抱いた。
(後藤勝さん)
右派民兵の側にも、人を殺すだけの理由があった。
自分が殺されるから相手を殺さなければならない。
相手を殺さなければ自分の家族が殺される。
殺さなければ、結局は左翼ゲリラが、またこの街を支配し、自分たちのコミュニティーは失われる。
ある意味、左翼ゲリラの側も、ほとんど同じような理由で、民兵を殺す。
そうした論理で、戦争で人を殺すことも正当化される。
戦争っていうものは、なぜ、こんなふうに始まってしまうのだろうか。

心の傷

コロンビアを離れた後藤さんは、ニューヨークで暮らした。
ニューヨークに帰れば、普通の生活に戻れると思っていたという。
しかし、コロンビアでの出来事が心を離れなかった。
 
コロンビアでは、街を歩いただけで、頭を撃たれて殺される人がいた。
そういえば、フリオが死んだのは、自分のせいではなかったのか。
そんなことを考えるうちに眠れなくなり、アルコールの量も増えた。
 
友人の勧めで、戦地からの帰還兵を受け入れていた施設でカウンセリングを受けると、「PTSDの疑いがある。まずは、ジャーナリズムの世界と距離を置け。写真も撮るな。紛争の場面を見たりしてもいけない」と言われた。
それから2年ぐらいは、カメラにも触らず、レストランで働いたりしていた。

再びの戦地 カンボジアへ

前線に従軍中。戦闘が激しくなるとタコツボと呼ばれる穴に入ってじっと身を隠した。 1997年 カンボジア・タイ国境付近
1997年、カンボジアで戦闘が起きたと、ニュースが伝えた。
かつての紛争地帯での取材のことを、後藤さんは忘れられなかった。
ニューヨークの自宅を引き払い、カンボジアへと向かった。

(後藤勝さん)
自分でもよく分からなかったが、たぶん、自分がやれることは、写真を撮って記録することだと思っていたのだろう。
“南米でやったこと”には意味があり、同じように戦地に行って写真を撮ろうと決意した。
あとでカウンセリングの医師に聞くと、「君は戦地で死ぬことを願っていたんだよ」と言われた。
地雷原を歩く少年兵たち。司令官が“タウ!タウ!”(行け!行け!)と声を掛けると、恐怖心も無く敵地に突撃をした。 1997年 カンボジア・タイ国境付近 〔撮影・後藤勝〕
内戦が続いたカンボジアでは、1993年、国連の管理下で総選挙が行われた。
平和が取り戻されたはずだったが、為政者どうしの関係が悪化し、再び、武力衝突が起きていた。
 
カンボジアに着くと、後藤さんは兵士たちの姿を探した。 
そのあとについてジャングルに入り、戦闘の最前線で写真を撮った。
戦場から帰ると、フィルムを首都のプノンペンに持って行って通信社などに売り、また、新しいフィルムを買った。

カンボジアのタイ国境付近で繰り広げられていた戦闘の実態はどのようなものだったのか。
後藤さんは、次のように証言する。
激しい戦闘が続いていたタイ国境付近。砲撃によって負傷した仲間の兵士を手当てをする。手前の兵士はまもなく息を引き取った。 1997年 カンボジア・タイ国境付近 〔撮影・後藤勝〕
(後藤勝さん)
本当の肉弾戦というか、兵隊どうしが突撃していって、地雷を踏んだりしている、そんな戦争だった。
銃撃を受けて死んでいく兵士もいたし、砲撃を受けて体がバラバラになってしまった兵士もいた。
誰もみずから望んで前線に行くっていうことではなくて、例えば貧しいから、しかたなく戦争に来たとか、そんな感じだった。
地方の貧しい村では仕事もなく、親から送り出された少年兵もいた。
誰一人として、喜んで戦争をする兵士はいなかった。
司令官の中には、生まれたときからずっと戦争が続いてきて、戦争が生活の一部になってしまったという人物もいた。
兵隊をやめたら、一体、どこに行って、どうやって食べていくのか。
分からないまま戦い続けていた。
彼らにカメラを向けると、「自分たちの状況を、少しでも世界に伝えてほしい」と言われたこともあった。
両手を失った元兵士がプラスチックボトルを集めていた。首都にあるゴミ集積所で。 1998年 首都プノンペン カンボジア 〔撮影・後藤勝〕
戦闘が落ち着いたとき、現地の病院は、けがをした兵士たちであふれていた。
足や手を失ったり、大やけどをしたり。

ゴミ収集所には、プラスチックの容器などを拾って売り、生活の足しにしている元兵士がいた。
その兵士は、両腕のひじから先がなかった。
汗をかいても拭くことができず、顔も洗えなかった。

戦闘が終わったあとも…

病室のベッドに座るティー。夫は元兵士で、エイズによって死んだ。自らもエイズと闘っていた。 2001年 バッタンバン州立病院 カンボジア 〔撮影・後藤勝〕
その後、けがをした兵士たちであふれていた病院を訪ねると、やせ細って亡くなる人たちが増えていた。
後藤さんは、その様子もカメラに収めていった。

彼ら、そして彼女らは、HIVに感染していた。
兵士たちが注射器を使い回すなどして感染し、その妻や、子どもにまで感染は広がっていった。
貧しさから、症状の悪化を食い止める薬も手に入らなかった。
 
HIVに感染し、死への恐怖と向き合いながら、後藤さんに話しかけるティーという女性がいた。
ある晴れた日、彼女は、後藤さんに写真を撮ってほしいと頼んできた。
きれいに化粧をして、お気に入りの服を着たティーの姿を後藤さんは撮影した。
その2か月後、後藤さんが訪ねると、ティーは亡くなっていた。
誰も遺体を引き取りにこなかったという。

「いつも犠牲になるのは、一般の人たちだ」
 
戦争は、戦争が起きているときにだけ、人々に犠牲を強いるわけではない。
戦闘が終わったあとも、戦争は続いている。
後藤さんは、そんなふうに感じたそうだ。

戦争について考えること

ウクライナでは、ロシアによる軍事侵攻が続いている。
日本も、いつか戦争に巻き込まれることがあるのか。
あるいは戦争を起こしてしまうことがありうるのか。
はっきりとは分からない。

そんなことを後藤さんに話すと、こんな答えが返ってきた。
(後藤勝さん)
例えば日本でも、沖縄戦で激しい砲撃が続いて、多くの一般市民が亡くなった。
東京大空襲でもそうだし、広島と長崎の原爆では一瞬にして亡くなってしまった人もいる。
ウクライナで起きている戦争の前線にはウクライナの兵士も、ロシア側の兵士もいると思うが、ロシアが勝つと平和が訪れるのだろうか。
今回の例でも分かるように、戦争っていうのは、あっという間に始まってしまう。
そして戦争が始まれば、自分の家族をなくす人がいるし、愛している人を失うこともある。
戦争を始めずに、話し合いで解決するという、そういう方向に世界の流れがいくことを願うしかない。
実は僕自身、何十年も、戦場に飛び込んで、そのときに感じたことや経験を、面と向かって人に話すことはできなかった。
今もことばに詰まって、昔のことを思い出してしまう。
でも、こうしたことは伝えなければならないと思う。
“戦争とはこういうものだ”ということを、少しでも話し、それが何かの役に立てばいいなと思っている。

後藤さんの今

〔撮影・後藤勝〕
後藤さんは今、写真家として後輩を育成するプロジェクトを立ち上げ、若手の支援を行っている。
そのかたわら、東京のいわゆる「山谷地区」で、元は路上生活をしていた人や、今も路上に暮らす人たちの支援も行っている。

ときどき後藤さんは、こうした人たちと一緒にカメラを持って街に出る。

自分が撮影した1枚に、こんなキャプションをつけた。
「傷ついた一羽の鳩が、ホームレスの男性のそばにいた。“こいつはね、羽が怪我して飛べないんだよ。こいつも孤独なんだなー。だからいつも一緒にご飯食べてるよ”」2022年6月 隅田川沿い 東京
戦場カメラマンに憧れ、戦争の現実を体験した後藤さん。
今はただ、「命」というものの愛しさを、その胸に抱いている。
※後藤勝さんへのインタビューは、8月8日の「NHKジャーナル」放送後、1週間、らじる☆らじるの「聞き逃し」でお聴きになれます。
https://www4.nhk.or.jp/nhkjournal/

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NHKジャーナル 解説デスク

緒方英俊

最近、好きなものは「犬」。

最近、好きになった俳優は「松山ケンイチさん」。

好きな作家は「水上勉さん」。

好きな歌舞伎俳優は「十二代目市川團十郎さん」。

好きな古墳は「箸墓古墳」。

好きなパンダは「結浜」です。

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