科学と文化のいまがわかる
文化
2022.02.04
ショックを受けた。
寂しさも感じている。
ミニシアターの草分け、「岩波ホール」が7月29日をもって閉館することになったからだ。
学生時代には数々の名作を、この映画館で鑑賞した。
その後は“映画記者”として、何度も取材に訪れた。
スタッフの卓抜した「目利き」によって、人々に思いもよらぬ映画との出会いをもたらし、新たな世界をひらいてくれた岩波ホール。
今や、映画をネットで見る時代となり、コンテンツは充実しているように見える。
でも、大切な場所を失う映画界は、本当に豊かだと言えるのだろうか。
壁面を埋めるのは映画のチラシの数々。
岩波ホールで最初に上映されたのはインドの映画監督、サタジット・レイの「大樹のうた」だ(1974年)。
それ以来、半世紀近くにわたり、60余りの国と地域の、270本を超える映画が上映されてきた。
戦争や紛争の犠牲者を描き、反戦と平和への願いが込められた映画。
女性の映画監督が自分たちの地位向上を訴えた映画。
岩波ホールでなければ見ることのできなかった作品も、少なくない。
私は…と言えば、岩波ホールで見た初めての映画は「イフゲニア」だ。エウリピデスの悲劇をもとにしたこの作品で、古代ギリシャの文化とどこか乾いたような景色を実感することができた。
印象に残っているのはスウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマン監督の「ファニーとアレクサンデル」。アカデミー賞で外国語映画賞を受けた名作だが、休憩を含めて上映時間は6時間近くにも及んだ。
カナダの先住民、イヌイットの伝承を映画化した「氷海の伝説」からは、北極圏の自然の雄大さや風習を学んだ。イヌイットの監督、スタッフ、そしてセリフはすべてイヌイットのことばという魅力的な作品だった。
テオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」をはじめ、岩波ホールで上映されることで知られるようになった大作、名作も少なくない。
岩波ホールは、私たちにとって多様で豊かな映画の世界にいざなってくれる「窓」とも呼べる存在だったのだ。
その「窓」を創ってくれたのは、2013年に亡くなった総支配人の高野悦子さんだった。
高野さんは、埋もれた名作映画を発掘し、多くの人たちに見てもらう「エキプ・ド・シネマ(=映画の仲間)」という活動に力を入れ、文化功労者にも選ばれた。
旧満州の生まれだが、終戦前に父親の出身地・富山県に引き揚げた。
富山出身の私は、同郷の映画監督・本木克英さんと共に、都内で高野さんを囲んだことがある。
これまた富山出身の男性が経営する中華料理店で、映画のこと、高野さんが大ファンだったジェラール・フィリップのこと、そしてフランスで映画監督になるための勉強をしていた当時のことなどを聞かせてもらった。
2000年には、岩波ホールで公開されたドキュメンタリー映画「伝説の舞姫 崔承喜」(チェ・スンヒ)について取材した。高野さんは日本でも活躍した崔承喜の踊りを子どものころ、実際に見ている。その美しさについて「まさに華やかな虹を見たという印象だった」と語った。
高野さんのことば、表情からは映画への熱い思いが伝わってきた。
岩波ホールに、その熱い思いを注ぎ込んでいるのだとも感じた。
高野さんを支えたスタッフの功績も忘れてはならない。
はらだたけひで(原田健秀)さんは、文字どおり高野さんの右腕として岩波ホールの運営に当たった。
私は、世界3大映画祭の1つ、カンヌ映画祭の取材の際にはらださんの働きぶりを目の当たりにした。
映画祭には世界中の関係者が集まり、各地の映画の上映権を売買するマーケット=「映画市場」も開かれる。
はらださんたちは、常宿にしていた小さなホテルで朝食として出されたバゲットとハム、チーズでサンドイッチを作っていた。
それをかじりながら朝から晩まで試写場を巡り、何本も映画を見続ける。
2週間にわたって岩波ホールで上映したい作品、日本の人たちに見てもらいたい作品を探していた。
いくら好きな映画のためだとは言っても、疲労は並大抵のものではなかったと思う。
当時、日本国内では海外の映画が人気を集め、他社との競り合いになることも多かったという。
足を使い、粘り、交渉する。
そして1本1本の映画に真剣に向き合う。
そうした努力によって“岩波ホールらしさ”が守られてきたのだろう。
岩波ホールは「ミニシアター」という形態の先駆けだったとも言える。
1990年代から複数のスクリーンを持つ「シネコン」が増え、従来の映画館は相次いで閉館していった。
一方で、新宿・歌舞伎町の「シネマスクエアとうきゅう」や、渋谷の「シネマライズ」など、特色のあるミニシアターの上映作品が映画ファンの関心を集めるようになった。
1996年、私は、青森の映画館閉館とシネコン進出、大阪のミニシアター建設の動きを取材した。そして、これからは「ミニシアター」と「シネコン」の二極化が進むと予測したリポートを制作した。
その後、デジタル化の波が押し寄せ、フィルムによる映画の撮影と上映が姿を消した。
そして今や、映画はネットで配信される時代だ。
映画館に足を運ばなくても、検索することで、私たちは作品を見られるようになった。
日本の映画界では、去年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞した濱口竜介監督など、新たな才能も生まれている。
スマートフォンで映画を撮影することもできるようになった。
しかし、映画を巡る状況は、本当に豊かになっているのだろうか。
映画館で、全く知らない分野の作品と出会える機会は、徐々に失われているのではないか。
思わず、ため息をついてしまう。
岩波ホールの閉館は、こうした状況のなかで発表された。
閉館の理由は「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化」のためだと説明されている。
緊急事態宣言が出されるなか、夜の上映では、10分ほど映写機を動かしても観客が入らず、やむなく上映をやめたことがあったと聞く。
映画を巡る状況が激変するなかで、コロナ禍が閉館を後押ししてしまった。
閉館発表の騒ぎも少し落ち着き、岩波ホールでは、1月29日から「ジョージア映画祭」が始まった。上映前にあいさつに立ったジョージアの駐日大使、ティムラズ・レジャバさんは、難しい国際情勢の中でさまざまな脅威にさらされてきた自国の歴史を踏まえ、「困難なときこそ、団結力が強まり、精神力が高まり、そこで新たな価値がしばしば生まれてきました。その一部に芸術があります」と述べた。
さらに、日本でジョージア料理が人気を集めていることに触れ、「映画で感じた味というものは何十年たっても、その人の心に残っているものではないでしょうか。映画というものは直接“人の心”に届きます。独自の世界観を持つジョージア映画は、わが国の精神を伝える大切な文化です。映画や映画監督、もしくは関係者にとって、いちばんの成果は多くの人に、表現しようとしていることが届くことなのです」と語りかけた。
ことし7月、私の“映画を通した世界への窓”が閉じられようとしている。
それまでに何ができるのだろうか。
ずっと、考え続けている。
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