この春、演劇・舞踊・伝統芸能の1200を超える作品の公演映像を収集したデジタルアーカイブが新たに構築され、インターネット上で公開された。新型コロナウイルスによって深刻な影響を受ける舞台芸術団体の経済的支援が目的で、一部の作品では有料配信も始めることで、新たな収益を生み出す仕組みだ。
「演者と観客が同じ空間を共有する舞台芸術は、その場で体験するライブ性にこそ価値がある」
そんな考えから、日本では長らく公演映像のアーカイブ化は進んでこなかった。また、ネット配信を困難にさせる「権利の壁」も存在してきたという。
コロナ禍を機に、舞台芸術界で初めて推し進められた大規模なデジタルアーカイブ。実行委員の1人である弁護士の福井健策さんに、取り組みの意義を聞いた。
(科学文化部 河合哲朗)
舞台芸術界が直面したコロナ禍

この1年、新型コロナウイルスによって、舞台芸術界では深刻な影響が続いてきた。
感染が広がり始めた去年2月以降、多くの公演が延期・中止を余儀なくされ、公演ができるようになってからも観客数の制限などが長期化した。
演劇業界では、ことし1月までの1年間で1600億円の売り上げが消失した(「ぴあ総研」調べ/推計値)。コロナ前の2019年の市場規模(2100億円)の76%にあたる、大規模な損失だ。
さらに、表現の場を失う苦痛にも直面してきた。
長い時間をかけて企画し稽古を重ねてきた公演が、突如「中止・延期」に追いやられる。
初日を前に中止が決まり、幕を開けることもかなわなかった作品も少なくない。
長年、舞台芸術団体を法律面でサポートしてきた福井健策弁護士は、事態の深刻さを強調する。
感染が広がり始めた去年2月以降、多くの公演が延期・中止を余儀なくされ、公演ができるようになってからも観客数の制限などが長期化した。
演劇業界では、ことし1月までの1年間で1600億円の売り上げが消失した(「ぴあ総研」調べ/推計値)。コロナ前の2019年の市場規模(2100億円)の76%にあたる、大規模な損失だ。
さらに、表現の場を失う苦痛にも直面してきた。
長い時間をかけて企画し稽古を重ねてきた公演が、突如「中止・延期」に追いやられる。
初日を前に中止が決まり、幕を開けることもかなわなかった作品も少なくない。
長年、舞台芸術団体を法律面でサポートしてきた福井健策弁護士は、事態の深刻さを強調する。
「市場規模が『8割近くまで』落ちるのではなく、『8割近くが』なくなってしまったのですから、通常で言えば業界の存続自体が危ぶまれるほどの損失です。業界側は大変な負債を抱え、生きる喜びである表現の場を奪われた。そしてファンたちはそれを見る喜びが奪われてしまった。これが舞台などのライブイベントが直面したこの1年間の実情です」

アーカイブ化で支援 その仕組みは

こうした中で始まったのが、今回のデジタルアーカイブ構築だ。
「緊急事態舞台芸術ネットワーク」と寺田倉庫が、文化庁の委託を受けて去年の秋から取り組んできた。
予算7億5000万円の大規模事業で、コロナ禍で減収に陥る舞台芸術団体の収益力強化を目的にしている。
実行委員会では、演劇、舞踊、伝統芸能の3分野を対象に、各地の主催団体に呼びかけて、これまでに上演された1283作品の公演映像のデータを収集。
映像提供の対価として総額5億4000万円が支払われ、今まさに経済的苦境に立たされている団体の支援につなげた。
「緊急事態舞台芸術ネットワーク」と寺田倉庫が、文化庁の委託を受けて去年の秋から取り組んできた。
予算7億5000万円の大規模事業で、コロナ禍で減収に陥る舞台芸術団体の収益力強化を目的にしている。
実行委員会では、演劇、舞踊、伝統芸能の3分野を対象に、各地の主催団体に呼びかけて、これまでに上演された1283作品の公演映像のデータを収集。
映像提供の対価として総額5億4000万円が支払われ、今まさに経済的苦境に立たされている団体の支援につなげた。
また、このうち280作品については、インターネット上で有料配信を行うための権利処理も完了させた。
これにより主催団体側は今後自由に商用配信を行えるようになり、収益力の継続的な強化にもつながるという仕組みだ。
これにより主催団体側は今後自由に商用配信を行えるようになり、収益力の継続的な強化にもつながるという仕組みだ。
“時間と空間”を超えて名作を鑑賞

このアーカイブはインターネット上で公開され、誰でもアクセスすることが可能だ。
早稲田大学演劇博物館の特設サイト「Japan Digital Theatre Archives (JDTA) 」では、今回集まった1283作品の公演情報を詳しく検索することができる。
早稲田大学演劇博物館の特設サイト「Japan Digital Theatre Archives (JDTA) 」では、今回集まった1283作品の公演情報を詳しく検索することができる。

1960年代の文学座の杉村春子さん主演舞台から、現代演劇の潮流を変えた演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の代表作、近年人気が高まる「2.5次元ミュージカル」まで幅広い作品がそろい、作品の魅力に触れられるよう、上演時の舞台写真や宣伝用のフライヤーなどの画像が公開されている。

さらに、権利処理が完了した280作品については、同じく新たに立ち上がったポータルサイト「EPAD」を経由して有料配信の視聴も可能で、6月までに280本すべてが配信される見込みだという。「JDTA」では、これらの作品の3分間のダイジェスト映像が視聴できる。

実行委員の1人、福井弁護士は今回の事業について、コロナ禍での経済的支援にとどまらず、日本の舞台芸術界では一向に進まなかったデジタルアーカイブ化を推し進めた意義があると話す。
「日本では、世界に誇る演劇やダンスなどの舞台芸術が花開いていますが、過去の作品はそもそも映像化されていなかったり、されていてもほこりをかぶっているだけで、ほとんど公開されてきませんでした。ライブイベントの宿命ではありますが、どんどん忘れ去られていく、いわば消え去ってしまう状態です。今回コロナ禍で、遅れに遅れていた舞台芸術界でのデジタルアーカイブ化を一気に推し進め、貴重な資料が消え去ってしまうことを防ぐことにつなげる。その意義は大きいと思います」
“遅れに遅れていた”舞台芸術のデジタル化
舞台芸術の公演映像のデジタル化は、コロナ以前から“急務”とされてきた課題だった。
早稲田大学演劇博物館によると、国内の舞台の公演映像は、全国の劇団や劇場などが自前で撮影したものなどが数多く存在しているが、多くは活用されずに保管されたままで、VHSテープなどの古い資料は経年劣化の危険性にもさらされている。
一方、公演映像のデジタル化が比較的早く進んでいた海外の舞台芸術界では、コロナ禍で公演が行えない中、配信に乗り出す動きもスピーディーだったという。
早稲田大学演劇博物館によると、国内の舞台の公演映像は、全国の劇団や劇場などが自前で撮影したものなどが数多く存在しているが、多くは活用されずに保管されたままで、VHSテープなどの古い資料は経年劣化の危険性にもさらされている。
一方、公演映像のデジタル化が比較的早く進んでいた海外の舞台芸術界では、コロナ禍で公演が行えない中、配信に乗り出す動きもスピーディーだったという。
(福井健策 弁護士)
「ブロードウェイやヨーロッパの有名な劇場などでは、コロナ禍で劇場を閉じざるを得なくなったあと、過去の高画質の舞台映像のネット配信をすぐに開始することができて、それが多くのファンに喜びを与えました。ところが日本では、そもそも舞台芸術界でのデジタル化が進んでいなかったので、いわば、コロナ禍に直面しても配信できる過去の舞台映像が用意されていない状態だったんです」
「ブロードウェイやヨーロッパの有名な劇場などでは、コロナ禍で劇場を閉じざるを得なくなったあと、過去の高画質の舞台映像のネット配信をすぐに開始することができて、それが多くのファンに喜びを与えました。ところが日本では、そもそも舞台芸術界でのデジタル化が進んでいなかったので、いわば、コロナ禍に直面しても配信できる過去の舞台映像が用意されていない状態だったんです」

日本でデジタル化が遅れてきた理由について、福井弁護士は3つの理由を指摘する。
1つは、「ライブの価値を信じてきたこと」。
生の舞台の観賞体験を映像で再現することは不可能であり、ライブの価値が揺るぎないものであるが故に、デジタル化に乗り出す動きが進んでこなかったという事情だ。
2つ目は、「人手と予算の壁」。
特に小規模な劇団やダンスカンパニーなどにとっては、低コストと人手不足が常日頃からの宿命であり、自力でデジタル化を進めることは現実的に困難な面があるという。
そして最も大きな要因が「権利の壁」だ。
1つの舞台作品の背景には、劇作家や出演者のほかにも、音楽や映像、美術の著作権など多様な権利者が絡んでいる。
舞台での上演時にこれらの権利処理を行っていても、商用配信を行うためにはまた異なる権利処理が必要で、ひとりひとりの権利者から許諾を得たり、場合によっては海外の権利者に連絡を取ったりすることも必要になる。
主催団体にとっては、配信に乗り出したくても、権利処理の煩雑さが大きな障壁となってきたのだ。
今回の事業では、法律の専門家を含む専従チームが必要な権利処理をまとめて行ったことで、配信のための道筋を整えることができたが、自分に権利が存在すること自体を知らなかったという権利者もいて、日本の舞台芸術界で権利意識が定着してこなかった実情も痛感したという。
1つは、「ライブの価値を信じてきたこと」。
生の舞台の観賞体験を映像で再現することは不可能であり、ライブの価値が揺るぎないものであるが故に、デジタル化に乗り出す動きが進んでこなかったという事情だ。
2つ目は、「人手と予算の壁」。
特に小規模な劇団やダンスカンパニーなどにとっては、低コストと人手不足が常日頃からの宿命であり、自力でデジタル化を進めることは現実的に困難な面があるという。
そして最も大きな要因が「権利の壁」だ。
1つの舞台作品の背景には、劇作家や出演者のほかにも、音楽や映像、美術の著作権など多様な権利者が絡んでいる。
舞台での上演時にこれらの権利処理を行っていても、商用配信を行うためにはまた異なる権利処理が必要で、ひとりひとりの権利者から許諾を得たり、場合によっては海外の権利者に連絡を取ったりすることも必要になる。
主催団体にとっては、配信に乗り出したくても、権利処理の煩雑さが大きな障壁となってきたのだ。
今回の事業では、法律の専門家を含む専従チームが必要な権利処理をまとめて行ったことで、配信のための道筋を整えることができたが、自分に権利が存在すること自体を知らなかったという権利者もいて、日本の舞台芸術界で権利意識が定着してこなかった実情も痛感したという。

一方、今回の事業で得た権利処理のノウハウは、今後の舞台芸術界でも有効に使える“財産”として引き継いでいくべきだと語る。
(福井健策 弁護士)
「私もエンターテインメント業界の支援を30年近く専門に行ってきましたが、それでも『ここまでか』と思うほど、現場の方々は著作権や契約の知識をお持ちではないということも実感しました。今回の事業で培われた、舞台芸術のデジタル化や配信のためのノウハウは、この先にもずっと伝えていける大きなインフラになったと思います。それらを公開していくことで、舞台芸術のデジタル化が今までより少しでもやりやすくなるんじゃないかと思います」
「私もエンターテインメント業界の支援を30年近く専門に行ってきましたが、それでも『ここまでか』と思うほど、現場の方々は著作権や契約の知識をお持ちではないということも実感しました。今回の事業で培われた、舞台芸術のデジタル化や配信のためのノウハウは、この先にもずっと伝えていける大きなインフラになったと思います。それらを公開していくことで、舞台芸術のデジタル化が今までより少しでもやりやすくなるんじゃないかと思います」
“継続”こそがアーカイブの意義

今回、コロナ禍を機に進められたデジタルアーカイブ化は、業界にとって大きな前進となったが、一方で今後への課題も残されている。
この取り組みは文化庁による単年度事業であるため、現状では、今後新たな公演映像が追加されていくことはない。
アーカイブの本来の意義は、過去のすぐれた作品や今後も生まれる作品を、その先の未来に継承していくことだ。
福井弁護士は、舞台芸術の文化財としての価値を再認識し、アーカイブ化をこれから先も絶やさないことこそが重要だという。
この取り組みは文化庁による単年度事業であるため、現状では、今後新たな公演映像が追加されていくことはない。
アーカイブの本来の意義は、過去のすぐれた作品や今後も生まれる作品を、その先の未来に継承していくことだ。
福井弁護士は、舞台芸術の文化財としての価値を再認識し、アーカイブ化をこれから先も絶やさないことこそが重要だという。
「演劇は、ギリシャ悲劇から数えても2500年もの歴史を持っていて、現在までほとんど途切れることなく続いてきた“強じんな文化”です。でも同時に、それを支える人々がいなければ続けることができないという“ぜい弱さ”も持っていて、今回のパンデミックはそうしたもろさを見せました。幸いにも今回収集できた公演映像のデータは、今後半永久的に保存が可能だと思いますが、膨大な舞台芸術の資産からするとほんの一部です。もっとたくさんの宝物が日本の舞台の歴史には残されています。この活動が1年だけで終わってしまうのではなく、これから先も続けていくことがアーカイブの本当の価値だと思います。公立図書館や博物館の事業がわずか1年で終わるものではないように、支え続けていくべき公共インフラというものが存在すると思いまず。ぜひとも公的な支援を含めて、舞台芸術のデジタルアーカイブを持続的にサポートしてほしいと思います」
