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震災と表現 あの日から未来へ

音楽で届ける“1%の喜び”

2021.04.12 :

2000年代から日本のバンドシーンをけん引してきた、ロックバンド「ACIDMAN」。

東日本大震災の翌年から毎年、3月11日に福島を訪れ、地元のファンにライブを届けている。

あまりにも深い傷に対して、音楽が伝えられることは何か。

ボーカル・ギターの大木伸夫さんに思いを聞いた。

しょく罪の思いから福島へ

1997年から活動する3ピースバンド「ACIDMAN」。

叙情的で壮大な詩世界と、多彩なジャンルを織り交ぜた音楽性で人気を集め、国内のロックフェスに多数出演、これまで6回の日本武道館公演も成功させてきた。

震災の翌年からは、毎年3月11日に福島県内でライブを開催。

その収益を全額寄付している。

新型コロナウイルスが広がった去年は、南相馬市のライブハウスから無観客配信。

ことしは観客を半数に抑えて開催。

この10年途切れることなく、地元のファンにライブを届けてきた。
震災10年目の“福島ライブ” いわき市で開催した
なぜ、福島でのライブを始めようと思ったのか。

ボーカル・ギターの大木伸夫さん(43)は、震災と原発事故に直面して、自身の“無知”を自覚したことがきっかけだったという。
ACIDMAN ボーカル・ギター 大木伸夫さん
「インディーズ時代に僕らを世に出してくれた恩人が福島県の富岡町にいました。地震のあと、なんとか連絡がついてから、ニュースを見ながら原発の状況について情報を交わしていたら、『今爆発した。1F(福島第1原子力発電所)がやばい』と言われて」
その後、多くの人が住む場所を追われる事態を目の当たりにすることになり、原発のことを「知らない」で済ませていたことへの罪悪感に襲われた。
「僕は薬剤師の資格を持っていて、放射線についても勉強していたのに、原発だけは大丈夫だと思って危険性を想像もしなかったんです。だけど人間の想像を超える津波によって、これほどまでに怖い気持ちになるのかと知り、何も知らずのうのうと過ごしていた自分をすごく反省しました。現地に物資や寄付を持っていくこともしたんですけど、なんとも言えないもどかしさがあって。何かできないかという気持ちがずっとあった中で、福島でライブをやることはどうかと提案させてもらいました。“しょく罪の思い”というのが最初の動機でした」

“1%の喜び”だけでも

震災翌年、いわき市・小名浜の会場には多くのファンが詰めかけた
「ライブをすることが、自分たちに出来ることのすべて」

その思いでライブを続けてきたという大木さん。

少なくとも目の前のファンにとっては、3月11日が悲しみだけの日ではなくなってほしいという思いを持っている。
「2万人もの方が亡くなった。そこにはたしかに人生があって、地元の人たちはずっと悲しみが続いたまま日々を生きているという現実を、その日は考えます。僕らのファンにも大切な家族を亡くされた方がいて、3.11という日はとても悲しい一日だと思います。それでも何かひとつ、1%だけでもいいから、ライブをすることによって、ちょっとでも楽しいことがあるなと思ってくれたら」
復興にかかる途方もない時間を思うと、この10年、福島でのライブを欠かすことは出来なかったという。
「特に原発周辺の方たちは、土地を追われてそこに戻れないという現実がある中で、“寄り添う”という言い方はおこがましいですけど、これはずっと1%の喜びを与え続けることが必要だと感じて、その思いで続けてきました。でも後半の5年は楽しくもなってきていて、福島のいろいろなごはん屋さんを知って、その場所で会う仲間がいて、ファンの方にも1年に1回ライブに来ることへの思いがあって。福島に行くことが僕らにとっても喜びになってきました」

忘れないために“怖さ”に触れる

震災から10年がたって、大木さん自身も記憶の風化を自覚している。
「人間だから嫌なことは忘れたいし、怖いことはなかったことにしたい。僕自身もそうで、震災や原発事故への恐怖心は年々薄れています。だからこそ、忘れてはいけないんだと痛感します」
福島でのライブが終わると、大木さんたちは毎年その足で富岡町などの原発に近い地区を訪れている。地元の知人の案内で立ち入りの許可を得た上で、防護服を着て、この10年の変化を見てきた。
「最初はいわゆるゴーストタウンで、信号も止まったまま閑散としている町だったのが、だんだんと血が通ってくるというか、車も通って。今年なんかはまるで普通の町のようにも見えたんですけど、ぱっと角を曲がると、ずらーっと立ち入り制限のフェンスが続く光景が見える。ああ、これが現実だ、甘くないなということを感じました」
原発に近い地区に足を運ぶ大木さんらメンバー
この場所を訪れることは、失いつつある震災当時の感情に再び触れる体験でもあるという。
「いつも放射線の測定器を持って行くんですけど、初めの年は警告音が鳴り止まなかったし、立ち入れない場所も多くて、ここにいてはいけないという恐怖心もありました。除染作業のおかげで、今はその恐怖心もだんだん薄れていますけど、それでもいまだに入れない場所がある。10年間、立ち入れない場所がまだそこにあるということを知ると、そこで改めて『怖い』という気持ちを知れます」

“不謹慎”と“政治的”の声に

震災のあと、表現に携わる多くの人たちは、「文化には何ができるのか」を自問した。

ミュージシャンの間ではコンサートを中止する判断も相次いだ。

当時、ツアーの真っ最中だった大木さんたちも判断が問われたという。
「当時の社長から『あした(3月12日)の公演はやめて、延期しろ』と言われて、なぜかというと『不謹慎だから』だと。『こんな時にライブをやっている場合じゃない』と。僕はその時、反射的に『今だからやるんでしょ。今だからやるような歌を歌ってきた』と言いました」
ACIDMANは震災の前から一貫して、人間の命のはかなさを歌ってきた。

大木さんの言葉を借りれば『人はいずれ死ぬ』というメッセージだ。

悲観的にも聞こえることばだが、そこには常に前向きな思いを込めてきたという。

ことしの福島のライブでも披露した曲では、こう歌っている。
<世界が終わってすべてが消えて/それでも僕ら繋がっているだろう/
 そうやって思える 今日の光を/繋いでゆく 今日の日を〉
(「式日」)

〈さよならはもう言わないよ/世界が終わる夜/
 その時僕ら また此処で笑い合おう/また生まれて また此処で笑い合おう〉
(「世界が終わる夜」)
大木さんは、“不謹慎”の声を超えてでも、届けるべきメッセージはあるはずだという。
「そうしたメッセージを歌ってきたからこそ、その日会場に来たファンに伝えられることがあると思っていました。『とにかく今を楽しく生きなければいけない。人は一瞬で死んでしまうんだから』というメッセージは、今こそ伝えるべきだと思いました」
震災を機に、大木さんたちが問われたことがもうひとつあった。

時に“政治的”と捉えられるようなアクションをアーティストが行うことへの是非だ。

ACIDMANは震災以降、坂本龍一さんの呼びかけによる「脱原発」を唱える音楽イベントにたびたび出演するなど、その意思を明確に表明してきた。

「NO NUKE」という文字をデザインしたグッズを作って、売り上げを寄付したこともあった。

当初、「脱原発」の意見を語ることに対して、スタッフからは「政治活動になるからやめろ」という声があったという。

大木さんは、ミュージシャンである自分も感じたことは表明するべきで、それによって音楽そのものの価値が揺らぐことはないはずだと考えている。
「ファンの中には数人、『脱原発とか言い出して嫌いになった』とか、『それって政治活動じゃん』と言う方もいたんですけど、僕はそれを政治活動とは1ミリも思っていないんです。ただ怖いから訴えたことです。自分が生まれ育った場所に帰れなくなるようなものがただ怖いだけで、そこに政治は関係なく、思ったことは言うべきだというシンプルな考えです。それを政治だと思う人がいることも理解しますけど、自分はポリティカルかどうかということは全く考えないようにしています」

“想像力”を伝える

“1%の喜び”を届けようと、この10年、震災に関わり続けてきた大木さん。

現実の社会の深い傷を前にすると、音楽の無力さを痛感することもある。

それでも、1人のアーティストとして、音楽の力を信じているという。
「音楽で人の命を助けることができるとは全く思っていません。それは今回のコロナウイルスでもそうです。でも、生きるために必要ではなくても、その『生きる』ということを何倍にも、何十倍にも豊かにするためには、音楽やエンターテインメント、芸術が必要で、それは人間だからできるすごくかけがいのないことだと思っています。僕らミュージシャンは、悲しみを想像させることもできるし、喜びを想像させることもできる。不安な気持ちも、最高な気持ちも伝えることができる。それも1秒で。これは音楽の強みだと思っています。僕は“人はいずれ死んでしまう”とか“この世界もいつかは終わる”ということを歌い続けてきて、そんなことってきっと言われなければ想像もしないものだと思います。でもそれを想像することで、1分、1秒、一瞬が本当に無駄にできないし、生きていれば痛みや苦しみさえも愛おしいということに気がつくと思います。そういった想像力によって、簡単なことばになってしまいますけど、“愛”というものが生まれるんだと思うんです。想像力が生む愛が人を豊かにし、感動するんだと思います。それが僕らができることだと思います」
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科学文化部記者

河合哲朗

平成22年入局。前橋局・千葉局を経て、平成27年から科学文化部で文化取材を担当。文芸・文学史をはじめ、音楽や映画などのポップカルチャー、囲碁・将棋まで幅広く取材。

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