文化

田辺聖子さんの思い出 柔らかな大阪弁と凛々しさ

田辺聖子さんの思い出 柔らかな大阪弁と凛々しさ

2019.06.21

男女の機微や女性の生き方をユーモアと温かさで包んだ小説やエッセーを数多く発表してきた作家の田辺聖子さんが、6月6日、神戸市内の病院で、91歳で亡くなりました。私は、田辺さんが体調を崩される前に取材した時の柔らかな大阪弁とともに、小柄な体から発する「凛々しさ」を改めて思い起こしています。

(神戸放送局・放送部長・菊地夏也)

田辺聖子さん
昭和3年、大阪市生まれ。樟蔭女子専門学校(現在の大阪樟蔭女子大学)に在学中から小説を書き、昭和39年に恋愛小説「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)」で第50回芥川賞を受賞。大阪弁を駆使した独自の文体で人気作家になり、「源氏物語」を現代語訳した「新源氏物語」をはじめとした古典文学の紹介でも活躍してきた。

私が初めて田辺聖子さんの作品に触れたのは中学生の頃だったと思います。「女の長風呂」や「イブのおくれ毛」といった当時、大人気だった色っぽいエッセーのシリーズを、親の目を盗みながら読んでいました。

それから20年余り。2001年6月3日に「おはよう日本」で放送したリポートの取材で初めて直接、お目にかかりました。

そのリポートは、江戸時代末の旅行記をもとに田辺聖子さんが書いた「姥ざかり 花の旅笠」について紹介するものでした。「東路(あずまじ)日記」というこの旅行記、現在の福岡県から伊勢、信州、江戸へと5か月にわたる旅の様子がつづられていますが、書いたのは、俳優の高倉健さんの5代前の先祖にあたる小田宅子(いえこ)という商家の女性です。

高倉さんへの差しでのインタビューも印象的でしたが、田辺聖子さんの事前取材、ご自宅でのインタビューについても、鮮やかに記憶に残っています。田辺さんの取材を橋渡ししてくれた出版社の担当の編集者とともに、ご挨拶を兼ねて会ったのは、大阪市内のホテルで開かれた講演会の前でした。

当時、田辺さんは73歳。著作だけでなく、古典文学に関する講演でも人気絶頂で、広い講演会場はファンの女性たちでいっぱいでした。講演では、優しくユーモアを交えた大阪弁で話をされていました。

一方、私の初対面の印象は「怖そうな人」。編集者が、そうお呼びしているように、まさに「田辺先生」という感じでした。「おせいさん」の愛称で知られていた田辺聖子さんですが、いすにちょこんと座りながら、私を含め、今の人たちの言葉の拙さや教養の貧しさについて鋭く指摘し、厳しい口調で政治情勢や社会時評などを話されました。「カモカのおっちゃん」と交わす軽妙なやりとりを読んで、事前に思っていた印象とはかなり違う。「凛々しさ」と言ってもいい、「迫力」や「強さ」を感じました。

その数日後、兵庫県伊丹市のご自宅にお邪魔しての本格的なインタビュー。噂に聞いていた大きなスヌーピーのぬいぐるみをはじめ、可愛らしい感じの書斎。柔らかな大阪弁。まさに「田辺聖子ワールド」に取り込まれたという中で、高倉健さんの先祖の小田宅子が封建社会の中でもグルメやショッピングを楽しみながら元気に旅行していたことや、江戸時代の生き生きとしたおばさんの姿について、喜々として話をしていただきました。高倉さんが「トッポイおばさん」と表現したとおりの小田宅子の姿が、現在の中高年の女性の元気さにも通じると感じられ、とても楽しいインタビューでした。

また、リポートの取材だけでなく、私が以前、神戸放送局で記者をしていた時に経験した阪神・淡路大震災の時の話も伺いました。田辺さんは、その震災経験について「ナンギやけれど・・・・・・わたしの震災記」という作品に書かれています。この著作では、震災に負けない人たちのたくましい姿、被災した人たちを勇気づける言葉がつづられています。

近年、田辺さんは体調を崩されていると、担当していた編集者から聞いていて、一昨年からの私の2度目の神戸放送局勤務では、お会いする機会はありませんでした。ただ、去年、遅ればせながら読んだ「春情蛸の足」は、男女の機微と関西の食べ物を絡めた絶妙な味わいの短編集で、改めて田辺さんの世界を堪能しました。

また、田辺聖子さんの担当だった編集者は、田辺さんのご近所に住む、作家の宮本輝さんも担当していて、その縁から、私は、宮本さんを、ご自宅でインタビューしたこともありました。田辺さんと宮本さんの双方から、お互いの交流のこと、それぞれの阪神・淡路大震災の被災体験も聞いていました。

田辺さんの訃報を聞いた時、まず思ったのは、宮本さんから追悼の言葉をもらいたいということでした。

そこで、神戸放送局の記者に宮本さんの取材を託しました。宮本輝さんは、兵庫県伊丹市の自宅に、事前のアポなしでいきなり訪ねてきた神戸放送局の安土直輝記者の熱意にほだされたのか、およそ30分にわたって丁寧に対応していただき、時おり涙を浮かべながら、次のように話してくれました。

「お互い徒歩数分の所に住んでいるので、田辺さんの自宅で夜遅くまでお酒を飲んで、小説について語りました。『日本語を知らないやつだ』とよく叱られました。数々のすばらしい短編・長編小説を生み出し、一般の人に古典文学を分かりやすく伝える大きな役割を果たしてきたと思います。関西の文壇の非常に大きな明かりが消えてしまったと感じます」

来年、2020年1月17日で阪神・淡路大震災から25年。四半世紀という時間は、生まれた子どもが、親になるまでの時間。世代が代わるだけの時間でもあります。田辺聖子さんがご存命であれば、この25年の歳月をどのように感じてこられ、のちの人たちにどのような箴言(しんげん)を語られるのか、インタビューしたいところでした。

今は残念な思いとともに、関西を舞台に健筆を振るわれ、女性の生き方、男女の関係にモノ申してこられた田辺さんに、「お疲れさまでした」と言葉をおかけしたい気持ちです。

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