アメリカと中国、パンデミック下の暗闘4

アメリカと中国の覇権をめぐる争いは、民主国家と強権国家の闘いとも言われる。
だが民主国家の盟主のはずのアメリカでは、新型コロナウイルスと黒人男性の死亡事件を受けて、トランプ大統領下の民主主義に厳しい目が向けられている。
米中の対立が深まる中、アメリカでは秋の大統領選挙も控えて自国の指導者像が問われている。

目次

    息ができない

    「I can’t breathe(息ができない)」

    ことし5月に中西部ミネソタ州で白人警察官に首を押さえつけられて死亡した黒人男性の最期のことばだ。
    全米に広がったデモでは、参加者たちが抗議の意思を込めて繰り返し叫んだ。

    事件の5日後、このことばをツイッターでつぶやいたのが、中国外務省の華春瑩報道官だった。

    そのつぶやきには、アメリカ国務省のオータガス報道官のツイートも引用されていた。

    「世界の自由を愛する人々は、香港の人々との約束を破った中国共産党の責任を追及し、法の支配のために立ち上がらなければならない」

    香港での民主派によるデモを取り締まるため統制を強化する中国政府を非難するオータガス報道官。それに対する華報道官の反論が「息ができない」だった。
    このツイートをアメリカ政府の当局者は「香港より自国の現実に目を向けろという挑発的なことば」と受け止めた。

    中国の宣伝戦

    このツイートが、中国のさらなる宣伝戦の始まりだった。 中国政府と中国国営メディアは、アメリカ国内の抗議デモを大きく取り上げ、トランプ政権の対応を繰り返し非難していく。

    中国外務省 趙立堅報道官

    中国外務省の趙立堅報道官は、アメリカは香港での抗議活動を美化する一方、自国の抗議デモには連邦軍の派遣も検討して抑え込もうとしているとして「二重基準=ダブルスタンダード」と非難。
    新華社通信は、6月3日付けの記事で「アメリカ国内では人種差別、警察による暴力、銃の乱射、貧富の格差拡大で、人権状況が悪化している。さらに国外でもイラクで政権を転覆させ、シリアで市民に空爆した。世界最大の人権侵害国は間違いなくアメリカだ」と主張。
    チャイナ・デイリーはその2日後、「欧米の指導者たちはアメリカ国内の人権問題には黙っているのに、香港の問題には激しく反応する。欧米の指導者もメディアもダブルスタンダードだ」とする記事を掲載した。

    こうした中国側の主張には、アメリカの民主国家としての信用力を低下させると同時に、香港の統制強化を正当化しようとするねらいがうかがえる。
    2001年の同時多発テロを受けてアメリカがテロ対策の強化に乗り出したとき、これと軌を一にするかのように、中国は新疆ウイグル自治区の統制をテロ対策を名目に強化させている。

    アメリカの状況を冷静に分析し、これを統制強化に利用する。そうした思惑もかいま見える。

    ポンペイオ国務長官

    トランプ政権で対中国の旗振り役となっているポンペイオ国務長官は防戦に必死だ。

    中国側の相次ぐ発信を受けて、6月6日に声明を発表。
    「基本的人権と自由を拒む中国共産党の行動をアメリカ政府の行動と同じに扱って宣伝するのは詐欺行為だ」と攻撃した。
    中国では香港でも天安門でも平和的なデモを認めず、デモを伝える報道や表現の自由もない。
    だがアメリカはデモも表現の自由も認めており、全く異なると反論したのだ。

    実際、華報道官の「I can’t breathe」というツイートに対しては、世界各地から「Hong Kong can’t breathe」や「I can’t tweet」という書き込みも目立った。
    香港の統制強化、そして中国国内でツイッターを認めていない中国政府への批判は強い。

    将軍たちの反旗

    一方、トランプ大統領の抗議デモへの対応にも「非民主的」や「独裁的」という批判があることは事実だ。

    軍の投入を示唆し、強制排除も辞さない姿勢にアメリカでは「銃口を自国民に向けるのか」「アメリカ版の天安門事件だ」という声が相次いだ。
    特に「民主主義の危機だ」と立ち上がったのが、軍の元将軍たちだった。

    マティス前国防長官 「私は軍に入隊したとき、憲法を守ると誓った。同じ宣誓をした軍の部隊が、アメリカ国民の憲法上の権利を侵害するよう命令されるとは夢にも思わなかった」

    マレン元統合参謀本部議長 「トランプ大統領は、平和的に抗議活動を行う国民の権利を無視した。アメリカ国民は敵ではない。もはや黙っていられない」

    政治と距離を置き中立の立場を貫くのが軍人の誇りとも言われるだけに、将軍たちの声高な批判は極めて異例だ。

    ミリー統合参謀本部議長

    政権への反発の高まりに現職の制服組のトップ、ミリー統合参謀本部議長は大統領との間に一線を引くかのように謝罪した。
    トランプ大統領とともに平和的な抗議デモが強制排除されたあとを歩き、写真撮影に臨んでいたことに、「私の同行は、軍が政治に関与している印象を生み出してしまった。制服を着た軍の将校として間違いだった」と語った。

    ボルトン本の衝撃

    改めて噴き出すトランプ大統領の“人権意識”への疑問をさらに高めたのが、元側近のボルトン前大統領補佐官の回顧録だ。

    瞬く間にベストセラーになった回顧録『それが起きた部屋』には、みずからの再選を最優先とする一方、民主主義や人権を軽視するトランプ大統領の姿が描き出されていた。

    回顧録より 「トランプ大統領はアメリカの農家からの支持の重要性を強調し、習主席にアメリカ産の大豆や小麦の購入を増やすよう求めた」
    「トランプ大統領は(香港のデモについて)『自分は関わりたくない。アメリカも人権問題を抱えている』と付け加えた」
    「トランプ大統領は(習主席との電話会談で)こう伝えた。香港のデモは中国の国内問題だ。側近たちには公の場で香港の問題を語らないよう指示した」
    「習主席はトランプ大統領に新疆ウイグル自治区で収容施設を建設する理由を説明した。トランプ大統領は正しいことだと考え、通訳によると、建設を進めるべきだと伝えた」

    ボルトン前大統領補佐官

    ボルトン氏の主張には「主観的」で「偽りがある」という批判もある。だが、それを差し引いても中国をめぐるトランプ大統領の最大の関心は貿易交渉であり、民主化や人権問題でないことは明らかだった。
    事実、米中の貿易交渉の期間中、アメリカ国務省の高官が予定していた香港問題の演説を突然、ホワイトハウスから止められたこともあった。

    共和党内の離反

    「民主主義や人権というアメリカの価値観を軽視する大統領を再選させてはならない」

    そう訴えるのは、大統領の身内とも言える与党・共和党の政治アナリスト、サラ・ロングウェル氏だ。

    サラ・ロングウェル氏

    トランプ大統領は共和党支持者から9割前後の高い支持を得てきたが、氏によると、党内で今、トランプ大統領を見限る人が増えているという。

    ロングウェル氏 「人種差別に抗議するデモは、アメリカの民主主義の象徴だ。社会の不正義を感じた人々が言論の自由の権利を行使したにもかかわらず、強制排除に乗り出したのがトランプ大統領だ。彼の行動は強権的で独裁者的で反民主的だ」

    氏はことし5月、1つの団体を立ち上げた。
    「トランプに反対する共和党有権者の会」だ。

    ホームページでは、賛同した人々がビデオメッセージで共和党員でありながらもなぜトランプ大統領に失望したのかを説明している。その理由として「民主主義の危機」を挙げる人は少なくない。

    ネバダ州在住 デニスさん 「トランプに期待して投票したが間違っていた。彼は強烈なナルシシストで金と権力と自分のイメージにしか関心がない。トランプは私たちの民主主義にとって脅威だ。民主主義の存続を問う選挙だ」

    フロリダ州在住 マシューさん 「新型コロナウイルスで大統領の指導力の欠如が12万人以上の国民の死を招いた。その責任を取らないと主張する大統領に投票するのは、ばかげている」

    民主化や人権より、経済や社会の安定を重視するようなトランプ大統領の姿。それが実のところ中国共産党指導部の姿勢と驚くほど似通っているという指摘がある。
    「トランプ大統領によってアメリカが中国化しつつある」(CNN北京元支局長)という懸念の声も聞かれるほどだ。

    ロングウェル氏は、米中の対立が民主国家と強権国家の闘いとも言われる今こそ、民主国家にふさわしい大統領を選ぶべきだと主張する。

    「トランプ大統領は、中国の民主化や人権を主張できる立場ではない。彼こそアメリカの民主主義の脅威だ。本来、アメリカは自由を愛する国々のリーダーであるべきだ。だが、トランプ大統領によって世界におけるアメリカの立場が損ねられている」

    米中の強硬姿勢

    新型コロナウイルスの脅威が続く中、中国政府はアメリカをはじめ国際社会の批判にもかかわらず、強硬な姿勢を打ち出している。

    6月30日には香港国家安全維持法を施行し、香港での反政府的な活動の取締りを本格化させている。
    新疆ウイグル自治区では少数民族のウイグル族を収容し、南シナ海では軍事的な動きを活発化させている。

    これに対しトランプ政権では、ポンペイオ国務長官を筆頭にオブライエン大統領補佐官、ナバロ大統領補佐官、ポッティンジャー大統領次席補佐官などの対中強硬派が中国政策の主導権を握りつつある。アメリカで中国への国民感情が悪化する中、トランプ大統領も強硬路線に傾きつつある。

    一方の民主党も中国に厳しく、特に人権問題には積極的だ。

    トランプ大統領の姿勢は選挙向けのポーズだという指摘もある中、中国政府は今、11月の大統領選挙に向けて、トランプ大統領とバイデン氏のどちらが自国にとって都合がよいか分析を進めているという。
    アメリカの有権者の審判は、対立が深まる米中両国の行方を左右することになる。

    ワシントン支局長

    油井 秀樹

    1994年に入局。2003年のイラク戦争では、アメリカ陸軍に従軍し現地から戦況を伝えた。
    ワシントン支局、中国総局、イスラマバード支局などを経て、2016年から再びワシントン支局で勤務。
    2018年6月から支局長に。