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なんでノーベル賞をあげることにしたの?

「人類に最も大きな貢献をした人」に贈られるノーベル賞。これまでに受賞した人や団体の数は、2018年までに935、すごい数!でも、どうしてノーベルは賞をあげることにしたの?

「死の商人」と呼ばれる人生を送ったから。

ダイナマイト

ノーベルが発明したものとして有名なのがダイナマイトです。
そのダイナマイトは、ニトログリセリンと呼ばれる物質で出来ています。ニトログリセリンは、イタリア人の化学者、アスカニオ・ソブレロが合成に成功した化合物で、大きな爆発力があることが分かっていましたが、どうやって安全に取り扱うことができるかが課題になっていました。

ノーベルは1863年、30歳の時にニトログリセリンを大量かつ安全に製造することに成功、特許を取得しました。その後も資金調達に苦労しながらも実験を繰り返し、起爆方法を工夫した「油状爆薬」を開発するに至ります。
さらに、珪藻土と呼ばれる岩石を混ぜることで安全性を高めたものをダイナマイトとして製品化しました。

ちなみにダイナマイトという名前は、ギリシャ語で「力」を意味するdynamisに由来しています。
ダイナマイトは、強力な爆発力と、その安全性からたちまち販売が伸び、世界各地に工場が作られるようになります。

なぜヒット商品になったのか、ノーベル賞の歴史に詳しい北尾利夫さんは「当時は、蒸気機関が発明されて石炭の需要が高まったほか、鉄道や道路などのインフラが急速に整えられた時期でした。ダイナマイトを使えば、採掘が容易になったり、工事の大幅な短縮がのぞめたりすることから、世界中から注文が寄せられるようになりました。時代の要請という追い風があったのです」と話しています。

「死の商人」と呼ばれて

30代にして巨万の富を手に入れたノーベル。
晩年には、軍事用途に使われる火薬「バリスタイト」を開発したり、兵器の開発や製造に乗り出したりもしました。ノーベルの一連の発明や技術開発は、軍事技術にも大きな影響を与えました。

ノーベルが50代半ばを迎えた1888年、ある出来事が起きます。
ノーベルの兄、リュドビックが亡くなった際、ノーベル自身が亡くなったと勘違いをした新聞が「死の商人、死す」という見出しの記事を出したのです。
自分自身のことを「死の商人」と表現した新聞記事。これを読んだノーベル本人は、いったい何を考えたのでしょうか。

ノーベルの故郷、スウェーデンの駐日大使館に問い合わせたところ、スウェーデン大使のペールエリック・ヘーグベリさんが話をしてくれました。

駐日スウェーデン大使 ペールエリック・ヘーグベリさん

「記事を読んで、ノーベルは大きなショックを受けたといいます。自身の発明が、世の中の役に立っていると思ったのに、『死の商人』と表現されていたのを見て、それを払拭したいと考えたに違いありません。元から、人類のために資産を何らかの形で活用したいと考えていたとは思いますが、この記事が出たことが、賞の創設を後押しした1つのきっかけになったのだと思います」

この点については、2007年にノーベル平和賞を受賞したアメリカのゴア元副大統領も受賞記念講演で次のように語っています。

「119年前、裕福な発明家は、自身が亡くなる数年前に誤って出た死亡記事を読みました。その発明家が亡くなったと信じた新聞は、彼が発明したダイナマイトを理由に、『死の商人』という不当なレッテルを貼ることで、その人生に手厳しい判断を下した記事を出しました。この非難に奮い立たされ、彼は平和のために貢献するという運命的な選択をしたのです」

一方で、北尾さんは、ノーベルが、この新聞記事の件について、みずから語ったり、文書に書き残したりはしていないことから、次のように指摘しています。

ノーベル賞の歴史に詳しい北尾利夫さん

「ノーベル賞については、ノーベルの遺言が明らかになって初めてわかったことです。生前にノーベル自身が語ることはありませんでしたし、ノーベル賞の構想について書かれた遺言にも言及はなく、なぜノーベル賞を作ったのかについて本当のことはわかりません。残された資料や、彼がたどってきた人生から推測するしかないのです」

ノーベルはなぜ5つの賞を?

ノーベルはなぜ5つの部門について賞を作るように遺言を残していたのか。これについて北尾さんは、ノーベル自身の生涯からその理由がうかがえると言います。

まず、物理学賞や化学賞は、ノーベル自身の研究や発明から考えれば、理解できるところです。

医学・生理学賞については、ノーベル自身が、強い関心を持っていた分野です。実際に、ニトログリセリンを使った動物実験を行ったり、人の体への血液注入、今の輸血につながるようなアイデアをメモにしたりしていたといいます。

また、文学賞については、ノーベルは読書家だっただけでなく、自身も戯曲や詩などの作品を手がけていたことから納得できます。ノーベルは、いまで言う、理系の分野にも文系の分野にも、幅広く関心をもっていました。

平和賞については、オーストリアの作家で、平和運動家のベルタ・フォン・ズットナーとの交流があったことが大きな影響を与えたとされています。
ちなみにズットナーは、ノーベルの死後、1905年に平和賞を受賞しています。

そのうえで、ノーベルの生涯をたどってみると、ノーベル賞をなぜ構想したのか推測できないか、北尾さんに聞きました。

「父親の事業が倒産したあと、そこから再起しようとする姿を見たり、自身が『油状爆薬』を開発する中で資金の調達に苦労したりする経験をしています。優れた研究者たちが経済的に困っている状態から解放して、研究に専念してほしいという思いが強かったのでしょう。また、実際に若い人たちの研究資金を援助したり、研究所に寄付をしたりしています。そうした慈善家的な、理想主義的な性格がノーベルには元からあったことが、ノーベル賞の創設につながったのではないでしょうか」

ネットワーク報道部

高橋 大地(たかはし だいち)

平成16年入局。宇都宮局、科学文化部、岡山局などを経て、現在はネットワーク報道部に所属。ひきこもり、映画、文化財などの分野を取材。園子温作品とベイスターズ、ボードゲームをこよなく愛する。