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ノーベル賞 受賞50年 江崎玲於奈さん(98)
「科学と技術こそ人類の文明の根底 探求を」

ことしもノーベル賞発表の季節になりました。今からちょうど50年前の1973年、日本人として4人目となるノーベル賞を受賞し、いまもなお日本人最高齢のノーベル賞受賞者として活動を続けている人がいます。

江崎玲於奈さん(98)です。

1949年に日本人で初めてノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹博士、1965年に物理学賞を受賞した朝永振一郎博士、1968年に文学賞を受賞した文豪・川端康成に続く4人目の受賞で、民間企業に勤める研究者の受賞だったことも大きな話題になりました。

江崎さんが受賞してから半世紀。戦後の混乱から経済成長を遂げ、「科学技術立国」の実現を掲げてきた日本はいま、研究力の低下が懸念される事態に直面しています。大正に生まれ、昭和、平成を生き抜いて令和の時代を迎えた大科学者はいま何を思うのか。私たちに伝えたいメッセージとは。

1973年のノーベル物理学賞とは

江崎玲於奈さんがノーベル物理学賞を受賞したのは1973年。「固体中のトンネル効果に関する発見」に対して、アメリカとイギリスの研究者とともに3人の共同受賞でした。

「トンネル効果」というのは「量子」の不思議な世界で起きる現象です。私たちの日常生活では壁に投げたボールは壁に当たって跳ね返ってきます。決して壁を通り抜けて向こう側に飛んでいくことはありません。ところが、電子や陽子といった非常に小さな物質の「量子」の世界では、一定の確率で壁を通り抜ける現象が起きるのです。これを「トンネル効果」と呼んでいます。

研究者たちはその存在を確かめようと観測を試みてきましたが、何年もの間成功にはいたっていませんでした。そうしたなか、江崎さんは半導体に電圧をかけて電流を測定するという一見すると単純な実験を行い、「トンネル効果」の存在を鮮やかに証明してみせたのです。江崎さんはさらにその現象をもとに「エサキダイオード」という半導体を使った電子部品として実用化し、世界を驚かせました。

半導体はいまや現代社会のインフラともなっているスマートフォンやパソコンなど通信端末には欠かせない存在です。江崎さんの研究成果は、私たちの現代社会を支えることにつながっているのです。

50年後のいまノーベル賞受賞を振り返って

ことしでちょうど受賞から50年。このタイミングで江崎さんにインタビューをお願いできないか調整を進めた結果、9月のある日、ご自宅で応じていただけることになりました。98歳になる江崎さんは、新型コロナウイルスの感染拡大後は公の場に姿を現す機会が減っていますが、シンポジウムにビデオメッセージを寄せるなど現役として活動しておられます。

迎えたインタビュー当日。撮影準備を行っている私たちがいるリビングまで、つえも使わずに歩いて来られ、「ようこそ」という明るい声で迎えていただきました。いすに腰掛けた江崎さんに、受賞から半世紀になったことを尋ねると、メダルを手にしながら懐かしそうに当時をこう振り返りました。

江崎玲於奈さん
「人生にはさまざまなことがありましたけれども、ノーベル賞の受賞はわたしの人生において大きなイベントでした。成果を挙げたという喜びがあるとともに、それを評価してくれたことも非常に重要でした」

未踏の新分野への挑戦、若い創造力がカギに

江崎さんがノーベル物理学賞を受賞したのは1973年。しかし、受賞理由となった論文を発表したのは15年もさかのぼった1958年1月、32歳の時でした。研究者としてはまだ駆け出しの若手といっても良い年齢での快挙でした。

前列中央 が7歳の江崎玲於奈さん

1925年3月に現在の東大阪市で誕生した江崎さんは、太平洋戦争まっただ中の1944年に東京帝国大学に入学。在学中に終戦を迎え、卒業後は民間企業に就職して研究を続けました。戦争で焼け野原となった日本が復興に向かっていく時代、江崎さんは当時、日本では未踏の新分野だった半導体の研究に関心を持ち、研究を続けました。

江崎さん
「研究者として幸いだったのは、わたしの大学を卒業した翌年の1948年に(真空管に取って代わる半導体の)トランジスターが誕生したことでした。新しい分野ですから、その分野を開拓するのは何をやっても新しいものが含まれます。誰に聞くことも出来ないし、先生もいませんから、自分がいろいろ新しいことをやらなくてはなりませんでした。こういう分野こそ新しいものが生まれるんですね」

その後、研究者としてのキャリアを重ね、1956年、31歳の時に、より自由な環境で研究を行うため転職を決意し、トランジスターを使ったラジオを作っていた現在のソニーの前身・東京通信工業に移り、半導体素子の研究開発にのめり込んでいきます。

転機が訪れたのは翌年(1957年)の暑い夏の日。冷房が効かない研究室で新しい半導体を流れる電流と電圧の特性を調べていた際、温度によって特性が変わることに着目し、ドライアイスで冷やしながら調べたところ、電流の値が全く思いがけない変化を示したのです。これがトンネル効果の発見につながる最初の一歩だったといいます。

その後も実験を繰り返し、通勤の間も考え続けた末、これはトンネル効果によるものだという結論に至り、アメリカの科学雑誌「Physical Review」に論文を発表。この論文が世界から注目されることになりました。こうした自身の経験をもとに、江崎さんは「若さに備わる創造性」を遺憾なく発揮できる環境こそが大切だと強調しました。

「日本人は創造性と活気が減っているのでは」

江崎さんはこのところ気がかりなことがあると話します。自然科学の分野で、日本の立ち位置が相対的に下がってきており、研究力の低下が懸念されていることです。日本の社会全体でも、新しいことに挑戦する探究心や創造性を発揮できる環境が十分でないと指摘します。

江崎さん
「こういうことをすると役に立つ、お金が儲かる、これをするとうまくいく。そういう方向に皆さん行くと思いますが、それらを追求するだけでなく『未踏の分野』を探求することを大事にして欲しいと思います。トライアル&エラーや創造力による間違い、創造力を発揮することによるネガティブな結果をある程度、社会が認めることも必要かもしれません」

一方で「創造性」を育む難しさも経験

トンネル効果に関する論文を発表した2年後に江崎さんは渡米し、アメリカ・ニューヨークにある大手IT企業IBMの研究所で半導体に関する研究を続け、「半導体超格子」と呼ばれる新しい分野で研究成果を挙げてきました。

そして67歳のとき、筑波大学の学長に選ばれたことを機に帰国。今度は教育者として「創造性」を育む実践に取り組みましたが、そこでは難しさも感じたと振り返りました。

江崎さん
「能力には大きく『分別力』と『創造力』の2つがあります。『分別力』は情報を自分が吸収して理解してそれを活用する能力です。この世の中で生活して活動するために必要で、学校では『分別力』のようなものが教育されるわけです。一方の『創造力』に関しては大学や学校は、研究機関と比べると乏しいように思うわけです。当然かもしれませんが、教育というものはそんなに変えることができない。6年間筑波大学にいましたが基本的に学校の部分を変えるということは大変難しかった」

“巨人”の肩の上に立つ研究者たち

ノーベル賞の受賞後、江崎さんが講演や著書でしばしば引用するのが「ニュートンのリンゴ」で知られる万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンが残した次のことばです。

「私が他の誰よりも遠くの方を見ることができるとするならば、それは何としても、私が背の高い巨人の肩の上に立って視野を伸ばしているからに他ならない」

「遠くを見る」、「巨人の肩」とはそれぞれ「新しい発見」、「先人の功績」を指し、新しい発見が出来たのは先人が積み重ねた半導体研究の功績があったからだと江崎さんは敬意を払っています。

最先端の量子コンピューター発展に貢献

しかし、そんな江崎さん自身がいまや巨人となり、後進の研究者たちを肩の上に乗せる存在になっていることも事実です。

最近耳にする機会が多くなった「量子コンピューター」。スーパーコンピューターをしのぐ計算能力が期待される未来のコンピューターですが、この分野では国内の第一人者の、理化学研究所の中村泰信さん(55歳)。量子コンピューターはアメリカのIBMやグーグルなど名だたる企業をはじめ、各国が実用化に向けてしのぎを削る最先端分野ですが、そこでは中村さんが1999年に世界に先駆けて開発した「超伝導量子ビット」と呼ばれる素子が用いられています。

「超伝導量子ビット」を並べた集積回路が量子コンピューターの計算に使われており、いわばコンピューターの頭脳にあたる素子です。この素子の動作原理は、江崎さんとともに1973年にノーベル物理学賞を受賞したブライアン・ジョセフソンの研究成果をもとにしているといいます。

中村さんは江崎さんたちの功績についてこう話します。

中村センター長

中村
センター長

「江崎さんやジョセフソンさんは、将来量子ビットに使われるとは想像もしなかったと思いますが、そのご研究のおかげでいまここに至っています。江崎さんは非常に優れた物理学者であり、エサキダイオードの仕事もそうですがその後の半導体超格子という仕事は、非常にわれわれにとっても指針となりました」

エサキダイオードも“発展”

さらに江崎さんの研究成果を発展させ、スマートフォンなどの無線通信規格の「5G」の次に来る「6G」での活用が期待される「テラヘルツ波」につなげる研究を行う若手の研究者もいます。

東京工業大学の鈴木左文准教授(42歳)。江崎さんがノーベル賞を受賞した後に生まれた世代で、発信器に使える「共鳴トンネルダイオード」と呼ばれる素子を研究しています。

鈴木准教授

鈴木
准教授

「江崎先生は『エサキダイオード』を用いてトンネル効果を発見されましたが、その後により発展した半導体の研究が行われて、それがわれわれの研究室の『共鳴トンネルダイオード』というデバイス開発につながっています」

50マイクロメートル程度と非常に小型で消費電力が少ない特徴を生かし、将来的には出力を高めて、スマートフォンなど小型の通信機器への搭載を目指していますが、江崎さんの研究者としての姿勢から学ぶことが多いと感じています。

鈴木准教授

鈴木
准教授

「江崎先生がいつも『巨人の肩の上に立つ』とおっしゃいますが、私が行っている研究は、江崎先生という新たな巨人の上に立って行われています。私の研究もいまでは日本国内や海外において多くの研究者が新たに研究を始めており、わたしも巨人になるということができるか分かりませんが、新しい学生や研究の発展につながっていけばと考えています」

“情報の波に押し流されないで”

トランジスターの誕生をきっかけに急速に半導体産業が発展し、テクノロジーの進歩によってこの50年で社会のあり方は大きく変化してきました。江崎さんから眺めたとき、インターネットやスマートフォンの普及によって高度に情報化した現代社会で創造性を発揮するには、テクノロジーとうまく付き合うことが必要であるように見えるといいます。

江崎さん
「創造性の発揮の方法がいままでとはだいぶ違っているように思います。現代の人はスマートフォンというものが生活に非常に重要な役割を演じており、好む好まざるに関わらず影響を受けています。活用しないと生活ができないわけですし、情報量が多いのは結構ですが、情報の波に押し流されないでほしいと思います」

一方、江崎さんが生きてきた「戦後」は、若者たちが自由に創造力を発揮できたのだと振り返りました。

江崎さん
「わたしが生きた時代は戦争というものを始めて日本は戦争に負け、敗戦のなかで生きてきてきました。ある意味において普通ではなかったかもしれませんが、日本のシステムが崩壊したことで、若い人たちは自由になって何でも出来た訳です。戦後に社会を発展・活性化させることが非常に重要でしたが、その場合には分別力だけを働かせていては何の発展もありません。創造力を働かせて社会を活性化していくことが求められていたのです」

「情報の波に押し流されない」というのは、膨大な情報がたやすく手に入る現代の私たちにとっても重要な戒めそのものです。また、戦後の混乱の中で若い世代が創造力を発揮できたという指摘も興味深く聞きましたが、現代社会もさまざまなシステムが変容し、ある意味では「戦後」のような混沌とした状態にあるのではないでしょうか。だとすれば、創造力を働かせて社会を活性化していくチャンスがあるという意味では、江崎さんのことばは過去の回想というだけにとどまらず、先の読めない現代を生きる私たちに対する叱咤激励なのではないかと受け止めました。

科学技術こそ人類の文明の根底 “探求”を

インタビューは休憩を挟みながらおよそ2時間にも及びました。このなかで最も印象に残った以下のようなことばで締めくくりたいと思います。

江崎玲於奈さん
「科学と技術こそ人類の文明の根底をなすもので、まだ自然界には探求することは一杯あります。探求すること、われわれの生活の根底を次々と充実させるのはこの世に生きたわれわれの義務だと思っていますが、いまの日本は必ずしもその義務を果たしていないと思います。そのひとつの基準がノーベル賞といえるかもしれない。ノーベル賞を受賞するような研究を日本でもより多くしていって欲しいというのが私の希望です」

科学技術の進歩で、ともすれば人間は何でも分かったような気になっていますが、じつは自然界にはまだまだ探求すべきことはたくさんある。そして、それを探求することこそが、私たちに課せられた義務だというのです。人生を通じて絶えず探求を続けてきた江崎さんのこのメッセージをしっかりと胸におさめ、ご自宅を辞しました。

取材余話:98歳、健康で長生きの秘訣は?

長年にわたって研究や教育に尽力してきた江崎さんもことしで98歳。いまもノーベル賞受賞者としての講演や取材の依頼を受けるなど活動を続けられていますが、その健康の秘訣を尋ねると、少し照れたように妻の眞佐子さんの存在を挙げられました。

江崎玲於奈さん
「それ(健康の秘訣)は家内に聞いて下さい。ひとつはやはり食べ物が大事です。最近はだいたい家内が作ったものしか食べません。案外人間は食べ物が大事だということは申し上げておきます」

眞佐子さんが手がける魚や野菜を中心とした食生活で、栄養バランスに気を遣った食事を続けていることが、いつまでも情熱を絶やさないでいられる秘訣だということです。

山内 洋平

科学文化部 記者

山内 洋平(やまうち ようへい)

2011年入局。佐賀局を振り出しに青森局、札幌局を経て科学文化部。量子コンピューターなど大型研究プロジェクトからタンポポといったニッチな分野まで幅広く取材。青森でおもしろさに気づいた縄文時代、日本の民俗風習にも興味があります。

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