日本人初受賞 湯川秀樹博士 受賞までの苦悩と喜び

日本人としては初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した湯川秀樹博士。この湯川博士のプライベート写真2000枚余りが家族から京都大学に寄贈されています。そこには湯川博士の苦悩や喜びが写し出されていました。

寄贈されたアルバム

京都大学基礎物理学研究所に寄贈された36冊の古いアルバム。京都市にある湯川秀樹博士の自宅で家族が保管していたもので、湯川博士の幼い時から亡くなるまでを記録した、2000枚を超える写真が納められていました。

大学ではこれまでにも、湯川博士に関連する資料の保存に取り組んできましたが、これだけ大量の写真が寄贈されるのは、初めてのことです。

湯川博士の生い立ちと研究

湯川博士は明治40年、東京・麻布に生まれ、1歳の時に京都に転居したあと、京都帝国大学で物理学を志しました。

湯川博士が大学を卒業した当時、世界では「素粒子物理学」という新しい学問が活発になり、原子核の構造などが急速にわかりはじめた時代でした。

原子核の中には陽子と中性子があるということが分かったばかりの時期で、湯川博士は、この陽子と中性子が原子核の中でバラバラにならずに結びついている理由を説明する理論を作り出すことを目指しました。

しかし、当時の日本にこの分野の専門家はおらず、海外の論文などを手がかりに研究を続けました。

「中間子論」の誕生と、う余曲折の評価

その結果、昭和9年に湯川博士が発表したのが、後のノーベル賞につながる「中間子論」です。

この理論で湯川博士は、陽子と中性子を強い力で結びつけている「中間子」という新たな粒子が存在するはずだと予測したのです。湯川博士が27歳で人生で初めて書いた論文でした。

論文はまず国内で発表され、その翌年には日本数学物理学会の欧文誌にも掲載されましたが、当初、国際的には全く注目されませんでした。

しかし、その後、実験で「中間子」の存在が確かめられて状況は一変し、湯川博士はノーベル物理学賞を受賞しました。

専門家が見る注目写真

今回、寄贈された2000枚あまりの写真。この中に専門家が注目する写真があります。

湯川博士と親交のあった物理学者で、湯川博士の業績や人物像を研究している慶応大学名誉教授の小沼通二さん(88)は、昭和14年に撮影された2枚の家族写真が興味深いと指摘します。

昭和14年は「中間子論」の発表から5年後で、当初は見向きもされなかったものが、徐々に注目を集め、湯川博士は物理学の中心地、ヨーロッパで開かれる国際学会に招待され、生まれて初めて海外へ渡りました。

この2枚の家族写真は、その渡航の直前と帰国直後に撮影されたものです。

表情の変化

小沼さんが指摘するのはこの2枚の湯川博士の表情の変化です。渡航前の写真では、緊張して硬い表情をしています。

およそ半年後に撮影された帰国直後の写真では、家族とともに非常に穏やかな顔をしています。

この時、招待された国際会議は、第2次世界大戦の開戦によって直前で中止されてしまいましたが、すでにヨーロッパにいた湯川博士は、そのままアメリカへ渡り、アインシュタインら第一線の物理学者と次々に面会して「中間子論」や最新の物理学の理論について議論を交わしてきました。

その中で湯川博士は「中間子論」に自信を深めたと見ています。

写真から見える湯川博士の心境について小沼さんは、「湯川博士は若い時に外国留学を勧められても『世界から認められるような論文を書いてから外国に行きたいので、今は行きたくない』と言って断っていて、その頃から自信というか、何かしてやろうという意気込みがあった。そして、『中間子論』の論文を書いた後、招待された国際会議のテーマが『中間子論』だった。会議がなくなったのは大変残念だったけれども、世界トップレベルの物理学者と議論して『中間子論」に自信を深めた湯川博士は満足感を持って帰って来た。初めての外国訪問を機に大きく心情が変化した様子を読み解くことができる」と話しています。

実際に海外で湯川博士の評価はこの時期以降、さらに高まり、10年後にはノーベル賞の受賞となりました。

独学が生み出した業績

湯川博士はなぜ、物理学の中心だったヨーロッパから遠く離れた日本にいながら、ノーベル賞を受賞する研究を成し遂げることができたのか。

それは、大きなテーマとして長く関心を集めていて、40年ほど前、素粒子物理学の歴史を研究する日米共同のグループが検討を行っています。

小沼さんはその検討結果を次のように解説しました。

「世界最先端のヨーロッパには、大きな業績をあげた偉い先生がたくさんいて、彼らの考えていたことは弟子に伝わるため自由な発想が生まれにくかったが、湯川博士は日本で事実上、独学で道を切り開いてきたことで、既成の観念にとらわれすぎなかった。物理の伝統に縛られ過ぎず自由な発想と本質を見通す力を持ったため、大きな仕事を成し遂げられた」

小沼さんは、「科学の本場は欧米であることは今も変わらないが、湯川博士が示したものは、自由な発想と真実を見抜く力さえあれば今後も日本でいい研究が十分にできることを証明してくれた」と話し、現代の日本の若い研究者を応援していました。

春野 一彦

宇都宮局(元科学文化部)

春野 一彦(はるの かずひこ)

2003年入局。鹿児島放送局を経て、2009年から科学文化部で主に宇宙分野の取材を担当。小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還をオーストラリアの砂漠で目の当たりにした。2015年から3年間、京都放送局で「iPS細胞」の取材などを担当し、2018年から再び科学文化部で取材。

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