2020年10月05日
(聞き手:高橋薫 白賀エチエンヌ)
ホールスタッフが全員認知症という「注文をまちがえる料理店」。日本だけでなく、世界でも話題となったイベントの仕掛け人は、当時、NHKのディレクターだった小国士朗さんです。社会に貢献したい!学生リポーターが話題のイベントの仕掛け人に発想の源を聞きました!
はじめまして、きょうはよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
話題になった注文をまちがえる料理店ですが、どうしてやろうと思ったんですか?
そもそものきっかけは、NHK時代の「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組の取材でした。
【注文をまちがえる料理店】
注文をとるホールスタッフが全員認知症の人という期間限定のレストラン。
間違えることを受け入れて、一緒に楽しむという新しい価値観を発信するため、2017年6月にスタート。
世界最大級のクリエイティブ・アワードであるCannes Lionsをはじめ、国内外で様々な賞を受賞。イベントは各地に広がっている。
認知症介護のプロの和田行男さんのグループホームを取材させてもらったんですが、そこではおじいちゃんおばあちゃんたちが、よくご飯を作ってくれたんです。
そこで、ある日の昼食でハンバーグと聞いていたら・・・餃子が出てきたんです。
(笑)
そう。でも、誰もそのことに突っ込まなくて、むしろ間違いをみんなが受け入れて餃子をパクパク食べるというすごく素敵な風景があって。
こうやって間違いを消す方法があるんだ。間違いを指摘して正すのではなくて、「みんなが受け入れちゃえば間違いはなくなるんだ」って。そんな世界観を街の中に作りたいと思ったんです。
素敵ですね。
でも、そのシーンは番組の中には入っていないんですよ。
僕自身、ものすごく心を動かされたシーンだったんですが、自分の力不足もあって番組の中に入れることが難しかったんです。
実際の番組では放送されなかったんですね。
届ける手段が番組だけっていうのはすごくもったいないなって。
アプリだろうがSNSのサービスであろうが、イベントだろうが何だっていいですよね。
番組ももちろん届けるための強力なツールなんですが、もっとフラットに、もっと自由に届けたいなと思って、個人でやってみようと思いました。
個人で、ですか。
そうです。上司に許可をとって、「個人でやるなら止めないので、ご自由に」ということだったので、NHKにいながらNHK以外の人たちと一緒にやりました。
企画からPR、資金集めまで全部自分の責任で。クラウドファンディングで3週間で1300万円集めたりして。結果的に世界150か国に広がっていくんですけれど、めちゃくちゃ面白かったです。
大学生の時はどんな感じだったのですか?
仙台で一人暮らししていたんですが、やりたいことも別になかったし、家でずっと引きこもっていました。ウイニングイレブンっていうサッカーゲームを1日20時間くらいやってて(苦笑)。
インドアだったんですね。ディレクターって外に出るイメージがありましたが・・・
大学3年まで一人でずっとそんな生活をしていたんですが、ある日親指を見たら、十字キーの形がついていたんです。ゲームをやりすぎて。
十字キー(笑)
なんかすごい大事な時間を使って、俺何をやっているんだろう、社会に何も生んでいないなって。本当に動かなきゃダメだと。
その当時、ハモネプっていう学生がみんなでハモって歌う番組がはやっていて、これに応募してみようと思ったのがファーストアクションでした。
なるほど。
インターネットを見て、仙台で募集しているグループがあったので、アクセスして一緒に歌いましょうって。
そしたら、そこのグループリーダーがいろんな人とつながりがあって、そのうちの一人と知り合って一緒に起業しようとなって。
いきなりアクティブになりましたね。
仙台ってアーケード街が多いんですよね。東北中からストリートミュージシャンが集まってたんです。みんなすごい上手で、発表の場がそこしかないのが、もったいないと思って。
紹介動画を作ってそれをアップして、レーベルとかに見てもらって、才能を青田買いしてもらうプラットフォームを作りたいなと。
まだインターネットが始まったくらいの頃で、YouTubeもなかったので、稚拙なんですが、インターネットテレビの会社を立ち上げようとしたんです。
おおー。
就職活動はどうだったんですか?
僕ね、全然就職する気がなかったんです。起業の方に人生掛けようと思っていたから、全く就活していなくて。
でも、仲間がお金を持っていなくなって・・・。
ビジネススキームもできて、出資金も1200万円を集めて、あとは登記するだけだったんですけれど、全然登記されなくて、お金を持って行かれたので、会社が立ち上がらなくて。
えっ、1200万円も・・・。
びっくりするよね、そんなことが人生に起こるんだって。学生にとって1200万円ってとてつもない金額でイメージもつかなかったけど・・・。
まずは企業に入って働いてお金をコツコツ貯めて、返さなきゃいけないなと。
僕の場合、借金を返すための就活だったんです。
それはいつごろだったんですか?
大学3年生の3月くらい。
メディアにはちょっと興味があったんですが、東京の民放の募集はすでに締め切っていて、唯一残っていたのがNHKでした。
でも、僕はダウンタウンさんの大ファンで、日テレとフジテレビしか見る気がしなくて、NHKはおかあさんといっしょ以来、見たことがなかったんです(笑)
エントリーシートを書かなきゃということで、あわてて番組を見たんですが、それがめちゃくちゃつまらなくて。
どんな番組だったんですか?
プロジェクトXだったと思います。自分の知らない時代の話だから興味が持てなくて、すごい懐古主義的な番組だなと思ったので、エントリーシートにそのことを書いたか、面接で言ったのかな。
面接も番組を見ていないから話すことがなくて、お金を取られた話をしたんです。
面接官もプロデューサーだったりするから、すごく面白がって聞いてくれて。続きは二次面接でみたいな・・・。
そしたら、幸運なことに最終面接の前にお金が全部返ってきたんです。
よかったですね。
ラッキーでした。最終面接で、起業を続けるか、NHKに入るか聞かれて迷ったけれど、NHKに行きますといいましたね。
起業していたときに一番苦労したのって、名刺なんですよ。学生が熱意だけで立ち上げたわけで、全然信用がないからとにかく人に会えなかったんですね。
たしかに学生だと・・・ですね。
でもNHKって赤ちゃんからお年寄りまでたぶん、日本で一番知られている会社のひとつじゃないですか。
誰かに会おうとか、形にしようと思ったときに、この名刺が欲しいなって強く思ったんです。
NHKに入ってからは最初、どんな仕事を始めたんですか?
NHKって最初の1か月、東京で研修をしたらだいたい地方局に行くんです。僕は山形放送局で、いきなり3分くらいのニュース企画の提案を書けって言われて。
書けって言われても、NHKの番組を見たことがないから分からないんですよね。NHKの型って。
最初は編集室にこもって、過去の番組を1本1本全部見ました。
写経のように映像とナレーションを書き起こして、あとは自分が面白いと思ったナレーションの言葉にびっくりマークをつける。そんなことをしていました。
すごく地味な作業から始まったんですね。
会社でも家に帰ってからもひたすらやりまくっていると、NHKの番組ってこういう作りなんだってちょっと型が分かってくると同時に、めちゃくちゃ面白いって気づいたんです。
どんなところがですか?
難しいテーマをこんなに分かりやすく、こんなに深く伝えてくれる。
それも、書き起こしていくと分かるんですけれど、構造がすごいキレイなんです。起承転結とかもそうなんですけれど。
構造がキレイってどういうことですか?
どういうシーンから入って、どういうナレーションで、どう話を展開させると、人が飽きずに難しい話を分かりやすく理解できるかというのを、ものすごく構造的に分解できたんです。
その美しさというか、これはすごいぞと思って、普通に感動しました。
ひたすら映像とナレーションと音楽が続いていくだけなんだけれども、ストーリーテリングの力で引きつけられる番組がいっぱいあったんです。
当時、面白いと思ったのはどんな番組だったんですか?
忘れられないのは「奪還」というNHKスペシャルです。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが、ジョージ・フォアマンという年老いた元世界チャンピオンのボクサーの今を追っていくルポタージュなんです。
言ってしまうと、一人のおじさんがロートルボクサーにただ会いにいく。ただそれだけなんです。
おじさんしか出てこない。派手なシーンもない。でもそれだけで45分間、ものすごく入り込んで見られるんです。
なるほど。
すげえな。なんでおれはこんなに心が動かされるんだろうと思って、最後にエンドロールが流れたので、その人の名前を覚えておこうと思ったんです。
後にプロフェッショナルを立ち上げるプロデューサーだったんですが、それで僕もプロフェッショナルをやりたいと思って。「奪還」が最初にNHKって面白いと思わせてくれた番組だったので。
あと番組を作るときは、その時代の空気や、今なんでこれをやるのだろうと常に考えろと先輩や上司から言われましたね。
当時、印象に残っている仕事ありますか?
山形局時代に、「小さな旅」という番組で、フラワー長井線というローカル鉄道を取り上げたんです。
利用客が少ないローカル線を助けようと、地元の高校生たちが映画を撮ったり、駅舎を作ったりする物語でした。
でも、僕が本当に描きたかったのは、ワンカットしかないんです。
どんなシーンですか?
運転手さんが電車の横についているミラーをずっと見ているんですよ。
高校生が電車に間に合うように走ってくるのを見ていて、姿が見えたら、発車時刻を過ぎても待っている。
それを逃すと次の電車は30分くらい来ないから、電車のほうが待っているんです。2、3分くらいずっと。僕はそのシーンだけ描きたかったんです。
ほっこりしますね。
ちょうどその年、JR福知山線の脱線事故があって100人以上の方が亡くなったんです。
わずかな列車の遅れを取り戻そうとスピードを出したことが事故のきっかけでした。
わずかな時間を我慢できない、せかせかしたこの空気、そのことによって命が失われる。それに対して山形の運転手さんはミラーを見て、2、3分高校生を待っているわけじゃないですか。
旅番組ではあるんですけれども、ただいい風景を見せたり、いい高校生がいると紹介するだけではなくて、僕はある種の問題提起をしたいと思ったんです。
そんな思いが込められていたんですね。
山形の後は、どちらの局に行ったんですか。
東京のクローズアップ現代班です。当時、国谷さんというキャスターだったんですが、仕事をご一緒できたのは本当に幸せでしたね。
アンカーとして、ディレクターが必死で取材してきたものを視聴者につなげて伝えていく姿勢。
優しいんですけれども、すごく厳しい方で。一緒に仕事ができたのはすごい学びでした。
そうだったんですね。
一方、不思議だなという意味で印象に残っているのが、自分が担当した「ワークシェアリング」という回でした。
はい。
当時、派遣切りとかがすごくあって、その後すごい不況になって、工場も通常通り稼働できなくなっていったんです。
現場をいろいろ回って、みんな仕事がなくなって本当に小さなパイを分けあう現状を取り上げて、その解決策としてオランダの同一労働同一賃金みたいなモデルを紹介したんです。
なるほど。
でもワークシェアリングの番組を作りながら、僕は編集室で一人徹夜をしていたんです。
だれともワークをシェアしていないな、めっちゃ徹夜しているなと矛盾を感じたんですね。
たしかに。
自分自身が何もできないのに、何で偉そうにこれは解決策だみたいなことを言えるんだろうという違和感ですね。
すごく不思議でした。どの立場で言ってるんだろうみたいな。
その疑問は解消されたんですか?
解消されなかったですね。番組を作っているうちは。
やっぱり、番組はある種の中立性を求められるのは当然ですし、自分が解決策にコミットしていくというのは、メディアという立場では難しいですよね。
そうなんですか。
課題を広く分かりやすく多くの人に届けるにはメディアはすごく役に立つと思うんですけれど、自分が課題そのものを解決しようと思うとやっぱりコミットしきれなくて・・・。
僕はもどかしい思いをずっと抱えていました。
たまたま入局したNHKで番組作りの世界へのめり込んでいった小国さん。このあと思いもよらない事態に見舞われ、「番組を作らないディレクター」宣言をします。
活躍の舞台をテレビの外へと広げていく時に大切にしたものは・・・、
「小国士朗さん【後編】 肩書きがない名刺で勝負!」はこちらです。
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