娘の乗った旅客機が撃墜されて

    空港からかかってきた電話が、娘と話した最後となりました。
    乗り込んだ旅客機は離陸後、まもなくして墜落。当初は事故とされましたが、その後、自国の軍によって誤って撃ち落とされたことがわかりました。
    大切な家族を失った人たちは何を思うのでしょうか。

    目次

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      フライトナンバー刻まれた墓

      笑顔の女性に、「PS752」と刻まれた墓石。
      ザフラ・マジドさん(54)の2人の子どもが眠る墓です。

      娘の墓

      アルファベットと数字は、
      2020年1月8日、イラン軍によって撃墜された「ウクライナ国際航空752便」のフライトナンバーです。

      1月上旬、イランの首都テヘランにある墓を夫とともに訪れたマジドさんは、墓石に寄りかかったまま涙を流しました。

      マジドさん
      「ここに来てお墓を見るのも辛いです。私の子どもたちがこの世を去り、ここに眠っているという事実を突きつけられるからです。なぜ、私の子どもたち、あんなに若い子どもたちが、犠牲にならなければならなかったのでしょうか」。

      突然の別れ

      マジドさんの娘のザイナブさん(当時21)と、息子のモハンマドさん(当時23)。
      仲の良い兄妹で、お互い刺激し合いながら立派に成長していきました。

      娘のザイナブさん(左)と息子のモハンマドさん(右)

      医療現場で働く両親に導かれるように、医師を志すようになり、2人そろってカナダに留学。勉強に励んでいました。撃墜事件の前、2人は冬休みを利用してイランに一時帰国。家族団らんの幸せな時間を過ごし、8日にテヘラン近郊の空港からウクライナ機に乗りカナダに戻る予定でした。

      この頃、イランは敵対するアメリカとの間で一触即発の状態にありました。1月3日にアメリカ軍がイランの著名な司令官を殺害。これに対してイランは8日未明、中東のアメリカ軍の拠点にミサイルを発射して、報復したのです。戦争が始まるかもしれない、イラン国民の多くがそう感じていました。

      娘のザイナブさん(真ん中)

      マジドさんの娘たちは、ミサイルの発射から数時間後のフライトでイランを離れることになっていました。娘のザイナブさんは離陸直前の空港から、マジドさんに電話しました。

      「お母さん、空港ではみんな携帯電話を見ながらそのニュース(イランによるミサイル攻撃)について話している。本当に緊迫した雰囲気だよ」。

      これが、娘の声を聞いた最後となりました。ほどなくして、マジドさんは空港の近くでウクライナ機が墜落したことを知りました。マジドさんは確認のため、空港の窓口に電話しました。

      「私はウクライナ航空のフライトはきょうは何便飛んでいますかって聞いたんです。そしたら、彼が1本だ、って答えたんです」。(マジドさん)

      車に飛び乗り、夫とともに空港へと向かいました。道中、マジドさんは車内で泣き叫び、全身があざだらけになるほど暴れたと言います。車のドアを開けて自分も死のうとしましたが、夫が必死に抑えました。

      「あの子たちが死ぬなんて、信じられない。信じられない。うそだって叫び続けました。あの瞬間、私の人生も終わったんです」(マジドさん)

      その後マジドさんたち夫妻のもとに戻ってきたのは、ザイナブさんの燃え残ったパスポートと、モハンマドさんの病院のIDカードだけでした。

      終わらない対立 進まない責任追及

      ウクライナ機には、乗客乗員176人が搭乗していました。マジドさんの2人の子どものように、ウクライナ経由で留学先のカナダに戻る予定だった、大勢の若者も乗っていました。その全員が命を落としました。

      2020年1月 墜落現場

      イラン政府は当初、墜落は「技術的なトラブル」によるものだと説明していました。しかし、国際社会から疑念の声が上がる中、墜落から3日後、説明を一転。自国の軍が旅客機を「敵による攻撃」と誤認し、地対空ミサイルで撃ち落としたと認めたのです。国家間の対立は、大きな惨事へと発展しました。

      ロウハニ大統領(当時)

      当時のロウハニ大統領は、遺族に謝罪しました。ただ、「アメリカによる威嚇と攻撃に備え、イラン軍は100%の警戒態勢にあり、これが人為的なエラーにつながり、誤射を起こした」と述べ、緊張を高めたアメリカの責任に触れることも忘れませんでした。

      事件の責任は誰がとるのか。イランの軍事法廷では今も、撃墜事件に関わったとして10人の軍関係者が審理にかけられています。しかし、名前や審理の内容などは公にはなっていません。ウクライナ政府の高官からは「審理は密室で行われている。これが民主的なプロセスなのか」と批判も出ています。

      さらにこの間、撃墜事件の背景となったアメリカとの対立にも終わりは見えません。アメリカは厳しい制裁を続け、これに対抗してイランは核開発を加速。その狭間でイランの市民が厳しい生活を強いられるという構図は変わっていません。

      「アメリカ軍に撃墜されたほうがましだった」遺族の苦しい胸の内

      しかし、公の場で政府に批判的な声が聞かれることはほとんどありません。事件が起きた日に合わせてことし、テヘランでは政府関係者や遺族らが参加する追悼式が開かれました。報道の統制が厳しいイランにあって、政府系メディアは式典の様子を淡々と伝えただけでした。

      政府主催の追悼式には参加しない遺族もいます。
      マジドさんも、その1人です。
      自国の軍による撃墜をどう受け止めているかを聞くと、言葉を選びながら次のように話してくれました。

      「当初発表されたような純粋な墜落事故であれば、ここまで苦しくなかったかもしれません。もっと言えば、アメリカ軍に撃墜されていた方がまだましだったかもしれません。自分たちの軍のミサイルで旅客機が撃ち落とされたことは、悲しみをより深いものにしました」(マジドさん)

      「アメリカ軍に撃墜されたほうがましだった」。怒りさえもぶつける先がない、子どもたちの死に、マジドさんの深い悲しみを感じました。
      今も続く、アメリカとの対立についても、やりきれなさを語ってくれました。

      「争いは市民に犠牲を強いるばかりで何ももたらしません。もし子どもたちが生きていて今の状況をみたら、絶対に怒っていると思います。もっと平和な世界を目指すべきだって。私たちの子どもに起きた出来事を教訓に、この先の未来が少しでも平和になっていくことを願っています」

      そして、まっすぐ私たちの目を見ながら「いま望んでいることは公正な裁きです」と話しました。

      子どもたちが生きた証を

      いまマジドさんたちは、亡くなった子どもたちのためにできることはないか、模索を続けています。

      首都テヘラン南部の貧しい地域で建設が進む小学校。校名は「ザイナブ」です。夫婦が私財を投じ、学校建設のための多額の寄付をしたことで、娘の名前がつけられることになったのです。

      亡くなったザイナブさんは将来、「国境なき医師団」に参加し、紛争や貧困などに苦しむ人たちに医療を届けることを夢見ていました。娘の夢を、次世代の子どもたちに託したいと考えたのです。

      校舎は完成し、近くで暮らすおよそ200人の女子児童が通う予定です。校舎を見学しながら、マジドさんは「いまザイナブが私のそばで応援してくれているように感じる」とつぶやきました。誰かの役に立ちたいという娘の夢のバトンを子どもたちにつなぐことで、マジドさんはいま少しずつ前を向こうとしています。

      「私の今の夢はこの学校から世界の役に立つような人が育っていくことです。もし争いのために使われるエネルギーを誰かを助けるために使うことができるのならば、私たちはもっと進歩できるはずです」。

      争いのない世界を願うマジドさん。
      悲しみを抱えながら、未来を担う世代を見守っていく覚悟です。

      (テヘラン支局 戸川武)