「トランプ和平案」が突きつけた中東の新たな現実
アメリカのトランプ大統領がイスラエルとパレスチナの和平案を発表しました。その内容はこれまでアメリカや国際社会が前提としてきた考え方とはかけ離れたものです。「こんなもの実現しない」「ただの選挙対策に過ぎない」——そう切り捨てる前に、この記事では「トランプ和平案」を裏付ける中東の現実と、今後どうなるのかを考えてみたいと思います。
目次
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沸き起こる拍手と歓声
「パレスチナ国家が樹立してもイスラエルの安全保障に脅威を与えない、現実的な2国家解決だ」
1月28日、トランプ大統領はホワイトハウスで自らの中東和平案を発表しました。同席したのは、イスラエルのネタニヤフ首相のみ。1993年、当時のクリントン大統領がイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間に立ち、歴史的な「オスロ合意」(パレスチナ暫定自治合意)を調印し、双方に握手を促した情景とは全く異なります。
会見でトランプ大統領は和平案がイスラエルの利益になると繰り返しアピールし、そのたびに記者会見に同席した政権関係者から大きな歓声や拍手が沸き起こりました。
なぜ今、この和平案が発表されたのか。トランプ大統領がことし秋に大統領選を控えていること、そしてネタニヤフ首相が3月に総選挙を控えながら、この日、自らの汚職事件で起訴されたことと無関係ではないでしょう。
しかし、和平案は2人の選挙のために急ごしらえで作られたわけではありません。トランプ大統領は就任直後からイスラエルとパレスチナの和平に意欲を示し、娘婿のクシュナー上級顧問を担当に指名。発表まで実に3年をかけた、練りに練られた案なのです。
パレスチナに迫る“妥協”
和平案の内容を見ていきましょう。発表された資料は180ページに及びますが、パレスチナにとってプラスの要素が2つあります。500億ドル(およそ5兆円)に上る経済支援が手に入ること。そして悲願のパレスチナ国家の樹立が承認されることです。
しかし、その条件として、パレスチナに様々な「妥協」を迫っています。以下は、その主な内容です。
○エルサレムはイスラエルの首都とする。パレスチナ側は分離壁の外側にあるエルサレム周辺地区を首都にしてもよい。
○ヨルダン川西岸にイスラエルが建設した130か所以上の入植地については、そのほとんどについてイスラエルの領土とすることを認める。
○中東戦争で故郷を追われたパレスチナ難民について、現在、イスラエル領となった故郷に帰還する権利を認めない。
○パレスチナは軍事力の保有は許されず、イスラム原理主義組織ハマスは武装解除する。また他国と同盟を結んではならない。
“イスラエルに妥協する理由はない”
それに対して、和平案がイスラエルに求めている譲歩はごくわずかです。
○イスラエルは交渉開始後4年間は入植活動は行わない。
○入植地などをイスラエルの領土とする代わりに、イスラエルの領土を一部、パレスチナに与える。
○イスラエルはパレスチナ国家を承認する。
双方に求めている妥協や譲歩を見比べれば、和平案はイスラエルの言い分をほぼ丸飲みし、パレスチナの主張を退けた内容だと言えます。トランプ政権が作成した将来の地図には、国土が虫食い状態になり、飛び地だらけのパレスチナ国家の将来図が描かれていました。
しかし、クシュナー上級顧問はアメリカの政治学者、イアン・ブレマー氏のインタビューに対して次のように反論しました。「和平案はイスラエルにとって大きな妥協だ。なぜならイスラエルにとって妥協をするこれと言った理由がないからだ。イスラエルがすでに強い国で、さらにその力を増す中で、我々が彼らに妥協を迫ったのだ」。
この案を、パレスチナ側が拒絶するのは自明のことでした。パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長は、和平を金で買おうとするたくらみだと非難し、「この和平案は必ず失敗する」と語気を荒げました。長年、聖地を抱えるエルサレムやパレスチナ難民の帰還権は、パレスチナにとって譲れない一線だと主張してきたからです。
それでもトランプ大統領は強気です。「パレスチナ人は最終的にこの案を気に入るだろう」としつつ、「もしそうでなければ、ライフ・ゴーズ・オン(人生は続く)だ」とパレスチナ側が拒絶しても、アメリカは一向に構わないという姿勢です。
トランプ和平案を支える地政学の変化
トランプ大統領やクシュナー上級顧問の発言からは、パレスチナへのあからさまな「上から目線」の態度が見て取れます。
2007年に行われた和平交渉では、当時のイスラエルの政権がパレスチナに対してエルサレムの聖地の一部を割譲し、占領地のほとんどを返還して、占領を終わらせることを提示していたとされます。
わずか10年あまりで、なぜこれほどまでに一方的な案がアメリカから示されるようになったのでしょうか。「トランプ大統領がイスラエル寄りだから」とか「娘がユダヤ教徒だから」だけでは説明がつきません。
現に、アメリカがイスラエル寄りなのは今に始まったことではなく、パレスチナ側も織り込み済みでした。目を向けるべきなのは、この10年あまりの間に中東で起きた地政学の変化です。
これまでの中東和平交渉は、(イスラエル+アメリカ)VS(パレスチナ+アラブ諸国)というパワーバランスがとれていたことが大前提でした。しかし、2011年に始まった「アラブの春」をきっかけに、このバランスが大きく崩れたのです。
長引く混乱でアラブ諸国が弱体化し、その隙を埋めるように地域大国イランが影響力を拡大しました。その結果、とりわけ湾岸アラブ諸国はアメリカの軍事力への依存を強めるようになりました。シリアやイエメンの内戦、過激派組織ISへの対処が迫られる中、パレスチナ問題は昔のように中東で最優先の課題ではなくなりました。
さらに、アメリカ自身がシェール革命によって世界一の石油生産国に台頭したことも見逃せません。アメリカが湾岸アラブ諸国の顔色をうかがう必要がなくなったのです。
アラブ諸国の変節
中東和平のパワーバランスが(イスラエル+アメリカ+アラブ諸国)VS(パレスチナ)へとシフトしていることは、トランプ大統領による発表からも明らかでした。発表会場にはUAE=アラブ首長国連邦、オマーン、バーレーンの駐米大使が出席しました。
サウジアラビアやエジプトも相次いで肯定的な声明を発表しました。和平案の内容の直接的な評価は避けているものの、アメリカの仲介姿勢を評価し、パレスチナに検討を促すものでした。占領地からの全面撤退を要求してきた以前のアラブ諸国であれば、即座に反発していたはず。ところが、アメリカによって外堀は埋められていたのです。
2月1日、アラブ連盟は緊急外相会議を開いて和平案を批判して見せたものの、具体的なパレスチナ支援は打ち出しませんでした。この場でのアッバス議長の発言からは悲痛な思いが伝わってきます。
「アメリカに反対してくれとまでは頼まないが、せめてパレスチナの言い分を支持すると言って欲しい」
秋にトランプ大統領が再選されれば、アラブ諸国はパレスチナに和平案を受け入れるよう、圧力をかけてくる展開も予想されます。
抜けない「伝家の宝刀」
和平案の翌日からパレスチナではデモが始まりました。映像からは激しいデモのように見えますが、規模は限定的です。例えば、主要都市ベツレヘムで抗議デモに参加したのは200人でした。同じ場所では2年前のアメリカ大使館のエルサレム移転を受けた抗議デモの初日、2000人が参加していたので、単純計算で10分の1に減っているのです。
追い詰められたパレスチナに残された切り札は、イスラエルとの治安協力の解消と、パレスチナ暫定自治政府の解体です。イスラエルと連携している過激派対策をやめて、あらゆる行政サービスも投げ出してしまえば、困るのは完全な占領者となるイスラエルだろうという「苦肉の策」です。
ただアッバス議長はこの2年間、この「伝家の宝刀」をちらつかせるだけで抜くことはありませんでした。アッバス議長の権力基盤が崩れる「諸刃の剣」だからです。アッバス議長は「治安協力を含めあらゆる関係を絶つことになるだろう」と警告していますが、具体的な期限を示せないでいます。
中東和平交渉のパワーバランスが失われた以上、時間をかけた粘り強い交渉術はかえってマイナスになりかねません。和平案の発表を「ゴーサイン」と捉えたイスラエルは、早くも占領地の併合に取りかかろうとしているのです。
パレスチナがこのまま和平案を拒否し続ければ、その間に、より多くを失うことになります。トランプ和平案は、パレスチナに酷な心理戦を仕掛けているかのようです。
国際社会には何もできないのか
パレスチナは追い詰められていくしかないのでしょうか。過去の悲惨な大戦を踏まえて、国際社会が築き上げてきた国際法の理念はどこへ行ってしまったのかという思いは禁じえません。
国連のグテーレス事務総長は「国連決議や国際法にのっとった和平の仲介を続ける」という声明を発表し、和平案に否定的な姿勢を示しました。しかし、ヨーロッパの主要国や日本政府からの反応はあくまで「様子見」の範囲にとどまっています。
パレスチナは、秋の選挙でアメリカの政権が変わることに望みを託すしかない、他力本願の状況です。ただ、大統領選挙の結果にかかわらず、イスラエルーアメリカーアラブ諸国の相互依存関係が強まる流れは、これからも続きます。取り残されたパレスチナは時代の逆風に向き合わなければなりません
確かに、従来の和平の枠組みは結果として何一つ解決につながりませんでした。しかしその責任をパレスチナだけに負わせるような不作為は大きな汚点になると言わざるを得ません。(エルサレム支局長 澤畑剛)