ナイルの水は誰のもの

    「エジプトはナイルのたまもの」。
    古代文明が繁栄したエジプトに肥沃な土地をもたらしたナイル川をたたえる、歴史家ヘロドトスの言葉です。エジプトの人々の暮らしを、数千年にわたって支え続けてきました。しかし、その上流に位置するエチオピアで、巨大なダムの建設が進められ、国の生命線が脅かされる事態に陥っています。水をめぐる国家間の対立は、どこに流れ着くのでしょうか。

    目次

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      総貯水量は琵琶湖の2.7倍 ナイル川上流の巨大ダム

      ナイル川は、アフリカ北東部を流れ、地中海に注ぐ、世界最長の国際河川です。支流の青ナイル川と白ナイル川はスーダンで合流し、エジプトを縦断します。その総距離はおよそ6700キロに及び、流域の国々にとって、欠かせない水資源となっています。

      エジプトに流れる水量に大きな変化をもたらしかねない巨大ダムの建設は、エチオピア東部、スーダンとの国境近くの、青ナイル川で進められています。2011年から、エチオピアの国家プロジェクトとして建設が始まった「大エチオピア・ルネサンスダム」。アフリカ最大級の水力発電用ダムです。

      その総貯水量は740億立方メートル。琵琶湖の2.7倍にのぼります。去年、初めてとなる貯水が行われ、再来年にも本格的な発電が始まる予定です。

      上流と下流の国 先鋭化する対立

      ナイル川に水資源のおよそ95パーセントを依存するエジプトは、当初からこのプロジェクトに強い懸念を示し、同じくダムの下流に位置するスーダンとともに、エチオピアと交渉を続けてきました。

      2015年には、エジプトとスーダンがダムの建設を認めるかわりに、エチオピアは下流への影響を考慮する、とした原則を確認しました。しかし、貯水方法などについての具体的な合意には至っていません。
      エジプトは、法的拘束力のある合意で年間の放水量などを取り決めようとしているのに対し、エチオピアは「ダム建設は自国の権利」だとして、制約に縛られたくないとの立場を崩していません。

      エチオピアが2回目の貯水を行うとした夏の雨期が近づくなか、エジプトのシシ大統領はことし3月、次のように述べて、強くけん制しました。
      「エジプトの水を侵害することはレッドラインだ。だれも水1滴、奪うことはできない。 そんなことをしたら想像できない状況になるだろう」
      発言は、エチオピアへの軍事行動を示唆したと受け止められ、大きな波紋を呼びました。

      エジプトとスーダン 共同軍事演習

      そして5月には、エジプトとスーダンが大規模な共同軍事演習を実施したのです。演習の名前は「ナイル川の守護者」。エチオピアを意識したものであったことは明白です。
      しかし、それでもエチオピアは7月に、2回目の貯水を開始したのです。2つの地域大国の間で繰り広げられる、水をめぐる対立は、緊張の度合いを増しています。

      エジプト 人口爆発ですでに水不足の状態に

      実はエジプトでは、ダムの建設が進められる前から、水の確保が大きな課題となっています。それは、人口爆発による水需要の増加です。

      首都カイロ

      エジプトの人口は去年1億人を突破。2030年には1億2000万人に達し、日本の人口を上回ると予想されています。人口1人あたりの水の消費量は、国連が定める「水不足」の水準となっていて「絶対的な水不足」のラインに近づきつつあります。

      水不足によって、とりわけ影響を受けるのは、ナイル川の水を大量に使う農家の人たちです。農業用水は、国全体の水需要の75%を占めています。エジプト政府は、ナイル川の流量が2パーセント減るだけで、農家100万人が収入を失うとしていて、農村地帯では危機感が広がっています。
      中部のベニスエフ県でプラムや豆を栽培している農家では、節水のため3年前から「点滴灌漑」という手法を取り入れ、農業用水の有効利用を進めています。

      用水路からくみ上げた水をホースに流し、小さく開けた穴から水がしたたり落ちるようにするものです。政府の節水対策を、いち早く取り入れました。用水路の水を直接畑にまいていた以前と比べて、水は75%ほど節約できるようになりました。
      ただこうした努力も、エチオピアのダムで大規模な貯水が進めば、影響は避けられないのではないか。農家の人たちは、懸念を深めています。

      中部ベニスエフの農家

      「ダム建設は危機といえるので、国同士で解決策を見いだしてほしい。ナイルの水は、数千年前から続くエジプトの人々の命そのものなんです」。

      エチオピア ダム開発で電力不足の解消を

      エチオピア側も、簡単には妥協できない事情を抱えています。

      エチオピア首都アディスアベベ

      エチオピアでは毎年のように9パーセントを超える急速な経済成長が続いた一方、国民の半数以上に十分な電気が行き届いておらず、深刻な電力不足が課題となってきました。このため、ダムによる大規模な水力発電は、国の悲願ともなっているのです。

      エチオピアのアビー首相にとっても、プロジェクトの推進は重要な政治課題です。アビー首相はおととしノーベル平和賞を受賞しましたが、北部の州をめぐる国内の紛争で、最近は批判も浴びています。そうした中にあって、国をまとめる一大プロジェクトで、安易な譲歩はできないのです。
      2回目の貯水を始めたことについて、アビー首相は「エジプトやスーダンの国民に大きな影響を与えることはないので安心してほしい。ダムは相互の繁栄をもたらすものだ」とする声明を発表しました。流域国との摩擦を避けたい思惑を示しつつも、雨期の時期に合わせた貯水はこれからも続ける構えです。

      限られた時間 国際社会の仲介は

      交渉が行き詰まる中、国際社会も度々、仲介に乗り出してきました。

      アメリカも仲介を行ってきましたが、去年、交渉は頓挫。トランプ前大統領は「エジプトは追い詰められればダムを爆破するだろう」と述べ、仲介の難しさを吐露しました。

      現在、この問題は国連にも持ち込まれています。
      7月8日に行われた国連安全保障理事会の会合では、エジプトやスーダンは「ダムの貯水は一方的な行動だ」とエチオピアを非難し、安保理の決議を求めました。これに対してエチオピアは安保理で扱うのではなく、地域の問題としてAU=アフリカ連合の仲介のもと解決すべきだと主張し、議論は平行線をたどりました。

      専門家は、エチオピアがエジプトなどの反対を押し切って2回目の貯水を始めたことで、対立は決定的になると指摘しています。

      アハラムセンター専門家 ハニ・ラスラン氏

      「エチオピアがナイル川の支配へ一歩踏み出すことになり、エジプトとスーダンにとって将来的に大きな禍根となります。時間は限られており、政治的な解決ができるのか、軍事的な危機が訪れるのか、瀬戸際といえます」。

      国際河川の開発や管理 国際的なルールは?

      国際河川における水争いはナイル川に限らず、世界のほかの地域でも起きてきました。人口の増加や気候変動が課題となる中、今後も、国家間の対立を生み出すことが懸念されます。

      2014年には、国際河川の開発や管理に関するルールを示した、国際条約が発効しました。この中では、河川の利用は流域国の利益を考慮し、合理的で持続可能なものでなければならないとした義務が盛り込まれました。
      しかし、エジプトとエチオピアは条約に参加していません。世界を見渡しても、水資源をめぐる争いの多くは、関係国同士の話し合いで妥協点を見いだしていくしかないのが現実です。

      エジプトとエチオピアが話し合いによる解決で地域協力の先例を示し、流域の国々すべてが「ナイルのたまもの」を享受する日は訪れるのでしょうか。

      (カイロ支局 藤吉智紀)