モスルは今もがれきの町だった ISが残した深い傷痕

    世界各地にテロという恐怖をまき散らした過激派組織IS=イスラミックステート。各国の軍事作戦で弱体化し、最近はニュースで取り上げられることも少なくなりました。ISが支配した地はいまどうなっているのか。激しい市街戦の末、去年7月に解放されたイラク北部の都市モスルに取材に入りました。※取材はことし5月時点

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      クルド人自治区からモスルへ

      5月上旬の朝、私たち取材班は、イラク北部のクルド人自治区の主要都市アルビルを出発しました。モスルまでおよそ80キロ、車で1時間半ほどです。

      アルビルの町並み

      クルド人自治区を抜けると、イラク軍管轄の検問所が設けられていました。ただ、検問所は1つではありません。イラク軍だけでなく、IS対策のため、イラク軍とは別に組織されたシーア派主体の部隊「人民動員隊」も検問所を設け、テロリストが行き来しないか、厳重に警戒しています。

      かつて多くの住民がISから逃れるために通った幹線道路は、今、車が多く行き交っています。物資を満載したトラックも多く、戦闘が行われた頃からは物流が回復していることがうかがえました。

      チグリス川の対岸に見えた街並み

      モスルの町はチグリス川が南北を貫き、川を挟んで東西に分かれています。メソポタミア文明を育んだ、チグリス・ユーフラテスのチグリスです。私たちは東から町に入りました。

      まず目についたのは、街のあちこちに貼られた選挙ポスターでした。取材に入った時は国民議会選挙の直前で、戦闘から1年もたっていないこの街でも選挙運動は活発に行われていました。

      道路脇には選挙の看板

      交通量も多く、道沿いの商店も営業しています。破壊された建物もいくつかは見られましたが、街は日常を取り戻していました。モスル東部は比較的早くISとの戦闘が終わった地域。ISの戦闘員が西部に戦線を移したため、多くの建物が損害を免れたのです。

      そのままチグリス川に沿って走り、3月に復旧したばかりの「オールド・ブリッジ」を目指しました。市内にかかる5つの橋は、一時はすべて破壊されましたが、応急処置も含め、すべて通れるようになったということでした。

      チグリス川をわたる

      橋を渡りながら次第に近づいてくる西部の街の風景。私は言葉をなくしました。建物が軒並み崩れ、ほとんど廃きょとなっていたのです。ISが最後までたてこもり、抵抗を続けた旧市街の今の様子でした。

      そこにはIS戦闘員の遺体が

      古代から人が暮らし、遺跡も多く残るモスル。中心部にある旧市街は建物が密集し、迷路のように路地が入り組んでいます。かつては多くの商店が軒を連ね、活気に満ちていました。

      ISは、その旧市街の特徴を利用してたてこもりました。住民を「人間の盾」として、イラク軍などによる攻撃を困難にしたうえで、地上からは見えにくい建物の上から狙撃したり、狭い路地で自爆攻撃をしかけたりしました。イラク軍は、米主導の有志連合による空爆支援を受けながらも、難しい戦いを強いられました。

      廃虚と化した旧市街の惨状は戦闘の激しさを雄弁に物語ります。原形をとどめないがれきの山、大部分が破壊され室内がむき出しになった建物、焼け焦げた壁、激しく銃弾を浴び、穴だらけになった自動車の残骸。路上に刺さるように食い込んだままの迫撃砲弾。一部で復旧作業は始まっていましたが、破壊された建物があまりにも多く、復興までには途方もない時間がかかりそうに見えます。

      イラク政府はモスルを含め、ISとの戦いで荒廃した地域の復興には10兆円近い資金が必要だと試算しています。戦闘終結から10か月がたち、主要な道路ではがれきは撤去されていたものの、一歩、路地に入るとがれきに遮られ先に行けない場所も少なくありません。

      イラク軍の兵士からは不発弾が埋まっているおそれがあるため近づかないよう注意を受けました。

      ほとんど人けがない地区で取材をしていると数人の住民が近づいてきました。ちょっと来いといいます。薄暗い建物の奥を指さしました。中に入るのは避けましたが、よくよく目をこらして見てみると体の一部が見えました。住民はISの戦闘員の遺体だと教えてくれました。遺体を搬出する作業は進められていますが、10か月たっても、まだ遺体が残っているのです。

      ミナレットは私の誇りだった

      この旧市街で、訪れたい場所がありました。中心部にあるヌーリ・モスクです。ここは、ISの指導者、バグダディ容疑者が、2014年、イスラム国家の建国と最高指導者「カリフ」就任を宣言した場所です。

      頭に黒いターバンを巻き、ローブを身にまとったバグダディ容疑者の姿はインターネットで拡散し、世界中から戦闘員を引き寄せました。ISが世界各地にまき散らした悲劇の始まりの場所です。

      ヌーリ・モスクのミナレット

      今、このモスクは大きく破壊され、かろうじて残ったドーム型の屋根がモスクだったことを伝えています。12世紀に建設されたこのモスクには、高さ45メートルの塔、ミナレットがありました。ピサの斜塔のように傾いたその姿は、中世の時代にすでに街のシンボルとなり、旅人たちをひきつけたといいます。この貴重な塔も無残に崩れ落ち、残るのは根元だけ。追い詰められたISが爆破したためです。

      取材をしていると、地元の男性が古い白黒写真を見せてくれました。写っているのは傾いたミナレットです。「このミナレットは私の誇りだった」と話し始めました。

      「ミナレットは私の誇りだった」

      「ISはイスラムを掲げて乗り込んできた。バグダディがカリフだって?こんなことはこれまでの歴史上なかった」。地域の人たちが長年大事にしてきたミナレットを、わずか3年の支配の末に破壊したISへの憤りは、収まらない様子でした。

      私が我慢します

      モスルの旧市街に大半の住民が戻れていないのは、生活に必要なインフラが壊されたからです。電気も水道も復旧していません。主要な道路には大きな給水タンクが設置され、住民はそこで生活用水をくんで運んでいきます。

      ヌーリ・モスクの前にも、NGOが運営するパンの配給所があります。ここでパンを受け取った女性に話を聞きました。

      配給所で出会った女性

      夫はISに殺され、今は2人の子どもを1人で育てています。避難民キャンプで暮らしていましたがテントでの生活に疲れ切り、キャンプほど支援が行き届いていないことはわかったうえで、自宅に戻ってきたといいます。

      「支援なしでは食べ物も飲み物もなにもありません。子どもがおなかをすかせれば、私が我慢します」と、硬い表情で話しました。

      子どもたちは屈託のない様子

      モスルの宗派対立につけ込んだIS

      イスラム教の極端な解釈に基づく残酷な統治を行ったIS。なぜ大都市モスルを3年余りも統治できたのでしょうか。

      その背景には、根深い宗派間の対立があります。イスラム教には、大きく分けてスンニ派とシーア派という2つの宗派があり、イラクはシーア派のアラブ人がおよそ6割、スンニ派のアラブ人がおよそ2割です。

      長年にわたって君臨したスンニ派のフセイン政権が、2003年に崩壊してからは、シーア派主導で政治が行われました。スンニ派の住民は、政府にないがしろにされていると感じるようになり、不満が募っていきました。

      モスルでは、実はスンニ派が多数派です。シーア派が主導する政府や軍、治安当局に対する反発は、他の地域に比べて格段に強まっていました。同じスンニ派であるISはそこにつけ込んだのです。

      イラク軍の兵士たち

      私は以前、奪還作戦で拘束されたモスル出身のISの戦闘員を取材したことがあります。この戦闘員はISに加わった理由について「シーア派主体の軍のふるまいが許せなかった。彼らはスンニ派というだけでテロリスト扱いをし、監獄にぶち込んだ」と話しました。

      ISが電撃的にモスルを制圧したとき、その実態を知らないままに歓迎した住民もいたといいます。この戦闘員もシーア派への不満がISに加わった理由だったと強調しました。

      すべてをつぎ込んだ家だったのに

      モスル旧市街で生活の基盤をすべて失ったという男性に会いました。ラギード・アリさん(33)です。がれきの山となった自宅跡に案内してくれました。

      ラギード・アリさん

      「すべてをつぎ込んだ家だったのに…」。

      ドアのとってやタンスの一部だったという板を手にしてじっと見つめるラギードさんの姿は、やりきれなさに満ちていました。ISは、ラギードさんが購入したばかりの家を奪い取り、自分たちの拠点としました。そのために、アメリカ主導の有志連合の空爆のターゲットとなったのです。

      ラギードさんの家の前の壁には、「ここはISの墓場」という文字が残されていました。イラク軍が書いたものです。確かにそうなのでしょうが、生活の基盤を失ったラギードさんには、厳しいことばだと感じました。

      「ここはISの墓場」

      街はISからは解放されましたが、ラギードさんは「もう自力で家を持つことは不可能だろう」と将来に望みを見いだせない様子でした。ラギードさんは今、兄弟の家族とともに街の東部にある住宅に間借りしています。長男は、戦闘の巻き添えとなって大けがをし、多くの親戚や友人も失いました。

      今は、仕事もありません。携帯電話の販売店を経営していましたが、ISの支配下で携帯電話の使用が禁じられたため、商売が成り立たなくなりました。店が入っていた旧市街のビルはガラスが散乱し、店はどこもシャッターを閉じたままです。大勢の買い物客で賑わっていた当時の様子は想像できません。旧市街には住民がほとんど戻ってきていないため、商売再開の見通しも全くたたない状況です。知り合いに借金をして何とか食いつないでいるといいます。

      ISとは何だったのでしょう。ラギードさんに問いかけました。「宗派間対立によって生じた隙間から現れたものだ。公平で宗派に偏らない政府ができれば、ISが再び現れるようなことはない」とラギードさんは答えます。

      ラギード・アリさん

      宗派に偏った政治、それがもたらしたISの台頭。時代の荒波の直撃を受け、多くのものを失ったラギードさんの言葉は、とても重く響きました。

      取材を終えて

      モスルを取材して、その破壊のすさまじさから、復興の長い道のりを感じずにはいられません。

      イラクには石油など豊富な天然資源があります。そこから得られる利益を公平に分配して国内の融和を実現し、将来のために投資していけば、豊かな国になれるはずです。

      2003年に始まったイラク戦争から続く混乱は、もう15年も続いています。宗派間や民族間の対立がどれだけの悲劇を生んできたか。ポストISのイラクが、今度こそ、その教訓を生かせる国になるよう願ってやみません。(カイロ支局 渡辺常唱支局長)

      破壊されたヌーリ・モスク

      モスル奪還作戦とは

      2014年6月にISがモスルを制圧し、イスラム国家樹立を宣言。
      2016年10月にイラク軍が、クルド人部隊、シーア派主体部隊、米主導の有志連合などと奪還作戦を開始した。2017年1月、イラク軍はモスルの東半分制圧。2月には西半分の奪還作戦を開始。6月にイラク軍はISがたてこもる旧市街に進軍、ISはヌーリ・モスクを爆破した。イラク政府は2017年7月、モスル解放を宣言。

      奪還作戦期間中の市民の犠牲者数は死者が少なくとも2521人、けが人が1673人(国連報告書)。AP通信は死者が9000人~11000人に上ったとしている。