“敵国ルーツ”と向き合って
「両親の母国を訪れることがかなわない」。そんな悩みを抱えたひとりの歌手がイスラエルにいます。
彼女の両親の出身国は、イスラエルが長年にわたって対立するイラン。敵国にルーツを持ち、葛藤を抱えながら、それを強みに変えて活動を続けるひとりの女性を取材しました。
(エルサレム支局・曽我太一)
目次
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イスラエルが舞台 ペルシャ語の歌にイラン潜入のスパイ役も
イランにルーツを持つイスラエル人歌手、リラズ・チャルヒさん。
商業都市テルアビブの一角にある作業部屋を尋ねると、チャルヒさんは満面の笑みで出迎えてくれました。部屋の片隅には、いま熱心に練習を重ねているという弦楽器「バグラマ」が。イランの伝統音楽で使われる楽器の一つです。
自らのルーツを前面に出して活動するリラズさん。ペルシャ語でのデビュー曲では、仲たがいしてしまった恋人への想いを歌いました。訪れたことがない両親の故郷、イランへの思いが感じ取れます。
「私の美しきいとおしい人/もう私なんかいらないのね。それは分かっている/私は過ぎ去ったことを思って歌っているの」(リラズさんの歌:Nozi Noziの一節から)
リラズさんは、俳優としても活躍しています。イスラエルで人気のスパイドラマ「テヘラン」では、イランに潜入するスパイの指揮官役として出演。流ちょうなペルシャ語で、実話のようなドラマを一層引き立て、外国メディアからも注目されました。
「自分はイスラエル人か、それともイラン人?」
いまでこそ、イランのルーツを前面に出して活動するチャルヒさんですが、子どもの頃は自らが何者であるのか、思い悩む日々でした。
リラズさんの父親と母親は、イランで生まれ育ちました。宗教はユダヤ教で、いわゆるユダヤ系イラン人でした。それぞれ、1960年代と70年代にイランからイスラエルに移り住み、結婚しました。1948年のイスラエル建国以降、世界中から移り住んだユダヤ系家族の一つでした。
当時、イスラエルとイランは良好な関係にありました。イランでは、親米の国王が国政を担っていたのです。テルアビブとイランの首都テヘランとの間では直行便が運行され、人々は自由に交流していました。
しかし、1979年にイランでイスラム革命が起き、王政が打倒されると状況は一変します。イランは、中東の反米国家に転じ、イスラエルに対しても「同じイスラム教徒のパレスチナ人から土地を奪った」として、敵視するようになったのです。
このため、イスラエル社会で生きるリラズさんにとってイラン系のルーツは、重荷でしかありませんでした。
「家ではペルシャ語を話してイラン人として暮らしているのに、外ではヘブライ語を話してイスラエル人のように振る舞っている。『自分はイラン人なのか、それともイスラエル人なのか』、ずっと自問していました。」
イランのルーツを知られると冷たくされるのではないかと思い、常に周りの視線を気にする日々だったと言います。
「イランにルーツを持つことが消し去りたいぐらい恥ずかしくて、両親が人前でペルシャ語を話すとすぐにやめさせていたくらいです」
移民国家で発見した“イラン”
重荷でしかなかった自らのルーツ。転機となったのは20代の頃、移民国家のアメリカで暮らす機会を得たことでした。映画の本場で俳優を目指し、新天地として選んだのは、ハリウッドがあるロサンゼルス。そこは、イランからの移民が多く暮らすことから“テヘランゼルス”の愛称でも知られる街でした。
イラン出身者が集まるコミュニティに足を踏み入れると、両親から聞かされてきた景色が広がっていました。郷土料理のケバブや、現地の音楽に触れることもできました。イランは当時すでに、アメリカにとっても国交のない、敵国。それでも、イランのルーツに誇りを持ち、堂々と祖国の生活様式を体現する人々の姿がありました。そうした人たちに触れ、リラズさんの気持ちも変化していきました。
「イランの料理を食べたり映画を見たり、母親からずっと聞かされていたイラン風のジャムを見つけたりし、自らのルーツがわかってきたんです。『行くことが許されないけど、ずっと行きたいと思っていた場所なんだ』と。自分の心にぽっかりと空いていた心の穴を埋められた気がしたんです。」
自分にしかできないことをしたい。そのままハリウッドで俳優を目指すことも考えましたが、生まれ育ったイスラエルで、自らのルーツをいかした活動をすると決意しました。
「アメリカでも俳優業が順調だったので、ペルシャ語で歌うためだけに、すべてを投げ捨てるのか悩みました。それでも、自分にはそれをやりとげる才能と勇気があると、初めて自分に自信を持つことができたんです。」
ペルシャ語の歌を披露 予想外の反響が
イスラエルへの帰国後、リラズさんが取り組んだのは、ペルシャ語の歌を披露することでした。仲間からは反対されましたが、実際に計画すると予想外の反響がありました。
「誰もペルシャ語のライブなんて見に来ないと思っていました。観客が20人でも50人でも、決めたことをやるんだと覚悟していました。実際には、歌の意味もわからないはずなのに、大勢の観客が来てくれて、本当に大きなフェスティバルのようになったんです。」
敵対する国の言葉や音楽がなぜ、反響を得たのか。
リラズさんは、重荷だった自らのルーツをさらけ出したことが、人々に受け入れられたと感じています。
「アーティストが気持ちを込めて、自分のルーツにまつわるストーリーを語っているとしたら、誰も批判なんてできないんだと思います。だってそれは、つくり上げた話ではないからです。それは本当の人生であり真実なんです。」
ルーツに向き合って イランとの共同制作も
リラズさんは、ことしから新たな挑戦を始めています。イランのミュージシャンと一緒に、共同で楽曲を制作することです。
イラン側とのやりとりは、暗号化が可能なメッセージアプリを使って行われました。イスラエルで活動するリラズさんとのやりとりが露見すれば、イランのミュージシャンたちの身が危うくなるためです。
イスラエルとイラン、それぞれで収録した歌声や演奏を組み合わせるなどし、先月アルバムをリリースしました。音楽配信サービスで世界中に公開され、イランを含めた世界でファンを広げています。
1時間に及ぶインタビューの最後、私はこう質問しました。
「イスラエルとイランという敵対する国にルーツを持つあなただからこそ、訴えられることはなんですか。」
すると「その質問、大好きだわ」と前置きしながら、こう答えてくれました。
「一番大切なのは、自分のルーツを無視しないことだと思います。それがあるから私たちは存在するのであって、そのルーツこそが、自分を自分らしくするのです。近い将来、私もイランの仲間も互いに行き来できるようになればと思います。」
普段伝える両国のニュースは、首脳間の激しいやりとりや軍事的な緊張を伝える、物騒なものばかりです。しかしリラズさんへの取材からは、国家間の敵対関係に翻弄されながらも、それを乗り越えようとする人の姿が見えてきました。リラズさんが近い将来、イランで歌声を披露する日は来るのでしょうか。