感染急拡大 イランから退避した記者が見たもの

    東京でいわゆる隔離生活をしている。検疫所から求められた経過観察だ。

    私は今月、イランから家族とともに待避した。ほっとしたような気持ちと、イランの人たちがこれだけ大変な状況なのに自分だけ離れて良いのだろうかという思いと、両方ある。

    イランでは新型コロナウイルスの感染が公式に確認されると、その数は急速に膨れあがり、とりわけ死者の多さが注目された。そのときイランはどうなっていたのか、見聞きした範囲で書き記しておこうと思う。

    目次

    ※クリックすると各見出しに移動します

      議会選挙2日前のツイート

      私がテヘラン支局に赴任したのは去年の8月。すぐに核開発をめぐるアメリカとの対立や、イラクやシリアと言った周辺国との関係取材に追われることになった。

      ことしに入っても、1月はソレイマニ司令官の暗殺、アメリカと一触即発の軍事危機、2月は4年に1度の議会選挙。忙しい日々が途切れることはなかった。

      選挙が終わればひと息つけるかも。そんなことを考えていた2月19日、イラン保健省の報道官がツイッターに投稿した。

      「初期検査の結果、新型コロナウイルスの陽性反応が2例、確認された。」 2人の死亡が確認されたとするツイートはその10時間後だった。

      ああ、イランにも来たのか。選挙2日前のことだった。

      会見した保健省次官が感染

      当時、すでに中国やクルーズ船の状況は連日大きく伝えられていた。でもイランでは対岸の火事、いや、それより遠くで起きている事という認識に過ぎなかった。

      初めて危機感を持ったのは、2月25日のことだ。普段もの静かなイラン人の男性スタッフが支局で突然、声をあげた。

      「きのう記者会見に出ていた保健省次官が感染した!」

      保健省の次官は前日に記者会見を行ったばかり。NHKテヘラン支局のカメラマンもその場にいた。次官が立つ場所から10メートルほど離れた場所で会見の様子を撮影していたのだ。

      会見は時間にして1時間余り。次官はせきこんだり、額の汗をティッシュでぬぐったりする様子が確認されていた。それでも感染しているとは思いもしなかった。

      不安そうな顔のカメラマン。この日から14日間、自宅での経過観察をお願いした。支局のほかのスタッフも在宅勤務に。あまりにも突然のことだった。

      記者会見に居合わせた他社の外国人記者は怒り心頭だった。「体調が悪いとわかっていて、マスクもせずに会見を開くなんてありえない。ましてや保健省の次官だぞ!」

      土曜日は永遠に来ないね

      奇しくもこの日、イラン政府は新型コロナウイルス対策本部会議を初めて開催した。現地のニュースがロウハニ大統領の発言を伝えている。

      「一部の特別な状況を除いては、土曜日には通常に戻るだろう」

      すなわち4日後だ。そんなことあるのか。

      ロウハニ大統領の予測は外れ、イランの感染者は増え続けた。映画館は閉まり、学校も全土で閉鎖され、事実上、あらゆる社会・経済活動が停止した。

      人々は否応なく、普段通りの生活を変えることを強いられていった。レストランでは、シーシャ(水たばこ)の提供が禁止された。

      酒が禁じられている中東の国々では、シーシャを回しながらカフェでまったりと過ごすことが人々の日常の一部となっている。それができなくなった。吸い口を共有すれば、感染のリスクがあるということだろう。

      市場では意外な物の価格が上がった。レモンなどのかんきつ類だ。イランでは体調不良にはかんきつ類が良いとされている。需要が高まり、テヘランでは価格はあっという間に普段の3倍につりあがった。

      国のリーダーたちも対応を迫られた。最高指導者のハメネイ師までもが、手袋をつけて演説していた。範を示すといったところだろう。

      社会に重苦しい空気が広がる中、ロウハニ大統領は「国営テレビにもっと愉快な番組を流すよう求める」と発言した。するとニュースの合間に、ネットで出回るような面白動画が放送されるようになった。

      国民の間では何かにつけて「イランに土曜日は永遠に来ないね」というジョークがはやった。

      気づけば首都テヘランが主戦場に

      イランではなぜか、感染者に対する死者の割合が他の国と比べて高かった。

      2月27日の時点では、イランで確認された感染者は245人、死者は26人だった。

      もともとこの国では、国民は政府の発表を冷めた目で見る向きもある。実際には感染はかなり広がっているのではないか、と人々は受け止めていた。

      イランで最初に感染者が確認されたのはコム州という場所だ。首都テヘランがある州のすぐ南に位置し、中心都市コムまでは車で2時間の距離だ。

      コムはイスラム教シーア派の聖地の1つとして知られ、毎週金曜日になると数千人規模の集団礼拝が行われる。それが感染拡大のきっかけなのかは定かではないが、イラン政府はその後、各地で金曜日の集団礼拝を禁じた。

      しかし感染の中心が首都に移るまでに時間はかからなかった。27日を過ぎると、最も多くの感染者が確認されるのはテヘラン州になっていた。

      支局、そして自宅のあるテヘランが“主戦場”となったのだ。

      狭まっていく待避ルート

      2月28日、日本の外務省は4段階ある感染症危険情報をレベル3の「渡航中止勧告」に引き上げた。中国の武漢と同じレベルだ。

      現地の医療事情などさまざまなことを考慮し、この頃から一時的な退避の検討が始まった。

      問題は方法だ。イランと外国を結ぶ便はもともと少ない。それに加えて、アメリカによる経済制裁の影響などから、1月の時点で、欧米の航空会社は1社も乗り入れていなかった。さらに中国での感染拡大を受けて、イランはみずから中国とのフライトを遮断したばかりだった。

      陸路はどうか。テヘランからカスピ海沿いを車で進めば8時間ほどでアゼルバイジャンとの国境に到着する。国境から首都のバクーまではさらに5時間ほどだ。しかし、ほどなくして、陸路の国境を閉じるという情報が入った。

      結局、選択肢はイランを含む中東やロシアなどの航空会社などに限られた。恐らく同じことを考えている人が多いのだろう。どの便もなかなかチケットが取れない。

      紆余曲折を経て、イランを離れる手はずがつくまでには約10日かかった。

      後方の座席から声が上がった

      その日、空港に向かう車からの景色は目に焼き付いている。実質2週間、ほぼ家の外に出なかったので、街の様子をじっくり見るのは久しぶりだった。

      いつものように、北にそびえる3000メートル級の山々が穏やかに首都を見下ろしている。その雪山の美しさに、後ろ髪をひかれる思いだった。

      平日の夕方なのに車の通行量は少なく、道はガラガラ。気がつけば、街のあちこちに、感染予防を呼びかける看板が設けられていた。

      イラン政府は、アメリカによる経済制裁の影響で医療物資の輸入に支障がでていると主張している。病院の受け入れ体制も含め、この先も増え続ける感染者に対応できるかどうかは不透明だ。

      機内ではほとんどの乗客がマスクをしていた。南アジア出身とみられる人たちはなぜか皆、軍手をしていた。機体が飛びたった瞬間、後方の座席から「バイバイ!イラン!」という声があがった。

      イラン国内で感染が初めて確認されてから1か月余り。今なお、連日のように新たな感染者が1000人以上確認され、死者は2000人を超えた。(テヘラン支局長 戸川武)