搾取に次ぐ搾取 名もなき移民たちの墓標

    中東や北アフリカの国々からヨーロッパを目指す難民・移民が急増したのは2014年頃。当時はメディアでも連日、その苦難と対応に苦慮する受け入れ側の国々のことが報じられました。その後、2015年をピークに難民・移民の流れは減少しています。しかし命をかけて海を渡る人たちの苦境に終わりは見えていません。

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      男は臓器の密売、女は売春

      ヨーロッパを目指す人々はいまどのような境遇に置かれているのか。アフリカの北端、チュニジアの海沿いの町にある「移民保護施設」を訪ねました。

      ここで保護されているのは、地中海を渡る出発地となっている隣国リビアに向かったものの、現地の状況の劣悪さから、やむをえず逃れてきた人たちです。

      いたのは30人ほど。多くはアフリカ人ですが、バングラデシュから来たという男性たちもいました。「バングラデシュからは、男性は自らの臓器を密売するため、女性は売春のため、送り込まれてきていると聞きます」と話すのは施設の責任者。リビアでは、人身売買を含む、あらゆる犯罪が横行しているといいます。

      5グラムの金の粒に運命をかけた

      「メディアに話したところで、俺たちの状況が良くなるわけじゃない。何も変わらないじゃないか」。施設で出会ったスーダン人のトト・テヤさん(28歳)はどこか迷惑そうに、しかしぽつりぽつりと言葉を続けました。

      トト・テヤさん

      1年前に故郷のスーダンを離れたテヤさん。はじめは西アフリカのニジェールの金鉱で働いていましたが、金鉱をめぐる武装勢力どうしの衝突が勃発し、身に危険が及ぶようになりました。

      テヤさんが頼ったのが、サハラ砂漠で暗躍する、密入国の手助けをする業者です。金鉱で掘り当てた5グラムの金の粒を業者に渡し、ヨーロッパに逃れるためリビアに密入国しました。しかし待っていたのは、搾取に次ぐ搾取だったと言います。
      「密航業者にカネを払ったのに、街に着いたら民兵に拘束され、身代金を要求されたんです。兄がカネを作ってくれて、ようやく解放された時には、4か月が経っていました。

      その後は建設現場、農場、いろんな職場を転々としましたが、いつもタダ働きに近く、ほとんど手当はもらえませんでした。

      6月ごろからは、移民仲間と寝泊まりしていた場所に民兵が押し入ってくるようになりました。銃を発砲して私たちを脅し、手持ちの現金や携帯電話など、金目のものすべてを奪っていったんです」(テヤさん)

      “お前の体格ならこの武器を使える”

      困り果てたテヤさんに対し、民兵たちは、戦闘に参加するよう勧誘してきたと言います。

      「1か月あたり1000リビアディナール(日本円で7万円あまり)を支払う。一緒に戦わないか、と。『お前の体格ならこの武器を使える』と言って、車の荷台に設置された重機関銃を使わせようとしたんです」(テヤさん)

      民兵組織どうしの熾烈な争いが続き、国が事実上、東西に分裂した状態となっているリビア。ことし4月にトリポリで戦闘が激化して以降、移民が戦闘に巻き込まれるケースは頻発しています。

      7月には移民の拘束施設が爆撃され、50人あまりが命を落としました。対立する勢力の双方は、相手側が移民や難民を戦闘員として勧誘していると非難しあっています。

      「強制的に、銃弾を運ぶことを手伝わされました。このままではどんな目に遭うかわからないと思い、リビアを離れることを決めたのです」(テヤさん)

      ひとり故郷に残る意味もなく

      今はチュニジアの移民保護施設で暮らすテヤさん。再びリビアに戻り、ヨーロッパを目指す考えに変わりはないといいます。

      なぜ、そこまでヨーロッパ行きにこだわるのか。その疑問をぶつけた時、それまで淡々と質問に答えていたテヤさんの表情が一変しました。目を真っ赤にし、突然、涙を流したのです。

      「スーダンを離れたのは、故郷の街が襲撃を受けたからです。父も母も、襲撃で殺害されました」(テヤさん)

      テヤさんは、スーダン南部の町、カドグリの出身です。2011年、町は政府軍と反政府勢力との間の大規模な戦闘に巻き込まれました。

      戦闘の具体的な犠牲者数は今も明らかになっていません。国連の聞き取りやイギリスの大学の研究所の調査では、市民の殺害や誘拐・拷問が横行したとされ、テヤさんの両親もこの時、殺害されたといいます。

      「父も母も死んでしまい、ひとり、スーダンに残る意味はありません。アフリカは危険で、貧困がはびこっています。スーダンでもリビアでも、十分、苦しんできました。もう、たくさんです。

      ヨーロッパに行けば、こんなことに苦しむ必要のない、もっとマシな生活ができると思う。ヨーロッパに行くか、海で死ぬか。ほかの選択肢はないんです」(テヤさん)

      地名と番号だけの墓標

      移民保護施設のすぐ裏には、リビアの港を出港したものの途中でボートが転覆し、亡くなった難民や移民の人たちの埋葬地があります。

      私たちが取材に訪れた日も埋葬作業が行われ、次々に新たな墓標が立てられていました。簡易な木の板に記されたのは、「ザルジス37」という文字だけ。保存したDNAの情報と合致するよう、埋葬されたこの町の名前と、識別番号を表示しているのです。

      ヨーロッパでの生活を夢見て地中海を渡ろうとし、途絶えてしまった無数の命。名前も、出身国も、ヨーロッパを目指した理由も、母国での過酷だったであろう生活の様子も知る手段はありません。

      チュニジアの赤十字組織にあたる「赤新月社」の現地支部で、責任者を務めるモンジ・スリムさん。遺体となった難民や移民の人たちと対面し続けてきた毎日について、こう話しました。

      モンジ・スリムさん

      「毎日、次々に遺体が見つかっています。最近、移民船が転覆し、大勢が亡くなりましたが、その船に乗っていたとみられる数よりも、流れ着く遺体の数が多い。つまり、私たちが知らないところで船が転覆し、亡くなった人たちがいるということです。

      保護された人たちが、危険を冒してまたリビアに戻るなんてとんでもないことです。でも、私たちができることは、彼らの決断を見守り、生活を支援することだけなんです」(スリムさん)

      内戦が続くシリアなどとは違い、アフリカの国々からヨーロッパを目指す人たちは「より良い生活を求め、不法に移住しようとする経済移民」と見なされることがほとんどです。

      とはいえ、彼らのすべてを「経済移民だから」の一言でくくっていいのか。今となっては名前もわからない人々の墓標を前に、やり切れない思いばかりが残りました。(カイロ支局 柳澤あゆみ)