中東はどのように今に至ったのか

    今年4月、アメリカとイギリス、フランスはアサド政権が化学兵器を使用したとしてシリアに対して軍事攻撃を行いました。攻撃は限定的なものに終わり、地域情勢に大きな影響がなかったのはその後の経過のとおりです。しかし、仮にシリア側による報復攻撃があったら、どうなっていたか−−−偶発的な出来事が大きな戦争につながりかねない、極めて緊迫した局面だったことも事実です。

    「中東が注目を集めるのは大きなテロや戦争の時だけ」。そんな風にとらえる人もいるかもしれません。しかし個別のニュースを追うだけでその潮流を理解するのは困難です。

    中東はどのようにして今にたどり着いたのか。その混迷を大きな流れの中でどう見たらいいのか。この記事ではそれを読み解いていきます。

    目次

    ※クリックすると各見出しに移動します

      独裁体制がもたらした安定

      まず、現在の中東の姿を見てましょう。「中東」がどの範囲を指すのか。広義では西アジアから北アフリカにかけての広い範囲がこれに当たります。以下の地図では、便宜上、東はイランから、西はチュニジアまでを表記していますが、アフガニスタンやアルジェリア、モロッコなどが含まれることもあります。

      このうち中東の「ど真ん中」にあるイラクとシリアを中心とした地域ではずっと不安定な情勢が続いてきました。

      内戦が続くシリアでは、アサド政権の軍や、民兵組織、外国の軍、反政府勢力、さらに過激派組織と、さまざまな勢力が入り乱れて戦闘が繰り返されてきました。7年を経た現在、アサド政権の優位は揺るぎない情勢となっています。

      内戦の過程で、国境はあいまいなものとなりました。イラクとの国境は過激派組織が自由に行き交い、トルコとの国境は、過激派組織に加わるために世界各地からやってきた若者たちにとってシリアへの入り口となる一方、家を追われた人たちにとっては出口となりました。

      今の混乱に陥る前、中東は比較的安定していました。その安定をもたらしていたのは、独裁的な政権です。20年、30年と1人の独裁者が君臨したり、絶対的な権力を持った王族が支配したりする国が少なくありませんでした。

      こうした国々では国民が常に監視され、反体制派とみなされると理由もなく逮捕され、拷問を受けることさえ珍しくありません。国民を押さえつけることで独裁的な支配が実現し、それによって治安の安定を実現してきたのです。

      アメリカと石油とイスラエル

      その独裁を許してきたのがアメリカです。アメリカは1930年代にサウジアラビアで石油の利権を獲得してから、この地域で巨額の利益を上げてきました。石油を安定的に確保し、利権を守るためには「中東の安定」は絶対条件となりました。

      そしてアメリカが中東で「国益」と位置づけるもう1つの要素が同盟国イスラエルです。アラブ諸国の反対を押し切る形で1948年に建国された「ユダヤ国家」はみずからの存在を守るため、中東でいわば四面楚歌の状態で紛争を繰り返してきました。

      嘆きの壁(エルサレム)

      こうした中、1979年、アメリカはアラブの「盟主」エジプトに接近し、イスラエルとの間に歴史的な平和条約を仲介しました。アメリカはその後、エジプトの独裁的な政権に対して軍事的な支援を続けています。

      かつてこの地を委任統治領としていたイギリスがパレスチナの地を離れて以降、国内にユダヤ人を多く抱えるアメリカにとって、イスラエルの安全保障は一貫した中東政策の柱です。アラブ諸国と敵対するイスラエル、そしてその後ろ盾となるアメリカを軸として、中東情勢は長年推移してきました。

      石油の確保とイスラエルの安全。それを守るためにアメリカが欲した安定は、結果として中東の独裁的な体制を維持させたのです。

      「アラブの春」で秩序は崩れた

      その日、NHK国際部の中東班は現地から発信された画質の粗い動画の信ぴょう性をめぐって議論になっていました。「この顔は本人じゃないか」「これだけでは判断できない」。動画に映っていたのは、砂漠地帯とみられる荒涼とした場所で、複数の男たちにリンチされるリビアの独裁者、カダフィ大佐でした。

      2010年の年末に北アフリカのチュニジアで始まり、瞬く間にアラブ諸国に広がった、いわゆる「アラブの春」。独裁を終わらせ、民主化を実現しようという当時の動きはそれまでの「冬」と対比する形でそう呼ばれました。

      中東ではほとんどの国で、デモが厳しく規制されていましたが、人々は当局の弾圧を恐れずに街頭に繰り出し、民主化を訴えました。チュニジアとエジプトでは大統領が退陣。40年余りの独裁が続いたリビアでは、内戦に発展したあげく、カダフィ大佐が殺害されました。独裁政権によって維持されていた中東の秩序がもろくも崩れていく様は、中東を取材していた記者たちにとっても、信じがたい展開でした。

      絶対的な権力も、変えようと思えば変えられる−−−「アラブの春」は人々に意識の変化をもたらしましたが、混乱も招きました。

      エジプト革命記念日(2012)

      エジプトでは独裁政権の崩壊後、独裁体制下で弾圧されてきた宗教組織、ムスリム同胞団が台頭し、選挙で同胞団出身のモルシ大統領が勝利しました。しかし保守的な政策を掲げるモルシ大統領に「アラブの春」を経験したリベラルな若者たちは反発し、相次ぐデモで首都カイロは再び混乱。これに乗じて軍が事実上のクーデターを起こした結果できたのが、現在のシシ政権です。「民主化」に沸いたはずのエジプトは、結局、軍の力を背景にした独裁的な政治体制に逆戻りした形となりました。

      アサド政権はなぜ踏みとどまった

      「カイロが大阪だとすれば、ダマスカスは京都だ」。ある特派員経験者は口癖のようにそう語ります。「シリアは本当にきれいな国だったんだよ。でもこうなってしまっては…」

      エジプトやリビアで「アラブの春」が猛威を振るう中、当初のシリアは落ち着いているように見えました。チュニジアでベン・アリ政権が崩壊し、暫定政権が発足した直後の2011年1月18日、日本を訪れていたシリアの大統領補佐官はNHKの取材に対して次のように答えています。

      「チュニジア政府が欧米との関係ばかり強化し、国民を無視してきたのに対し、シリア政府は国民の声に耳を傾けている。同じような問題は起きない」

      このインタビューの2か月後、シリア南部のダラアで政治的な自由を求める大規模な抗議活動が起き、治安部隊との衝突で4人が死亡しました。これが今日まで続き、35万人が犠牲になる内戦に発展したのです。

      なぜシリアでは独裁政権が倒れなかったのか。その背景には古代から人やモノが行き交い、多様な宗教や民族からなるシリア特有の事情があります。

      シリアの宗教・宗派構成

      シリアの人口構成を宗教・宗派別に見ると、最も多いのはイスラム教スンニ派で74%余り。続いてシーア派系のアラウィ派で13%余り、キリスト教のさまざまな宗派合わせて10%と続きます。

      アサド大統領自身はアラウィ派で、政権の中枢もアラウィ派で占められています。軍や治安機関の上層部にもアラウィ派が登用されていますが、スンニ派やキリスト教徒、それに民族的にアラブ人とは異なるクルド人も取り込んだ支配体制が形成されています。

      エジプトやチュニジアでは、独裁的な大統領を支えてきた軍が民衆の声を背景に大統領に退陣を迫り、内戦に発展したリビアでは軍が次々に離反して指導者が孤立し、最終的に政権が崩壊しました。

      シリアが同じ道を歩まなかったのは、ほかの宗教・宗派を取り込んで、一蓮托生(いちれんたくしょう)で大統領を支える仕組みを作り上げていたことが挙げられます。

      国境を無視した「建国」

      抵抗する反政府勢力と、そのせん滅を図るアサド政権という構図を主軸に拡大していったシリアの混乱は、内戦へと発展する過程で一層複雑化していきます。イランや、さまざまな民兵組織がアサド政権を支援するために参戦し、反政府勢力側も離合集散を繰り返しました。2013年8月、シリア情勢について特派員は「内戦の複雑化、泥沼化がエスカレートしていく中、シリアは破綻国家となりかねない危機的な状況」と伝えています。アルカイダ系の過激派が勢いを増していたのは、ちょうどこの頃でした。

      その過激派が「イスラミックステート」の樹立を宣言したのは2014年6月。シリアとイラクにまたがる、従来の国境を無視した一方的な「建国」は世界を震かんさせました。

      過激思想の拡散で世界からジハーディストを集め、急速に勢力を拡大したISは、シリア内戦にかかわる多くの勢力にとって脅威となりました。シリアやイラクの政府軍、反政府勢力も各地でISとの戦闘を開始。アメリカ主導の有志連合が反政府勢力を支援する形で介入し、ロシアもアサド政権を支援するために参戦しました。

      これによってISは徐々に弱体化し、去年7月にイラク最大の拠点モスル、10月にはシリア北部のラッカを失います。「建国」から3年余りでジハーディストたちの理想郷は事実上崩壊しました。

      「ポストIS時代」のリスク

      ISは中東に何を残したのか。急速な台頭と凋落は、その前後でシリア情勢を劇的に変えました。一時、劣勢にあったアサド政権はロシアの支援で息を吹き返し、反政府勢力に対して圧倒的な優勢に立ちました。

      それによって、中東で大きく勢いを増すことになった国があります。イラク、シリア、レバノンと、自国から陸続きの広大な範囲で影響力を確保することになった「シーア派の大国」イランです。

      イランの影響力拡大は、中東の長年の火種に油を注ぎました。「スンニ派の盟主」を自任するサウジアラビアとの覇権争いです。イランによる核やミサイルの開発を警戒するサウジアラビアは、アメリカのトランプ大統領をいち早く取り込み、就任後、最初の外遊先とすることに成功。さらに「敵の敵は味方」の論理でイランを最大の敵国とするイスラエルに接近しているとも指摘されています。

      そして、ISとの戦いで勢いを増したもう1つの勢力がクルド人です。シリアやイラク、トルコ、イランにまたがる地域におよそ3000万人が暮らし、国を持たない世界最大の民族とされます。ISとの戦いの先鋒に立ち、勢力を拡大したクルド人勢力ですが、ISの掃討後、再びそれぞれの国との間で対立が表面化しています。イラク北部では住民投票を実施し悲願の独立を目指しましたが、イラク政府が送った部隊に抑え込まれ、さらに内紛も重なって失敗に終わりました。自治が始まったシリア北部でも、自国への影響を懸念するトルコ軍が軍事作戦を開始。紛争が拡大する懸念も出ています。

      ISの脅威が去り、サウジアラビアとイランの覇権争い、そしてクルド人の悲願という中東の2つのリスクが顕在化したのです。

      「責任者不在」の中東 向かう先は

      中東で取材をすると、どの国にいても、国民がアメリカの事情にやたらと詳しいことに驚かされます。それはアメリカがいかに積極的に中東に関与してきたかを示しているのかもしれません。

      かつて中東では、1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争など−その是非はともかく−アメリカが思い切った関与をして秩序を守り、あるいは形づくってきました。しかし、国民に多大な負担を強いたイラクでの教訓から、前のオバマ政権は、積極的な関与を控えました。

      トランプ大統領はオバマ政権の中東政策をことごとく批判し、エルサレムをイスラエルの首都と認めました。これまでになくイスラエル寄りの姿勢はパレスチナ側の怒りを買い、中東和平の見通しはつかなくなっています。さらに核開発を制限する見返りに、欧米などが制裁を解除するとしたイラン核合意からの離脱を表明し、先鋭化するイランとの対立は地域の不確実性を一層高めることになりそうです。

      トランプ大統領を称える看板(エルサレム)

      しかし、一見するとオバマ時代の反対を行くかのようなトランプ政権も、4月にシリアの化学兵器の使用疑惑を受けて行った攻撃のように一時的、局地的な攻撃はしても、戦局を変えるほどの関与をするつもりはないようです。シェール革命で、アメリカが巨大な埋蔵量を持つエネルギー大国となり、中東に依存する必要がなくなった今、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領は多大な負担をしてまでかかわる必要がないと考えているのかもしれません。

      アメリカの関与が弱まる中、相対的に中東で影響力が高まっているのはロシアです。シリアをめぐり、トルコやイランとの関係を深めるロシア。一時は、中東和平交渉にも関与する姿勢を見せました。しかしロシアが中東にどう関与しようとしているのかはまだ見えてきません。

      「アラブの春」やシリア内戦の混迷を経ていったん壊れかけた中東の秩序は、今後、再構築される段階に向かうとみられます。秩序をいかに自分たちに有利になるように形づくるか。それぞれのプレーヤーの思惑が交錯するとき、そこには常に新たな衝突のリスクが付きまとっています。