革命は成し遂げたけれど “唯一の成功例”の苦悩
「きょうは怒る日であって、祝う日ではない!」。
警備員に取り押さえられた女性が叫んでいました。
チュニジアで、10年前の革命を祝う会場で目の当たりにした光景です。
「アラブの春」と呼ばれた中東の民主化運動は、人々に何をもたらしたのでしょうか?
(カイロ支局 藤吉智紀)
目次
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革命を祝う会場で見た怒り
首都チュニスから車で4時間ほど。
「アラブの春の発祥の地」となった、チュニジア中部の町シディブジドを訪ねました。
町の中心部の建物の壁一面には、色あせた1人の男性の肖像画が掲げられていました。
モハメド・ブアジジさん(当時26)。
10年前、路上で野菜を売っていたところ、警察に商売道具をとりあげられ、抗議の焼身自殺を図りました。
それが、すべての始まりでした。
大勢の若者らが、仕事がない中で苦しむ自らの境遇を重ね合わせ、権力の横暴に対する抗議の声をあげたのです。人々の怒りの炎は、SNSなどを通じて全土に広がり、独裁政権の打倒と民主化を求める大きなうねりとなりました。23年間続いたベンアリ政権は、わずか1か月足らずで崩壊。国を代表する花にちなんで「ジャスミン革命」と呼ばれ、民主化を求める抗議運動はアラブ諸国に一気に広がっていきました。
ブアジジさんが焼身自殺を図った日からちょうど10年となった12月17日。
シディブジドの広場で、革命を祝うコンサートが開かれていました。
しかし歌声は、怒りの声にかき消され、よく聞こえません。鉄柵で隔てられたコンサート広場の向かい側には、大勢の人が集まり、生活苦を訴える抗議デモを行っていたのです。
「政府は恥を知れ!」。
失業や格差に対する抗議の声は10年前、革命の原動力となった国民の不満そのものです。若者の1人は「革命後も何も変わっていない。ずっと仕事もないままだ」と声を荒げていました。
“唯一の成功例”の苦悩
チュニジアはアラブの春を経て、民主的な憲法を制定し、選挙も積み重ねてきました。
2015年には、民主化に貢献した労働組合や人権団体などにノーベル平和賞が贈られました。
アラブの春を境に混乱に陥ったほかの国々とは違って、“唯一の成功例”と言われています。
10年の節目にあわせたシディブジドでの式典では、参加者から、独裁政権時代にはなかった言論の自由など社会の変化をかみしめる声も聞かれました。
「いまは自由に意見を述べて怖がる必要もありません。言論への統制はなくなりました。革命前にはなかったことです」。
しかし、暮らしが良くなると考えていた人々の期待は、裏切られたままです。政治参加はしやすくなりましたが、政党の乱立と対立で短命政権が続き、人々が望んだ改革は進みませんでした。汚職や利権の構造は残される一方、格差は解消されず、経済は低迷したままです。
1人あたりのGDP=国内総生産は2割ほど減少し、失業率もおよそ16%と革命前よりも悪化しました。とりわけ、若者の3人に1人は職がないといわれ、怒りと閉塞感に覆われているのです。
国を離れる若者たち
厳しい生活環境の中、国を離れてヨーロッパに渡ろうとする若者も後を絶ちません。
ボートで地中海を渡り、イタリアを目指すケースが多く、その数はこの3年で2万人以上。途中で命を落とす人も少なくありません。
アマラ・マフージさんも、ヨーロッパに渡ろうとして行方不明となった若者の1人です。
乗り合いバスの運転手などをしながら家族を支えていましたが、暮らしは一向に良くなりませんでした。6年前、友人とともに密航業者の手引きで、イタリアに向かったとみられています。
「息子がいなくなって人生が止まってしまいました。毎晩、息子の服を抱いて顔を思い出しながら寝ています」。
母親のラバハさんは、新聞広告で息子に関する情報を呼びかけたり、密航業者を突き止めて電話をかけたりしていますが、手がかかりはないと言います。夫はアマラさんが失踪したあと体調を崩し、3年前に他界。ラバハさんも心労がたたり、薬を手放すことができません。
「革命後に、状況はさらに悪くなってしまいました。良い状況だったら息子も出ていく必要もなかったのに。危険を冒してまで行ってほしくなかった」。
移民や難民の問題に取り組むNGOは、革命への期待が失望に変わったことが、かえって若者たちを国外に向かわせていると指摘します。
「10年前、人々は希望に満ちあふれ、団結もしていましたが、いまでは革命を歓迎するムードすら薄れてしまいました。より自由になった一方で、経済の低迷は深刻で、人々が根絶を訴えた腐敗もひどくなり、公正な社会の実現にはほど遠い状況です。今後さらに抗議活動が広がり、危機的な事態に陥りかねません」。
中東に激震 アラブの春
“成功例”だったはずのチュニジアの苦境は、独裁的な統治から解き放たれた国民をまとめ、 国の発展と安定を図っていくことの難しさを浮き彫りにしています。
アラブの春を迎えた多くの国では、民主化どころか、国民の分断をもたらし、強権的な政権への回帰や、内戦につながる悲劇を生みました。シリアやイエメンは泥沼の内戦に陥り、リビアも国が分裂したまま。
エジプトでは、民主的な選挙で選ばれた政権が軍による事実上のクーデターで崩壊。
その後、強権的な体制に逆戻りしてしまいました。
混乱はさらに、シリアやイラクで過激派組織IS=イスラミックステートの台頭をまねき、テロの脅威は世界に拡散。過激思想によるテロは去年、ヨーロッパで相次ぐなど、その脅威はいまも消えていません。
また、内戦による難民危機も世界を揺さぶりました。とりわけシリアでは、国民のおよそ2人に1人が戦火で家を追われ、560万人もの人が国を逃れて難民となりました。
ヨーロッパでは、大量の難民の流入に反発の声が高まり、社会や政治の右傾化をもたらしました。
終わらない「春」の希求
そして、アラブの春は、中東のパワーバランスにも変化をもたらしました。この10年の混乱によってアラブ諸国の国力が低下。非アラブ国家のイランとトルコの影響力が強まりました。
イランの封じ込めを狙って、対立関係にあったアラブ諸国とイスラエルの国交正常化の動きが広がるなど、歴史的な変化につながっています。
一方、自由や民主化を求める動きが止まったわけではありません。
おととしには、「第2のアラブの春」と言われる民衆の蜂起も相次ぎました。
アルジェリアやスーダンで、独裁的な長期政権が市民によるデモをきっかけに相次いで崩壊。イラクやレバノンでも、反政府デモによって首相が辞任に追い込まれました。「春」を待ちわびる願望はいまも、マグマのように人々の中にあり、いつ噴き出してもおかしくありません。
ただ、仮に政権を倒すことはできても、国を創ることは難しいという現実を突きつけたのもアラブの春だったといえます。「国の安定」を口実に「民主化」が押さえ込まれる状況は、いまや中東に限らず、世界各地で起きています。民主化を求める国民の声に応えながら、いかに国の安定を図っていくか。
アラブの春が投げかけた難しい問いに、今一度、国際社会は向き合う必要がありそうです。