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「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました(遺書より)」
前の東京オリンピックのマラソンで、小さい体で大きな外国人選手を抜き去り、日本中を歓喜させた円谷幸吉。その栄光の銅メダルから3年余りあと、次のオリンピックに出場することなく27歳でみずから命を絶ちました。
円谷が暮らしたかった父母上の側とは、出身地の福島県。その福島県から、のちに“神”と呼ばれるランナーが生まれます。円谷と同じようにマラソンでオリンピックを目指しますが、その目標を果たせないまま、年齢は円谷の享年を超えました。次の東京オリンピックの年、彼は36歳になりますが、諦めることなく挑戦が続いていました。“神”と呼ばれたそのランナーの心の内を聞きたくて、会いに行きました。(ネットワーク報道部記者 牧本真由美)

1964年10月21日

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円谷幸吉は、いつもまっすぐ前を向いて走る選手でした。その信念は次のシーンにもっともよく現れています。1964年の東京五輪、男子マラソン。身長163センチの円谷が、外国人選手を次々と抜き去り優勝したアベベに続いて、競技場に姿を見せます。その後ろをイギリスのヒートリーが、スパートをかけ迫っていました。

それでも振り向かず、残り170メートルで円谷は抜かれました。

振り向かなかった理由は、小学校時代にさかのぼります。運動会のあと、父から「振り返るのは自分に自信がないからだ。堂々とやって勝て」と叱られたのです。

円谷がゴールしたときアナウンサーは「最後に抜かれたものの、堂々の3位入賞です」と叫びました。実は、日本代表選手3人のうち、円谷はマラソンの実績が乏しく、期待されていたのは、他の2人の選手でした。

そんな中で、銅メダルを手にした円谷。しかし最後に抜かれたことが悔いに残り、4年後のオリンピックを目指してさらに練習に励むことを宣言しました。

メモリアルホール

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福島県にある円谷幸吉メモリアルホールを訪れてみました。写真やパネルが置かれていて、いずれからも円谷の性格の土壌を感じ取れました。

パネルには円谷家のしつけが書かれています。

「呼ばれたら返事を」「人にはあいさつを」「履物を揃える(整理・整頓)」「自分のことは自分でする」

厳格な父親のしつけが、我慢強さや礼儀正しさを育てたのかもしれません。少年時代は人が嫌がるようなハエ取りも積極的に取り組んだそうです。

85歳になった兄の喜久造さんに話を聞けました。

「幸吉はみずから居残りをして走り“つらい”とも言わなかった。自分に勝たなければいけないんだと周囲が驚くほど頑張っていた」

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円谷が一番好きだった言葉。それは「忍耐」でした。苦しさに耐えれば結果を出せる、と感じていたのだそうです。

パンフレットには、「東京オリンピックはまさに忍耐に象徴される走りだった」とも書かれています。

栄光と孤独

オリンピックへの再挑戦を誓ったものの、腰などの故障が相次ぎ、練習が思うようにできなくなります。

円谷には、文通を続けて気持ちを育んできた女性がいましたが、その女性との結婚も、上司の反対で破談となります。

オリンピックでメダル獲得という大きな任務を前に結婚をするのは自覚に欠ける、と言われた時代でした。忍耐でレースを生きたランナーは責任を抱え込み耐えきれずに死を選びました。

メモリアルホールには、円谷の遺書のコピーが掲示されていました。便せん3枚。流れるような文字で丁寧に書かれていました。

円谷の遺書

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横須賀市 円谷幸吉メモリアルホール

※上の写真をクリックすると、それぞれ大きな画像が表示されます。

「しそめし、南ばんづけ、美味しうございました」など親戚への感謝の言葉。
「立派な人になって下さい」という17人の親戚の子どもたちへの言葉。

両親へは「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」。 「気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」と記していました。

受付の男性に尋ねると、円谷の信念を慕って全国から人が訪れるそうです。私がいたわずか数時間の間にも、新潟や京都からランナーが来ていました。

いまだ多くの人に語り継がれる栄光と孤独のランナー。命は絶えても後世に伝わっているものがありました。

福島で伝わる円谷の魂

秋の冷たい雨が止み、凛とした空気に包まれた土曜日の午後。円谷の名前が付けられたスポーツ少年団「円谷ランナーズ」に行ってみると、小学生から中学生までのおよそ30人が紅葉に染まる土手を走っていました。

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ほっぺたを真っ赤にして、コーチの言葉に礼儀正しく「はい!」と答え、きびきびと練習をこなしていました。

「円谷さんってどんな人?」って聞いてみたら、「すげえマラソンが早い人」「リスペクトしてる」みんなその存在を知っていました。

円谷の活躍やそれを支えた性格は学校やスポーツ少年団、それに家庭の中でも語り継がれていました。

こうした土壌から、多くの福島県出身のランナーが育っていきます。“神”と呼ばれるランナーも生まれました。

“神”と叫ばせた男

名前は今井正人、福島県南相馬市出身です。円谷の信念を知る両親や学校の教師から「最後まで振り向かずに前を見て走れ」「円谷のように強い気持ちを持って走りなさい」と言われてきました。

福島の県立高校から順天堂大学に進学し、箱根駅伝でその力が開花します。山登りと呼ばれる上り坂が続く5区。2005年の2年生の時、11人抜きを果たし“山の神”と呼ばれるようになったのです。

3年、4年も5区を走りました。それぞれ6位、5位からスタートし、前の走者をすべて抜き去り往路優勝を果たします。

「山の神!ここに降臨!」とアナウンサーに叫ばせました。力を振り絞って駆け上る表情が印象的でした。

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「みんなが苦手だという上りだから、逆手にとって、根性に自信のある自分にはチャンスだと思った。とことん上りの練習をした」

卒業後は「オリンピックでマラソンを戦いたい」とトヨタ自動車九州に。「マラソンでオリンピック」は本格的に陸上を始めた高校生の時に誓った目標でもありました。しかし、厳しい道が待っていました。

苦悩するランナー支えたものは

社会人になってからのマラソンの主な記録です。注目された初マラソンは、2008年、2時間18分34秒で10位。

2回目となる2010年の福岡国際マラソンでは5位と不本意な結果に悔し泣きを隠せませんでした。

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ロンドンオリンピックの出場がかかった2012年のびわ湖毎日マラソンは42位と惨敗。30キロ地点からペースが落ちてしまうレースが多く、これまで2回あったオリンピックのスタートラインに立つチャンスを逃しています。

当時を振り返り、「体力もなかった。練習でいっぱいいっぱいだった。休みの日も部屋にこもってマラソンのことばかり考えて心身ともに凝り固まり、自分を追い詰めていた」と語っていました。

ただ、円谷と違っていたのは身近で支えてくれる人ができたことでした。2011年、仕事で出会った女性と祝福されて結婚。子どもも生まれました。

マラソンと家庭、頭を切り換える時間を持てたことで、気持ちに勢いがつけられるようになったといいます。

ひのき舞台に一気にあがったのが社会人になって8年目。2015年の東京マラソンでした。先頭集団に食らいつき日本人トップの7位に。日本歴代6位の2時間7分台をマークし、半年後の世界陸上の切符も手にします。

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「円谷さんの時代は、家族がレースを邪魔するという意識があったのかもしれない。でも自分は家族が力になっている。集中する瞬間を自然と作れるようになったのは家族のおかげだと思う」

円谷がもし結婚できていたならば、と思わずにはいられない言葉でした。

再びの挫折

ところが、本番1か月前に、頭痛や発熱などの体調不良を訴えて2週間の入院。髄膜炎を患っていました。

治療に専念するために、世界陸上を辞退せざるをえませんでした。放っておくと命に関わるおそれもあり今度は選手生命自体を危ぶまれることになりました。

「世界で戦うために練習を重ねてきただけに悔しい思いでいっぱいです」とコメントを出しました。

会いに行くと

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今井正人はいま、33歳になりました。海外でのレースに集中したいので待ってほしいと言われ、先月ようやくインタビューが実現し会いに行きました。

東京オリンピックへの気持ちを尋ねると、高校生の時の誓いを今も守ろうとしていました。

「絶対に出る。陸上をやると決めた時に、マラソンで世界で勝負するんだと心に決めたんです。自分で決めたことに責任を持ちたいですし、今はただ突き進むだけです」

まっすぐな視線で答えました。

好きな言葉を書いてもらいました。綺麗な文字でつづられたのは「克己心」。

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世界で戦うために、自分に負けない強さをもっと身につけたいという思いです。円谷の「忍耐」とよく似ているような気がしました。

その魂を継ぐ者は

私も市民ランナーでマラソンファンの1人。円谷を継ぐ者は誰だろう?と、マラソン仲間と語りました。一同の答えが「今井正人」でした。

それは福島県出身ということだけではなく、苦しい山場を登り切る姿が見せた「忍耐強さ」、目標に向かって突き進む「まっすぐさ」、レース前後の「礼儀正しさ」。

マラソンは今、アフリカ勢が圧倒的に強く日本は太刀打ちできない状態が続いています。次の東京オリンピックは真夏で過酷な展開が予想されています。

そこで勝つチャンスがあるとしたら、技術面だけではなく、苦しみに耐える心の強さが大きく影響する、その強さがあるのが今井だという意見でした。

2020年に今井は36歳、同期のランナーの多くがすでに一線を退き、注目は若手に集まってきています。それでもなお、走り続ける意味をこう語ってくれました。

「厳しいからこそ挑戦しがいがある。かつて山を走った時のように、みんなが嫌だと思うことにワクワクする。もちろん暑さはきついと思うが、持ち前の粘り強さと我慢強さは誰にも負けない」

“マラソンでオリンピックに”自分との約束を守れるのか、東京オリンピックはその最後のチャンスになります。

思いは受け継がれ

私は、円谷さんの遺書を読み返しながら、何かを伝えられるとしたら何を伝えたいか、思いをめぐらしました。

「円谷さん、あなたの魂が、ここにあります。まっすぐに前を向いて走り続けた背中を追う者がいます。あなたが成し得たこと、そして、果たし得なかった思いは、きちんと次の東京オリンピックに受け継がれています。心安らかにレースを見守っていてください」

円谷がメダルをもたらしてからすでに半世紀。伝説となったランナーが走った東京を、次のオリンピックでは誰が走るのか、そしてメダルをもたらすのか。その選考に向けた戦いは、この冬から本格的に始まります。