ページをめくっていただいて、ありがとうございます。
あの震災から月日がたつと、私たちの娘の声を聞いたことがあるという方も、減っていくんじゃないかと思います。
町の人たちに「避難して」と呼びかけ続け、自分は津波にのまれた娘の思いをつなごうと、私たちは海のみえる高台に「一日一組限定」の小さな民宿を建てました。
このサイトは、そんな夫婦の軌跡です。2020年2月 遠藤美恵子

付録 震災遺構をARで伝える

震災の記憶を伝える建物、「震災遺構」を最新の技術で残していこうという取り組みも始まっています。この画像をクリックしてみてください。

取材/制作 後藤岳彦(NHK山形局)

ページをめくっていただいて、ありがとうございます。
あの震災から月日がたつと、私たちの娘の声を聞いたことがあるという方も、減っていくんじゃないかと思います。
町の人たちに「避難して」と呼びかけ続け、自分は津波にのまれた娘の思いをつなごうと、私たちは海のみえる高台に小さな民宿を建てました。
このサイトは、そんな夫婦の軌跡です。
2020年2月 遠藤美恵子

第1章津波に奪われた日常

私たちが暮らす宮城県南三陸町は1万7000人余りが暮らす、漁業が盛んな町でした。

穏やかな生活を一変させたのが2011年3月11日に起きた大地震と、そのあとの大津波でした。 10メートルを超える大津波が、町の人と建物を飲み込んでしまったんです。

家も工場も漁船も流され、この小さな町で800人以上が犠牲になりました。

第2章高台に避難して!

私たちの長女の未希は、町役場の危機管理課につとめていました。 いつもにこにこ、聞き役に徹するタイプで、役場の仕事にも慣れてきたころでした。

ほかの職員たちと「防災対策庁舎」にいたあの日、突然ものすごい揺れに襲われました。

津波が町を襲うことを知った未希たちは、2階の放送室から防災無線で、町の人たちに避難を呼びかけました。

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庁舎は高さ12mあり、津波の初めの予想は「最大6m」でした。 未希たちは町の人に「避難して」と40回以上も呼びかけ続け、そして15m以上の大津波に飲み込まれたのです。
防災庁舎では職員など43人が命を落としました。

第3章悔やんでも悔やんでも

未希は半年後に、結婚式を挙げる予定でした。実は前の年に子どもを授かったものの流産して、2か月間仕事を休んでいたんです。

花嫁衣装を楽しみにしていたのに、あの津波で一瞬で命を奪われてしまいました。
まだ24歳だったんですよ。

娘を失ってからの私といったら、もう自分を責め続ける毎日でした。だって専門学校に通っていた未希に「地元に戻って役場に就職したら」と勧めたのは私だったから。
「町に戻って役場に就職しなけりゃ、未希は津波の犠牲にならなかったんじゃないか」

悔やんでも悔やんでも、悔やんでも悔やんでも。ほんとうに悔やみきれない毎日でした

第4章日記で娘と対話

1年たって、私は日記をつけ始めました。
これが最初に書いたページです。

未希へ ようやくお母さん ペンを取る事が出来ました。
それでも もう涙があふれてくるよ!
どうして…どうして…

時間がたっても悲しみが消えることなんてありません。復興復興と言われる中で、私にはむなしさだけが募りました。

娘を奪った海で仕事を再開するのは辛かったです。ワカメの養殖棚に行くたびに「この辺で娘が見つかったのか…」と胸が痛くなりました。日記にはそんな思いを、未希に宛てた手紙のようにつづっていきました。

第5章ねえ、民宿を始めよう

震災の翌年、2012年も終わるころに私と夫は、民宿を始めようと決めました。きっかけは遺品の中で見つけた、娘からの手紙でした。 津波でにじんでいましたが確かに読めました。

苦しいことやつらいことをのりこえてほっとした時いつも心に浮かぶのはこの一言です
母さん 私を生んでくれてありがとう

もっと生きたかっただろう娘の思いや、あの震災で起きたこと、そして大きな災害が起きたときにすべきこととかを、誰かに伝えなきゃ、伝える場を作ろうって思ったんです。

民宿の経営なんてもちろん初めてですよ~。
保健所とかたくさんの手続きに追われました。そうしたことが生きる支えになると信じて、もうがむしゃらに取り組んで、2014年3月に平屋建ての民宿が完成!
「未希の家」と名づけました。

第6章被災地の真実を知って

民宿は「一日一組限定」です。来ていただいた人たちに私たちは、目の前のすべてを押し流す津波のおそろしさや、津波からどう避難したのかなどをお話ししています。
とにかく繰り返し言っているのは「絶対に安全」はないことと、未希がみんなに呼びかけ続けた、「津波が来たらとにかく高い所へ逃げて」です。

被災地では震災当時の建物の撤去が進んでいます。土地のかさ上げが進んだり、新しい建物や道路ができたり。津波の被害を感じることが難しくなってますね。

でも東日本大震災の後も各地で大きな災害が起きて、かけがえのない命が失われています。
悲劇を繰り返さないためにも、あの日に起きたことを伝え続けていきたいと思います。

第7章語り継ぐ輪、広がって

2014年7月に民宿を始めてから、たくさんの人に泊まりに来てもらいました。みなさんに書いていただいくメッセージの中には「災害の恐ろしさを家族や友人に伝えていきたい」という声もあります。

あの日、「高台に避難して」と呼びかけ続けた娘たちの声が、別の形で確かに多くの人に届いていると感じます。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
日記は今も続けています。自分を責めてばかりで、笑顔で生きることさえ申し訳ないと思っていた私も、今は自信を持って民宿での出来事を娘に報告できるようになりました。

「未希の家」を訪れた人に震災のことを語って伝えて、日記に思いをつづる。そんな穏やかな日々がこれからも続くと思います。

付録震災遺構をARで伝える

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