出産して、自分が変わってしまった。
自分の体が元に戻るのに時間がかかった。
24時間、赤ちゃんと一緒にいることがつらかった。
夫が会社から表彰されたと聞かされても、祝福なんてできなかった。
「なんで私だけ」と悔しく、やるせなかった。
周囲がふだんどおりの生活を送っていることがショックだった。
私は“日常”を失った。
おかしくなった“わたし”
新藤裕理さんは、2022年に第一子が生まれた。
温かい雰囲気の中、笑顔で、みんなで赤ちゃんを見守って子育てする。それまで漠然と思っていた理想だった。
でも実際は全く違っていた。
ずっとだっこしていないと泣きやまない。寝てくれない。ご機嫌でいてくれない。
ずっと泣いている赤ちゃんと、ずっと一緒にいる。
ずっと見ていないといけない不安と、なにかあったときにどうすればいいのかという心配が重なり、責任感もあり、頼れる人も近くにいるわけでもなく、孤独感が強かった。
3時間おきの授乳、おむつ替え、洗濯、掃除、入浴、買い物、料理、片づけ。
慣れないだっこを続けていると、左手が腱鞘炎になった。
左手をかばうようにしていると、今度は右手も腱鞘炎になった。
両手が使えず、ステロイド注射を打つかどうかまでひどくなり、半年ほど整骨院に通って治療することになった。
子育ては、肉体的にも精神的にも、過酷だった。
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生後1か月 夜間授乳が終わったあとの新藤さん 気絶するように寝ていた
夫との関係もギクシャクするようになった。
夫は出産の1年前に転職していたが、それでも出産を機に在宅勤務に切り替え、なるべく家にいてくれるようにしてくれた。
出社した日でも家に帰ってくると、座る暇もなく家事育児を担ってくれた。
結婚してから、けんかをするようなこともなかった。
それなのに夫が「シンクに洗い物がたまっているね」「ここ汚れてる」と口にするだけで、頭にきた。
ささいな言葉にイライラするようになっていた。
夫が仕事で玄関を出ると、夫には自分だけの時間があるということが許せなかった。
そして「役立たずだな」とひどい言葉を夫にぶつけるようになり、赤ちゃんが泣き止まないというだけで、哺乳瓶を夫に投げつけたこともあった。
夫は怖くて話しかけてこなくなり、会話が減っていった。
出産の1か月後、夫が仕事を頑張り会社から表彰されるという出来事があった。
両親も入っている家族のLINEグループに目録の写真が送られてきた。
それを目にした時に沸いた感情は、祝福ではなく、怒りだった。
私も仕事が好きでこれまで頑張ってきたのに、なぜ自分だけ。
赤ちゃんと一緒にいるということから逃げられないのに、なぜ夫は自由に仕事をして、評価されているのか。
夫に活躍できるという場があることが、ものすごくうらやましく、また悔しいと思った。
両親がLINEで夫に祝福の言葉を送る中、なにも送ることができなかった。
「おめでとう」が言えなかった。
周りはふだんの生活を続けている中で、自分だけが日常を失ってしまった感覚に陥ってしまった。
欲しかった“自由な時間”
友人にこの話を伝えた時、新藤さんは違和感を覚えた。
家族の幸せを祝うことができなくなった自分って、おかしいのではないか。変わってしまったのではないかと。
振り返れば、夫は何も言わずにすべて受け止めてくれていた。
自分が子育てにいっぱいいっぱいで、余裕がまったくなくなっていることに気づいた。
そして、友人が「産後ケア」を利用していたことを思い出した。
調べると、2泊3日で病院などに泊まれる宿泊型の産後ケアがあり、住んでいる区が助成していて、1泊5000円で利用できることを知った。すぐに利用した。
病院では1人になれる時間を作ることができた。
自分が食事するときや、お風呂の時に、看護師が子どもを預かってくれた。
ゆっくり休みたいと伝えても、預けられた。
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このとき、部屋で、1人になれる。
ひたすらベッドに横になって休んだ。
内祝いや保育園のリサーチ、乳児湿疹の対処方法、そして出産祝のお礼のメッセージの送信に、ようやく取りかかることができた。
なにかをするために作った時間ではなく、子どもと離れて、自分だけの自由な時間を作れたのがとてもうれしかった。
2023年に第二子が生まれたが、第一子の反省を踏まえて、宿泊型の産後ケアも利用し、家事代行など利用できる制度は手当たり次第、利用した。
ないなら、作ろう
新藤さんは2人の子育ての経験から、産後1年までの、子どもに一番手がかかる期間に母親へのサポートが薄いと感じていた。
活用した宿泊型の「産後ケア」も、アカウントの申請など必要な手続きをしたうえで事前に電話で予約する必要があるが、お金もかかり、病院も日常生活で気軽に行く場所ではなく、ハードルが高い。
もっと日常の中に、気軽に産後ケアができる場所はないのか。
去年12月に自分で調べたが、近くにはないことがわかった。
ないなら、作ろう。1日だけでも。
同じように苦しむ人がいるのであれば、多くの人が求めているんじゃないかと思った。
その日のうちに、イベントスペースの予約をとって内見した。
そのうちの1つに場所を決めた。
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場所が決まると、イメージがわいてきた。
目指したのは、大変な思いをした出産の後、体がぼろぼろになりながらも子育てをする母親が、予約など複雑な手続きは必要とせず、気軽に訪れることができて、体を休めたり自由な時間をもてたりする場所だった。
自分だったらどんなことがやりたいかリストアップし、マッサージや骨盤のストレッチ、託児スペースもつけようなどと考え、友達のつてをたどって人を集め始めた。
理学療法士などが集まり、希望のプログラムを作ることが出来た。
それでも、会場費で25万円、ベビーシッターへの依頼で10万円、チラシや広告作りなどで10万円、合わせて45万円かかった。
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イベントの打ち合わせ
すべて、手出し。
周囲からは「そんなにお金だして大丈夫なの?」といった心配の声が多く聞かれたほか、夫からも「家計が火の車」と言われた。
それでもやめようとは思わなかった。
母親に自由な時間を
ことし3月、1日だけの産後ケアのイベントが東京・上野で開かれた。
24組、40人が参加してくれた。
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訪れた母親たちは入り口の託児スペースに子どもを預け、自分の興味あるブースに座り、マッサージなどを受けていた。
参加者はみんな笑顔だった。
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手探りで開催したイベントだったが、訪れた人たちへのアンケートで全員が「また開催があればぜひ参加したい」と答えてくれた。
29歳女性
「託児を用意してくれたので気軽に参加出来ました。私も夫が塩をテーブルにこぼすだけでイライラするようになってしまって、日々時間がないので、こういう1人になる時間ってとっても大切だと思います」
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32歳女性
「港区に住んでいますが、Instagramで流れてきたので来ました。産後の体がきつく、5か月と3歳の子どもがいて腰も肩も痛いです。そんな中で、自分も母親向けにこういうイベントを開きたいと思っていたタイミングでした。託児があるのもすごいいい取り組みだと思います」
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参加者同士が交流する場面もあった。
産院が一緒だったということで、今度ランチを一緒に食べる約束を取り付けていた人たちもいた。
新藤さんは、母親が癒やされる場だけではなく、母親同士のコミュニケーションにつながったことがうれしかったと話す。
新藤裕理さん
「お母さんたちが子育てに前向きになれるような場所をつくりたい。前向きになるためには、やっぱりお母さん自身が満たされていないと前向きになれない。だけど、自分時間をつくって育児頑張ろうと前向きになれるような場所が、私の周りではなかった。子どもと一緒に楽しめる場はあったが、お母さんがしんどい時に、癒やされたり休めたりする場所がなかった。過ぎてしまえば、あのとき大変だったけど、愛しい時間だったと思う。そうなんだろうなと思うけど、その渦中にいると、そうは思えない。数年しかないスペシャルな時間をどうやって前向きに素敵な時間って思えるようになるかって、親に余裕がないといけない。だからこそ、お母さんのケアを大事にしたほうがいいと思った」
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産後ケア事業実施の自治体は8年で50倍に
改正母子保健法の施行で2021年度から「産後ケア事業」の実施が「市区町村の努力義務」となり、2022年度時点では1462の自治体で実施されていて、8年で50倍になりました。
背景には、産後うつや虐待の予防があります。
出産後まもない母親を対象に、2022年度は全国の約86.3%の自治体でエジンバラ産後うつ病質問票という調査が行われています。
合計点数は30点で、日本では9点以上の場合に産後うつのリスクが高いとされていて、約9.9%の母親が9点以上でした。
産後ケアはこうした退院直後の母親と子どもに対してサポートを行い、産後も安心して子育てができる支援体制の確保を目的としています。
より手軽に手続きできるように
産後ケア事業は大きく3つにわけられます。
① 医療機関などに数日間入所して心身のケアを実施する「短期入所型」
② 医療機関などで日中に実施する「通所型」
③ 利用者の自宅に助産師などが訪問して実施する「居宅訪問型」
野村総合研究所がことし3月に公表した調査結果によりますと、利用料金は、短期入所型は1日につき1万5000円~1万8000円ほど、通所型は5000円~9000円、訪問型は5000円~6000円ほどが平均的な価格になっているということで、利用者は自治体からの補助を利用することが出来ます。
また「産後ドゥーラ」というサービスも広がっています。
産後ドゥーラは母親を支援する経験豊かな女性のことで、自宅に訪問して、家事の手伝いから育児まで、子育て世帯をサポートします。
一般社団法人ドゥーラ協会によりますと、助成を出す自治体が広がっていて、割安で利用することができるということです。
東京都内では2023年度時点で14区と4市が補助を出しているということで、協会によりますと品川区が手厚く、利用しやすくするために引っ越した人もいるということです。
ただこうした事業を利用するためには「予約」といった手続きが必要です。
人気の事業は産前に予約しないと利用できないこともあり、SNSでは、そもそも手続きをする気力がないという声が多数あがっています。
新藤さんが開いたイベントは、こうした声に応えようとしたものでした。
しかし50万円もかかるイベントを繰り返すことは経済的にできず、新藤さんは今回のイベントを実績にして、持続可能な形での継続した開催を目指しています。
新藤裕理さん
「イベントに参加してくれたお母さんから、すごくうれしい声をもらったので、続けたいというのがある。常設でできればと思っているんですが、まずは季節毎にこういう場所があるというのを伝えていければいいと思っている。クラウドファンディングなのか、スポンサーや協賛なのか、サポートいただけるのか、というところは思案中ですが、持続可能なかたちで続けていきたい」
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