人に優しく、心豊かに ~武本康弘さん~

その方の自宅には、いつも花が飾ってありました。武本保夫さんと千惠子さん、事件で亡くなった武本康弘さん(47)の両親です。
ことし6月、兵庫県内の2人の自宅のベランダには、10年前に康弘さんから贈られたバラが、花を咲かせていました。千惠子さんは「ことしはダメだと思っても、毎年必ず花を付けるんですよ」と笑顔を見せてくれました。そして「一番優しい子だったから」と呟きました。
(安藤文音 記者)

“常に新しいアニメーションの見せ方を考えていた”

子どもの頃の武本康弘さん

京都アニメーションを代表する監督の1人、武本康弘さんは、中国料理店を営む武本家の長男として生まれました。幼い頃から絵を描くことが大好きで、小学生の頃からオリジナルのマンガも作っていました。物静かな性格で、ひとつのことを一生懸命やりきる子どもだったといいます。いつも机で絵を描く息子の姿を見続けてきた両親は、高校時代の進路相談の時に初めて本人から「アニメの道に進みたい」と伝えられました。

 京都アニメーションで監督を務める武本康弘さん

専門学校を卒業後、念願だった京都アニメーションに入社した康弘さんは、30代の若さで監督に抜擢されます。会社の元同僚は、その仕事ぶりについて「当初から絵の天才だった。常に新しいアニメーションの見せ方を考えていた」と振り返ります。

武本康弘さんが手がけた作品

テレビアニメ「氷菓」や「らき☆すた」など、数々のヒット作を手がけてきた康弘さん。
どんな作品にも愛情を注ぎ、優しさとユーモアにあふれる作品を作り上げていきました。
事件後、現場には、康弘さんの作品に勇気づけられたという人が多く訪れていました。

同級生・三木さんの携帯待ち受け画面

高校時代の同級生、三木紀明さんは、康弘さんを“タケちん”と呼ぶほど仲の良い友人で、康弘さんが地元に帰省した時には、仲間同士で集まって旧交を温めてきました。康弘さんは、すでにアニメの世界で活躍していましたが、集まったときの様子は、高校時代と全く変わらず、もの静かで穏やかだったと言います。

友人の三木紀明さん
「才能もあり、努力家でもある“タケちん”が、もし事件に巻き込まれていなければ、もっともっと大きなクリエーターになっていたと思います。多くの人たちにも『そういうすごい人がいたんだ』と覚えていてほしい」

記事を手がかりに知った息子の仕事ぶり

 武本康弘さんの両親・保夫さんと千惠子さん

実は、保夫さんと千惠子さんの両親は、康弘さんからどんな仕事をしているのかは、あまり伝えられていませんでした。いつも多忙で、実家に帰省した時でさえも仕事を持ち帰っていたという息子を、2人は静かに見守っていました。「いつが暇なの?と聞くと、『暇な時はない』と言っていました。正月にみんなでテレビを見ていても、1人、懸命に絵を描いていました」2人の言葉です。

それでも10年ほど前のある日、アニメの専門雑誌に康弘さんが特集されているのを親戚から教えてもらい、千惠子さんは急いで近くの本屋さんに買いに行きました。そこには康弘さんのインタビュー記事と手がけた映画が公開されるという情報が載っていました。
「どんな仕事をしているか知りたい」2人は神戸まで映画を見に行ったといいます。
映画は若者向けの作品で、会場には若い人ばかり。2人は場違いだと感じたそうですが、エンドロールで「監督 武本康弘」という名前を見つけてうれしかったと振り返っていました。後日、康弘さんに映画を見に行ったことを伝えると、それ以降、新作映画が公開される度に、招待券を2枚贈ってくれるようになりました。
10年ほど前に発売されたこの雑誌を、両親はいまでも、インタビューページに付箋を付けて大切にしています。

『武本監督がいるから京アニに入りました』

事件後の去年9月、京都アニメーションで会社のお別れ会がありました。
両親はそこで会社からひとつの箱を受け取りました。
中には、生前に康弘さんが描いた絵コンテや、会社に提出した資料、同僚が作ってくれた写真のアルバム、後輩が描いた肖像画など、数々の遺品が詰まっていました。
その中に、アニメーターの後輩たちに講義を行う康弘さんの映像が残されていました。
一緒に見せてもらうと、映像の中の康弘さんは、短いカットや1つ1つのセリフにこだわることの大切さを繰り返し、熱心に伝えようとしていました。
食い入るように映像を見ていた保夫さんは、「厳しいな」とポツリ。「アニメってもうちょっと簡単なものかと思っていたけれど、大変な仕事なんだな」と感心していました。私には、初めて見る職場での息子の姿が、2人にとって誇らしいように見えました。
千惠子さんはお別れ会で後輩の女性にかけられた言葉も忘れられないと話してくれました。

母の千惠子さん
「若い女の子があいさつに来てくれて、『武本監督がいらっしゃるから、私は京アニに入ったんです』って言ってくれたんですよ。そんなにまで尊敬される存在だったのかと思って、嬉しくてね。だから同僚や後輩に『康弘の分まで仕事を頑張ってね』と伝えたんです」

「人に優しく 心豊かに」

ことし6月、両親の自宅には、これまでなかった仏壇がしつらえられていました。この1年、「何をしたら亡くなった息子が喜んでくれるのか」と考え続けてきた保夫さんが、自ら木を彫るなどして作りあげていました。そして、仏壇には康弘さんの遺影とともに、「人に優しく 心豊かに おしまれて 死す」という言葉が刻まれていました。
この言葉、保夫さんが「こういう生き方をして欲しい」と子どもたちに贈った言葉です。
康弘さんは、この言葉を気に入って、額に入れて自宅の玄関に飾っていたそうです。
また、仏壇には、1年近く経っても康弘さんの遺骨が残されたままでした。千惠子さんは「骨でもあの子が私の傍にいると思える」と、納骨せず手元に置いていました。
仕事に妥協せず、常にアニメの新しい表現や見せ方を模索していたという康弘さん。最後にその仕事ぶりを息子が残した痕跡から知った両親の言葉を記します。

「京アニを選んで間違いなかったんだなと思います。そこに就職して、自分の思うことできたんやから、幸せと違いますか。あの子のすべては今までの作品に込められている。これからも京都アニメーションには、あの子の貫いてきた信念を生かして、若い人に勇気を与えるような作品づくりを期待しています」。