あなたを忘れない 津田幸恵さん

私がその男性と初めて会話を交わしたのは、事件が起きた翌日の7月19日でした。現場周辺で聞き込みを続ける中、男性は「娘を探している。携帯電話に何度も電話しているけれど、つながらない」とつぶやきました。
男性の名前は、津田伸一さん(70)。事件現場の京都アニメーション第1スタジオで働いていた長女の幸恵さん(41)の安否を知りたいと、自宅のある兵庫県から駆けつけていました。
(関谷智 記者)

父が語る幸恵さんのアニメへの真摯な思い

翌日、自宅を訪れると、父・伸一さんは、自宅にあげてくれました。そして、まだ安否もわからない状態の中「娘のことを知ってほしい」と、幸恵さんの思い出を語ってくれました。その話をきっかけにして、私は、今回の事件で命を落としたクリエーターの、アニメへの真摯な思いを知ることになります。

津田幸恵さん

幸恵さんは4人兄弟の長女として、兵庫県で生まれました。「幸恵」という名前は「平凡で目立たなくても、たくさんの幸せに恵まれますように」という願いを込めて伸一さんが名付けました。
幸恵さんは幼いころ、ぜんそくの影響で激しい運動はできませんでした。幼少期から発作が起きて咳き込み、息ができずに苦しむことが何度もありました。クラスでもほとんど目立つことがない、おとなしい子どもで、学校から帰ると、すぐに好きなアニメを見て、1人で机にかじりつき、鉛筆や色鉛筆を握りしめて、好きなキャラクターを黙々と描いていたといいます。

幸恵さんが子どもの頃に色づけした作品

成長とともにぜんそくの発作が収まるにつれ、幸恵さんは自分の将来を真剣に模索していくようになりました。中学や高校時代には、当時好きだったアニメ「るろうに剣心」や「幽☆遊☆白書」などのキャラクターの絵を描いたり、着色したりするようになりました。好きなことが見つかると、とことん追求する性格の幸恵さん。アルバイトでお金をため、着色に必要な絵の具や、1万円以上する専門の機材を自分で買って、着色技術を学びました。高校卒業前には、将来はアニメに関係する仕事がしたいとはっきり決めていたといいます。

高校卒業後は、大阪にあるアニメ制作の専門学校に、自ら進路を決めて進学し、パソコンを使った彩色技術などについて学びました。幸恵さんはこつこつと努力を重ね、色彩に関する検定にも合格するなど、デザインや色についての深い知識を身につけていきました。
そして、1998年、京都アニメーションに就職しました。

伸一さんによると、京都アニメーションに就職してから、幸恵さんはだんだんと明るくなり、顔つきも変わっていったといいます。
趣味でつながった友人と、テレビドラマの作品のロケ地を旅行したり、応援している歌手兼声優のライブに行ったりすることが増え、伸一さんに旅行の話をしたり、土産を買ってきてくれることも多かったといいます。特に伸一さんの妻が2年前に病気で亡くなってからは、1人で暮らす伸一さんを気にかけて、ときどき電話して様子を聞いてくれたり、好みにあった食品など、日常生活で使うものを買ってきてくれたりしたといいます。

津田幸恵さんの父 伸一さん
「お盆や正月に実家に帰った時には、いつも大好きなアニメの仕事について楽しそうに話してくれた。小さいころはつらいことが多かったが、京都アニメーションに入社して本当に好きな仕事をしていたから、気持ちも前向きになっていったと思う」。

美しい映像表現を支えた幸恵さん

事件によって、命を落とした幸恵さんが、京都アニメーションでかなえようとしていた夢は何だったのか。伸一さんの話を聞いた後、私は、幸恵さんとゆかりのある人たちへの取材を重ねました。アニメ関係の仕事につきたいという夢をかなえた当時のことを、幸恵さんの2歳年下の妹が覚えていました。

幸恵さんの妹
「当時の京都アニメーションの本社には、就職が決まったときに、母親と私と姉と、3人で挨拶に行ったのを覚えています。まだ会社は小さくて、こぢんまりとやっている会社だなと思いました。雰囲気はアットホームで、優しい人たちがたくさんいたという印象です。姉は好きなことを仕事にできるということで、とてもうれしそうでした。これから頑張るぞという意欲に燃えていたと思います」

幸恵さんが色づけした作品

かつての同僚だった上宇都辰夫さんは、幸恵さんの仕事ぶりや職場での様子を教えてくれました。幸恵さんは京都アニメーションで「仕上げ」の仕事を長く担当していました。「仕上げ」はアニメのキャラクターなどの色づけが主な仕事で、肌や目、それに服の色などを、速く正確に色づけしていく仕事です。しかし、「仕上げ」の役割は、絵に色をつける「塗り絵」とは違います。絵を理解し、動きに合わせた正しい塗り分けをするための、たくさんの知識と技術が必要です。また、作品の雰囲気を損ねずに、いかに求められた表現をできるかが大切で、まさに、文字通り、アニメを“仕上げていく”重要な役割を担っています。

幸恵さんは入社当初、「セル」という薄くて透明な板に絵を転写して、専用の絵の具で色をつけていく作業をしていました。しかし、業界が徐々にデジタル化していくにしたがって、「デジタルペイント」や「特殊効果」と呼ばれる、パソコン上での彩色作業が主な仕事になっていきました。
「デジタルペイント」では、キャラクター上の色づけしたい場所にカーソルを置き、色を指定する工程を繰り返して、色をつけていきます。服や髪などのカゲを表現するために、明るくする部分と暗くする部分の塗り分けなどを行います。「特殊効果」は、絵に立体感や質感を与える役割です。たとえばキャラクターのほほの赤い部分を表現するためにぼかしを入れることができます。また、動きのスピード感や風なども表現することができます。幸恵さんは、キャラクターの瞳の中まで、細かな色を塗り分け、光の表現にもこだわるなど、繊細さが求められる世界の中で、1枚ずつ丁寧に仕上げていきました。さらに、仕事が正確で、手際も良く、入社前からパソコンに詳しかったため、アニメ制作のデジタル化にも対応して、会社にとって欠かせない存在になりました。
幸恵さんはこどもの頃から好きだった「犬夜叉」のほか、「名探偵コナン」、「クレヨンしんちゃん」などの人気作品のほか、「Free!」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」、「響け!ユーフォニアム」など、京都アニメーションが制作した多くの作品に関わり、美しい映像表現を支えました。

元同僚の上宇都辰夫さん
「経験を積むにしたがって、デジタルペイントでは、ひと月に2000枚ほどを仕上げていた。入社すぐの新人が、ひとつき500枚くらいのペースなので、4倍の早さ。まさに驚異的なスピードで彩色をこなしていた。ミスをしないよう細心の注意を払いながら、正確に、そしてまさに目にもとまらぬ早さで色をつけていく様子は、同じクリエーターとして尊敬の念を覚えた」

幸恵さんは仕事と平行して、色彩や絵の勉強も続けていました。
さまざまな絵画に興味を持ち、残された遺品の中には、アメリカの画家クリスチャン・ラッセンをはじめとする色彩豊かな絵画が、多数ありました。さらに、2つの絵画サークルに所属していたほか、キャラクターデザインや色彩に関する専門書がいくつもの段ボール箱に、ぎっしりと入っていました。
京都アニメーションが発行した「私たちは、いま!!全集2017」には、幸恵さんが今後の仕事の抱負についてコメントしています。

「特殊効果の仕事もしながら、スキャン、ペイントとして変わらず続けていきたい。腕と感覚を磨き続けることを忘れずに」。

あなたを忘れない

「幸恵との大切な思い出は、ずっと心の中にあるんです」父・伸一さんの言葉です。
その、大切な思い出の1つがお酒です。10年ほど前、年末に帰省した幸恵さんが、初めて伸一さんの好きな京都伏見の日本酒とぐい飲みを、一緒に飲もうと買ってきてくれました。しかし、その時、伸一さんは胃の調子が悪く、お酒を飲むことができませんでした。察した幸恵さんは、そっとお酒を引っ込めて、伸一さんの自宅に置いて帰りました。伸一さんはその時「悪いことをした」と、ずっと思ってきたといいます。そして、胃の調子がよくなったら、幸恵さんとそのお酒を飲みたいと、大切に保管していました。そして去年、胃の調子もよくなってきたため、幸恵さんが帰省する予定だったことしのお盆に、お酒を一緒に酌み交わそうと考え、その時を楽しみに待っていました。
そんな伸一さんのささやかな希望も、去年7月の事件で、無残にも断たれました。
伸一さんは、ある思いを話してくれました。

津田幸恵さんの父 伸一さん
「幸恵は、京都アニメーションで明るく、やりがいをもって働いていました。京都アニメーションが、そういう、ほんとうにいい会社だということは伝えたいし、また再び、すばらしい作品をつくる一助になればと、私は取材を受け続けてきました。今後は、社長さんや社員の方の思い通りに進んでいったらと思いますが、しいて言えば、また新しいスタジオが事件とは別の場所に再建され、京都アニメーションが再び、素晴らしい作品をつくれるようになったらと思います」