証言 当事者たちの声亡き兄から”託された”こと~大阪クリニック放火事件1年

2022年12月16日社会 事件

医師だった私の兄です。

1年前、大阪の心療内科のクリニックが放火された事件で亡くなりました。

事件のあとになって、私は、クリニックの院長だった兄が苦しむ患者さんを救いたいと懸命に向き合っていたことを知りました。

そして、生きづらさを抱えながらも、懸命に生きている患者さんのことも知りました。

事件をきっかけに、いま、思うことがあります。

『困っている人にみんなが手を差し伸べる、そんな未来にしたい』

兄とともに妹の私が歩んだ1年の記録です。

まさか兄のクリニックで

1年前のあの日。

息子と昼食を取ろうとしていたとき、たまたまスマートフォンで見たニュースに目がとまりました。

「大阪北新地で火災」

「心療内科」

なんとなく嫌な予感がして検索すると、火災の現場は兄・西澤弘太郎が院長を務めるクリニックでした。

急いで兄の妻に連絡すると、「すでに現場に向かっている最中だ」と返答がありました。

一刻も早く現場に行かなければ。

食事には手を付けず、息子とともに外に飛び出しました。

現場に着くと、辺りには焦げ臭いにおいが立ちこめていました。

「西澤弘太郎の妹です」と警察や消防に伝えて、兄の姿を探しましたが、どこにも見当たりません。

まさか。火を使うような場所ではないし、誰かに火をつけられたのではないか。このとき、すでにそんな予感がしていました。

その後も探し続けましたが、結局、巻き込まれた人は搬送されたあとでした。

26人が犠牲になったこの事件。

兄と会えたのはその日の夜、場所は病院でなく警察署でした。

目を閉じる兄の顔は、いまにも起き上がりそうなほどきれいでした。

家族みんなが呆然とするなか、父親だけが「ようがんばった」と言葉をかけて、兄の頭や顔を繰り返しなでていたことを覚えています。

私は想像していた悲しみの表現は全くできませんでした。

泣き崩れるのではなく、ポカーンと、違う世界にいってしまったような感覚でした。

ひとり勉強に励む兄にエールを

兄とは4歳違い。

幼いころは一緒に遊んだり、けんかしたりしました。

子どものころ兄と

兄が得意だった「歴史」について教えてもらうこともありました。

兄が関東の大学に進学したとき私はまだ中学生で、離れて生活するようになってからは、医師になるための勉強に励む兄に手紙を送っていました。

兄は私からの手紙を大切に保管していたんです。

実家で遺品を整理していたとき、袋に丁寧に入れられた手紙をタンスのなかから見つけました。

私は手紙にこんなことを書いていました。

手紙
「この夏休みはお兄ちゃんと一緒にいれてとても²楽しかった。一緒に勉強したり、夜中TV見たり…。自分1人で勉強するよりよっぽどはかどりました。お兄ちゃんにはこのままずっと大阪にいてほしいです」

手紙
「なぜ伸子が手紙を書いたかというと、お兄ちゃんに勉強をすごく²大変だと思うけど、がんばってほしいから。来年には医師免許をとって!!お兄ちゃんなら必ずがんばって受かると信じている」

たぶん離ればなれになって、さみしかったから送ったんだと思います。

元々、私にはあまり関心のない兄でしたし、手紙の返事はありませんでした。

でも、ちゃんとこちらの気持ちを受け止めてくれていたんだなと知って、うれしかったです。

事件後に知った“医師としての兄”

互いに社会人になってからは忙しく、年に数回しか顔を合わせていなかったので、医師としての兄の姿を知ったのは事件のあとでした。

兄の白衣を見つめる

生前、兄はクリニックで、生きづらさを抱えた人たちや職場への復帰を目指す人たちに寄り添い、サポートしていました。

“患者思いの優しい先生でした”

“寄り添って辛抱強く話を聞いてくれました” 

ネット上には、兄がクリニックの患者さんに寄り添っていた姿が数多くつづられていました。

兄が働いているところを見る機会がなかった私は、兄がこんなにも患者さんたちに慕われていたこと、そして、その患者さんたちが事件のあとに新たな通院先が見つからず、不安な状況に置かれていることも知りました。

いまも兄の写真を大切に持ち歩いている

兄を慕ってくれた人たちのために

自分自身も医療に携わる仕事をしてきたなかで、兄だったら、残された患者さんのことをどう思うだろうか、すごく気にしているんじゃないかと想像しました。

自分にサポートできることが何かあるだろうか。

事件から3か月がたったころ、クリニックに通っていた患者さんたちが集まるオンライン交流会に参加することにしました。

「西澤院長に代わる存在として患者たちを支援してほしい」

事件前から患者さんたちを支援していた団体に背中を押され、動き出しました。

オンライン交流会に参加

毎週、近況報告や雑談をしあう交流会。

そこで初めて知ったのは、患者さんたちが孤独に苦しみ、社会からの冷たい目にさらされている現実でした。

クリニックに通っていた患者
「正直、精神科の病院に通っているというのをちょっと隠している部分がある。実際に僕の知り合いでも偏見を持っている人もいました」

支援者
「通院しているというだけで(容疑者と)同一に見られるという人もいる。自分が周りからそう見られてしまうんじゃないかと考えてしまい、外出しにくいようです」

私の心には、目の前の人たちの力になりたいという確かな気持ちが芽生えました。

自分が知らないところで、本当に多くの方が悩んで苦しんでいる。

兄のように病気を治すことはできないけれど、自分にできることだったら何でもやっていこうと思いました。

悲しいと思うこともありますが、そこに自分を置いていてはいけないなと思ったのです。

自信を持って向き合うために

患者さんに少しでも寄り添いたいと動き出したものの、専門的な知識がないまま会話をすることに怖さも感じていました。

多くの患者さんと接してきた専門家からカウンセリングを学ぼうと、ことし5月、私は兵庫県芦屋市の公認心理師・土田久美さんのもとを訪ねました。

公認心理師 土田久美さん

土田さんは兄の恩師で、私も兄が14年前に通った土田さんのもとで学ぶことにしたのです。

当時、兄は“より患者に寄り添った診療を行いたい”と通うようになったと聞きました。

公認心理師 土田久美さん
「西澤院長は、とにかく熱心でした。患者さんを診ているなかで、どうしても心の部分を診ていかないといけない患者さんが出てきていると。うつ病とか、会社でのストレスとか、あるいは介護の問題と、いろんなことが重なってしんどくなっている方たちを心の面のところもサポートしていかないといけないと話していました。患者さんの力になれることがあればという動機はふたりとも似てらっしゃるなと思います」

事件のあと、土田さんはかつて兄がここで学んでいた縁で、およそ10人の患者さんの相談に乗ってきました。

突然の別れに向き合い、気持ちを整理するため、患者さんが兄に宛てて書いた手紙を許可を得て見せてもらいました。

兄を偲ぶ手紙からは、事件後に患者さんが抱えていることが見えてきました。

「私はとてもさみしいです」

「夢枕に立たれた西澤先生のうしろ姿を描きました」

「道を開いてくれた先生、感謝しています。忘れません、僕の担当医・西澤弘太郎先生」

講座で学ぶなか、強く印象に残っていることがあります。

20世紀のオーストリアの著名な心理学者で、ナチスの強制収容所に送られ、家族を失う経験をしたV.E.フランクルの言葉です。
土田さんに教えてもらいました。

“窮地に立ったときでも、人間は本当に生きる意味を持っていたら強くなれる。患者さんと一緒に生きる意味を考えるのが使命だ”

自分の考え方にとてもよく似ていると感じました。

患者さんにどのように接したらいいのか、悩みながらも基礎的な講座を修了し、いまはより実践的な講座で学んでいます。

続く患者との交流

取材に応じてくれた、西澤院長の妹、伸子さんです。

伸子さん
「兄のなかでも苦労や大変な部分がきっとあったんだろうなって思います。患者さんから『(西澤院長から)きっと治るって言ってもらった』っていう話を聞いたときに、あ、すごいなと思って。どういう治療をして、どういう接し方をしていたかということを、兄から聞けていたら参考になったのになと思うことはあります。いまさら言ってもしかたないことですが、兄の働く姿を見たかったというのが正直な気持ちです。兄の足元ぐらいですけど、似たような誰かのためにっていうことの活動をできたらなと思っています」

11月下旬。

直接会うのはまだ早いのではないか。葛藤を抱えつつ、少しでも近くにいたいと患者たちを訪ねました。

大阪市内のレストランで集まったのは伸子さんと患者、それに支援者など8人です。

「画面上で見るのと全然違う」などと、和やかな会話が交わされていました。

お互いの悩みについても、自然と話題となりました。

会話は尽きず、会はおよそ2時間に及びました。

これまでオンラインでの交流を続けてきましたが、ようやく対面でき、参加者は次のように話していました。

患者

すごい安心感がありますね

患者

ここでしか共有できないものを一緒に分かち合える仲間だと思っています

はき出せる場があるっていうのが、すごい安心感があります。本音で話せるから。すごい大事にしたいですよね

支援者

患者との交流を続けたこの9か月。

事件をきっかけに始まったつながりが、孤独を抱える患者の心の支えになっていればと伸子さんは願っています。

悩みを抱える人の居場所づくりを

そしてもうひとつ、伸子さんが新しく始めたことがあります。

身近な人たちが気軽に悩みを打ち明けられる、そんな“居場所”を作りました。

大阪・堺市の公園内にある施設の一角で、毎週金曜日、希望する人がいれば、相談に乗っています。

取材に訪れた日、伸子さんは知人女性の話に耳を傾けていました。

女性は親族との関わり方について悩み、夏ごろから繰り返し相談に乗っています。

当初は自然と涙があふれることもあった女性ですが、いまでは、悩みを言葉にすることで自分が何に苦しんでいるのかに気がつき、少しずつ前向きなれているといいます。

伸子さん
「この1年で新たな関係性ができたのかなって私は思っています。続けてきたオンライン交流会を通しての信頼関係だったり、お話しするうえで何となく、ちょっとずつできてきたつながりがあって、ここからまたスタートするのかなって。きっと兄も一緒にここにいて、『よくやっているね』と言って、応援してくれていると思います」

まずは自分のできることから。

そして、ゆくゆくは、誰でも訪れることができる場所にしたい。

悩みや孤独を抱えたとき、兄のクリニックのように、安心して立ち寄ることができる場所が必要ではないかと伸子さんは感じています。

事件から1年 悩みながらも前に

事件からまもなく1年。伸子さんに率直な思いを聞くと、少し話しづらそうにしながら、それでも、ゆっくりと言葉にしてくれました。

伸子さん
「いま『つらいですか』って聞かれたら『いや、大丈夫です』って答えると思うんです。でも、改めて何回も自分に問うたり、兄の写真を見たりすると、やっぱりちょっとしんどいだろうと思うんです。そこに戻ることが…。戻りたくないっていう意識が働いて、見ないようにしているのかもしれないですね。
なんであの事件が起きたのかなって考えると、自分がいましているいろんなことをするための流れだったのかなっていうふうにも捉えたりするんです。自分と話をすることで、気が楽になってそういう輪がずっと広がっていって、優しくされた人がまた誰かに優しくできるっていう輪がつながっていったらいいなと思っています。困っている人に手を差し伸べることをみんなが意識してやっていけばいろんな事件は減るんじゃないかな。そんな未来が来ることを願って少しずつでも活動ができたらと思います」

多くの患者と向き合い、頼りにされ慕われていた西澤院長。

その思いは、新たな道を歩む妹の伸子さんのなかで、いまも生き続けています。

  • 大阪放送局記者 堀内新  2016年入局。大阪府警担当。
    クリニック放火事件を発生当時から取材。