いつも温かい料理を作ってくれた母。
今も思い出すのは台所に立つその後ろ姿です。
1人暮らしのアパートに手作りの料理を持ってきてくれたのが最後の思い出になりました。
あの日から10年。
悲惨な事故で涙を流す人を1人でも減らしたいと、母を失った地で私は「白バイ隊員」になりました。
亡き母への思いを胸に。
2022年4月27日事故
いつも温かい料理を作ってくれた母。
今も思い出すのは台所に立つその後ろ姿です。
1人暮らしのアパートに手作りの料理を持ってきてくれたのが最後の思い出になりました。
あの日から10年。
悲惨な事故で涙を流す人を1人でも減らしたいと、母を失った地で私は「白バイ隊員」になりました。
亡き母への思いを胸に。
2012年4月29日午前4時40分、群馬県藤岡市の関越自動車道で高速ツアーバスが道路脇の壁に衝突し、乗客7人が死亡、38人がけがをした。前橋地方裁判所は2014年、居眠り運転をして事故を起こした運転手に対し、懲役9年6か月の判決を言い渡した。
事故で母親を亡くした山瀬俊貴さん(29)が思いを語ってくれました。
当時19歳だった私は石川県の実家を離れ、岐阜県内の大学でスポーツ経営学を学んでいました。
大学2年生になって今後の進路について母に相談しよう、ちょうどそう思っていた頃です。
あの日。
野球の練習に行く前にニュースを見て、石川県から東京の方に向かっていたバスが事故を起こしたことは知っていました。
「お母さんがバスに乗っていた」
そう父から連絡があったのは、練習が終わったときだったと思います。
それでも“病院のベッドの上で笑顔でまた会える”としかそのときは思っていませんでした。
父と合流して群馬県に向かっている途中。
携帯電話で事故のことを調べていると、亡くなった人の中に「山瀬直美」の名前を見つけました。
「頭の中が真っ白」
そんな表現をよくしますが本当にそのとおりでした。
何も考えられない。
何をしていたのかもよく思い出せないという状態が実家に帰るまで続きました。
母と最後に会ったのは事故の1か月余り前の3月中旬。
1人暮らしをしていたアパートまで手作りの食事を届けてくれたときでした。
よく思い出すのも料理をしていたときの後ろ姿です。
部活を終えて帰ってきたときにいつも温かい食事を準備してくれていました。
大学生になってからはそこまで連絡を取っていなかったけれど、進学するときに後押ししてくれたのは母でした。
生活の中で迷ったことがあるとすぐに相談したのも母でした。
頼りになって、いざというときに支えてくれる存在。
そんな心のよりどころを私は突然失ったのです。
やりきれない悲しみが続く中、支えになってくれた人がいました。
事故の発生直後から被害者支援にあたっていた群馬県警の野澤篤広さんです。
当時、交通指導課に所属していました。
「一生かけてサポートするから」
そんな言葉をかけてくれたのも野澤さんでした。
大学にはもともとスポーツに関する仕事がしたいと思って進学しました。
でも事故のあと群馬県に足を運ぶたびに、私たち家族やほかの遺族に親身に寄り添ってサポートしてくれる警察官たちの姿を見て、自分も人の役に立つ仕事をしたいという気持ちが強くなっていきました。
「警察官になりたい」
事故から1年ほどたったある日、野澤さんに思いを伝えました。
驚いた様子でしたが、「なりたいなら応援する」と言ってくれたと思います。
私にとって野澤さんはもう1人の父親、“群馬の父”とも言える存在でした。
試験勉強は苦労しましたが、大学を卒業したあと2015年に群馬県警の警察官に採用されました。
「母がそばにいて見守ってくれる場所で仕事がしたい」
「群馬に何らかの形で恩返しをしたい」
生まれ故郷の石川県ではなく群馬県を選んだのは、そんな気持ちがあったからです。
そして交番勤務などを経て2019年、「小さな違反を見逃さず、事故を未然に防いでいきたい」と念願だった交通機動隊の白バイ隊員になることができました。
事故から10年となる4月29日を前に取材に応じてくれた群馬県警交通機動隊の山瀬俊貴さん(29)。
この10年について思いを尋ねると次のように話しました。
(山瀬俊貴さん)
「人生の中で10年というのはあっという間かもしれません。ただ事故を振り返るとまだ10年しかたっていないのかという気持ちにもなります。事故の後遺症やフラッシュバックで苦しんでいる人もたくさんいると思いますし、私自身きのう起きたことのように思い出すことも多くあります」
大学生だった10年前。
それから警察官になり、交番勤務、留置管理、交通機動隊と経験を少しずつ積んできました。
その間、人生の節目もありました。
結婚、そして長女が生まれたことです。
奪われた母親の命、そして生まれてきた新たな命。
事故の遺族として、警察官として、父として。
命の重みを改めて実感し、かけがえのない命を守りたいという思いがいっそう強くなったといいます。
(山瀬俊貴さん)
「子どもが生まれてきてくれたこと自体が本当にありがたくてうれしくて、家族を大切にしなければと感じています。事故を減らしたいというのは当然ありますが、ご遺族や被害者たちが私の姿を見て少しでも力や支えになればと常に思っています」
山瀬さんが警察官を志すきっかけになった“群馬の父”、群馬県警の野澤さん。
この4月に交通機動隊の副隊長に異動し、山瀬さんの上司となりました。
「ちょうど10年という節目のときに彼の上司として赴任する。偶然なんでしょうけど何かの縁だと思いました」
事故当日の夜、亡くなった人たちの遺体が安置された場所で初めて会った山瀬さんの姿を今も覚えています。
(群馬県警 野澤篤広さん)
「亡くなられたお母さんを思ってでしょうね。大声で泣きながら壁をたたいて悔しがっている彼の姿を見ました。
群馬で警察官になりたいと伝えてきたときには、『お母さんの魂がもしかしたら半分はこっちにあるかもしれないから、群馬県で野澤さんと同じように事故が減らせるような仕事がしたい』と言っていたのが印象深かったです」
警察官になるにはこういう勉強をしたほうがいい、こんな問題集を繰り返しやるんだ。
本当の息子に接するようにアドバイスしました。
遺族として支援にあたった若者が同じ道を志し、今では立派な1人の警察官に成長した。
一方で、山瀬さんにしかできないことがあるとも感じています。
(群馬県警 野澤篤広さん)
「数多くいる警察官の中で彼は自分自身が遺族なんです。つらい思いをして悲しみを10年たっても引きずっている遺族の1人です。
でも警察官としてこの地を選び、事故抑止のために群馬県民に交通安全を提供したいという気持ちで頑張っている。彼でなければ伝えられないことがもしかしたらあるのかもしれない」
そして“群馬の息子”に対して、率直な思いを語りました。
「人の心の痛みがわかる優しい警察官になってほしいし、そうあり続けてほしい」
白バイ隊員として日々、交通取り締まりにあたる山瀬さん。
違反をした人と接するわずかな時間もむだにしないよう心がけているといいます。
(山瀬俊貴さん)
「現場で違反した人と接することができるのは10分から20分という短い時間ですが、同じような違反をもうしないと相手が考えてくれるような取り締まりをしたい。“この白バイ隊員になら”と感じてもらえるような言葉をかけて指導したいと思っています」
そのうえで事故で亡くなった母を含む7人とその家族たちの無念を二度と繰り返さないためにもドライバーにこう呼びかけたいと話しました。
「自分で勝手に決めたルールや慣れが出てくると事故や違反につながる運転になる。もう一度“自分の運転は教習所で習ったとおりにできているか”“今の運転は教習所で合格をもらえるか”ということを考えてハンドルを握ってもらいたいです」
財布にはいつも母親の写真を入れています。
いま伝えたい気持ちを聞くとこう答えました。
「これからも見守っていてね」
前橋放送局記者
兼清光太郎 2015年入局
札幌局、帯広局を経て現在は群馬県警担当。
26年前、逆恨みした男に妻の命を奪われた弁護士。老いや病と向き合いながらも力を振り絞り、犯罪被害者のために声を上げ続けている。絶望から立ち上がり、日本の司法を変えた闘いの軌跡
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