証言 当事者たちの声なぜ、娘が犠牲に “危険なバス停”をなくしてほしい

2021年12月9日事故

3年前、横浜市で10歳の女の子が交通事故に遭い、亡くなりました。

自宅近くのバス停で、バスを降りた直後、道路を渡ろうとしたときのことでした。

横断歩道の上にバスが停車し、道路を渡る女の子の姿を隠してしまったのです。

「2度と同じ事故を繰り返さないでほしい」

母親は、願っています。

(横浜放送局記者 豊嶋真太郎)

バスが横断歩道をふさいだ

事故が起きたのは、夏休みが終わったばかりの2018年8月30日でした。

昼までの授業が終わった放課後。

当時小学校5年生だった渡辺ゆり愛さんは公園で友達と遊んだあと、バスで帰宅しました。

バスを降りたのは、自宅からおよそ300メートル離れたバス停でした。

道路を渡ろうとしたゆり愛さんは、バスの対向車線から走ってきた軽ワゴン車にはねられてしまったのです。

病院に運ばれましたが、その後亡くなりました。

かけがえのない娘だった

突然娘を失った事故から3年。母親が自宅で取材に応じてくれました。

リビングの棚には、ランドセルや学習道具などがそのまま残されています。

ディズニーランドが好きだったゆり愛さんのために、姉が遊びに行くたびに、人形などを買ってくるそうです。

自分でレシピを考えたピザや、味噌汁をよく作り、家事を手伝ってくれたといいます。

ゆり愛さんの母親
ゆり愛の名前には、『ゆりのようにかわいらしく、誰からも愛される子に育ってほしい』という願いを込めました。名前の通り、いつも友達に囲まれていました。

お風呂掃除やお皿洗い、エアコンの掃除まで手伝ってくれました。

母の日にはいつも花をプレゼントしてくれて、しょっちゅう、『ママ、大好き』と伝えてくれました。元気いっぱいの頼りになる子でした。

かけがえのない、自慢の娘でした。

事故はこうして起きた

こちらの画像は、事故があった現場です。

住宅や学校が建ち並ぶ地域です。

道幅は狭くセンターラインはありませんが、抜け道になっていて、交通量が多い道路です。

画面の左奥、〇枠で囲ったところにバス停がありました。

横断歩道はありましたが、画像のように停車中のバスの車体でふさがれてしまう状態でした。

ゆり愛さんはバスの後ろを回って道路を渡ろうとして、事故に遭いました。

対向車の軽ワゴン車から見ると、横断中のゆり愛さんの姿はバスの陰に隠れてしまっていたのです。

車の運転手は逮捕され、有罪判決を受けました。

“危険なバス停”はなぜできたのか

横断歩道とバス停が離れた場所にあれば、事故は防げたのではないか。

横浜市交通局によりますと、現場のバス路線は、1963年に開設。バス停が設置された正確な時期はわかりませんでしたが、同じ頃だったとみられるということです。

横断歩道ができたのは、8年後の1971年でした。

バス停ができた頃には横断歩道はありませんでしたが、その後周辺の開発や道路の整備が進んだため、設置されたとみられるということです。

神奈川県警は1997年から、バス事業者に対し、信号機のない横断歩道の近くにバス停を設置する場合は、30メートル前後離れた場所にするよう指導しています。

しかし、それより前に設置されていたバス停は対象外でした。

事故が起きるまで、50年近くも危険な状態が続いていたのです。

“危険なバス停” 全国に1万か所以上 改善は1割

事故をきっかけに、国土交通省が全国のバス停の調査を始めました。

危険度の高い順にAからCの3段階に分類しています。

Aランク
バスが停車した時に横断歩道に車体がかかるか、過去3年以内に人身事故が発生

Bランク
停車したときに交差点に車体がかかるか、横断歩道から5メートル以内に車体がかかる

Cランク
交差点から5メートル以内に車体がかかる

これまでの調査で、こうした“危険なバス停”が全国に1万381か所あることがわかっています。

しかし、バス停の移設といった対策が実施されたのは1400か所で、全体のおよそ13%にとどまっています。(2021年9月末現在)

“危険なバス停” なぜなくせないのか

打越橋バス停(横浜市中区)

なぜ対策が進まないのか。横浜市中区にある打越橋バス停を訪ねました。

斜面に住宅街が広がっています

事故が起きたバス停と同じように、横断歩道のすぐ近くに設置されています。

バスが停車すると、車体が横断歩道をふさいでしまいます。

道も狭く、歩道も通りにくくなります。

バス会社も危険性を認識し、複数の候補地をリストアップして検討してきましたが、移設には住民の理解が不可欠です。

しかし、道路が狭く候補となる場所がもともと少ないうえに、近隣住民から同意も得られず、そのままになっています。

現在、横断歩道をなくす方向で検討が進められています。

バス会社
担当者

自宅の目の前で乗り降りすることに、抵抗感がある人も多く、交渉は大変です。

この1年は新型コロナのため、地域の人たちとの話し合いもできずにいます。

バス停の周辺にはお年寄りも多く住んでいます。

交通手段として欠かせないという人も多く、「バス停が移ると困る」という声も聞かれました。

国や警察、バス会社・自治体などに取材すると、住宅街の狭い道を走る路線など、そもそも移設できる場所がないバス停もあるほか、打越橋バス停と同じように、移設する候補地はあっても住民の同意が得られず、進まないところも多いとのことでした。

“危険なバス停”なくすためには

交通政策に詳しい名古屋大学大学院環境学研究科の加藤博和教授に、“危険なバス停”ができた背景や対策を聞きました。

名古屋大学大学院
加藤教授

バス停と横断歩道が近くにある状況が生まれたのは、バスを降りた乗客がすぐに道路を渡ることができるようにとの配慮があったのではないかと考えられます。

設置当時はそこまで問題がなかったバス停が、周囲で暮らす人が増え、交通量やバスの利用者も増加する中で、“危険なバス停”になっていったことも考えられます。

“危険なバス停”で事故が起きなかったことは、ある意味、偶然だと考えたほうがいいと思います。

利便性を大きく損なわず、安全なところがどこかないか、考えていくべきだと思います。

場合によってはバス停の手前に信号機を設置するなどの対策もあります。

一方で、バス停は地域の人たちにとっては貴重な交通手段になっているため、無理な移設や廃止は避け、十分に議論を重ねるべきです。

バス停の対策だけでは不十分。

車を運転する人はバス停に止まっているバスを追い越したり、すれ違ったりするときは、人が出てくるかもしれないと思って徐行したり、止まったりすることが必要です。

事故から時が止まっている

事故の知らせを受けて頭が真っ白になり、そのときのことを今でもよく思い出せないというゆり愛さんの母親。

今の思いを手紙につづってくれました。

ゆり愛が亡くなった時は、現実味がありませんでした。何が起きてしまったのかとよく覚えていません。時々、未だに本当に死んでしまったのかと思う日があります。

いつも飾っている写真は、まだ見ることができますが、時々違う写真を見ると涙があふれてきます。学校からの帰宅時間になると戻ってこないゆり愛を感じながら、現実を受け止めます。

ゆり愛に会いたいです。抱きしめたいです。声が聞きたいです。世の中は時が進んでいくのでしょうが、私達はあの日から、時が止まっています。

悲しみは、だんだんと強まり、癒やされるものがありません。いつも深い悲しみの中です。この取り戻せない喪失感、絶望感は愛する大切な人を失った人しか理解できないと思います。

私達は一生死ぬまで苦しみ、悲しみながら生きていかなければならないのです。

どんなに苦しい毎日か(事故の加害者は)自分が犯してしまった罪の重大さを知って欲しいです。

本当にこのような事故が二度と起きないよう再発防止を徹底していくことを願います。

取材後記

取材中、私の地元にも危険なバス停があるのだろうかと気になって調べてみたところ、学生時代に使っていたバス停が国交省のリストに掲載されていました。

とても驚くとともに、自分の生活の身近にある問題なのだと改めて感じました。

※“危険なバス停”の場所や危険度は、各地の運輸局や運輸支局のホームページで公開されています。

事故が起きたバス停 その半年後にバス停が移設された

ゆり愛さんが亡くなった事故から半年後、現場のバス停の位置が変更されました。

画像は現在のバス停の様子です。
バスの30メートル余り手前に、横断歩道があります。

移設後、バスが横断歩道をふさぐことはなくなりました。

ゆり愛さんの母親は「どうしてゆり愛が事故に遭う前に動かせなかったのか」と話していました。

難しいことではありますが、事故が起きてからではなく、事故が起きる前に対策を取れなかったのかと思わざるをえません。

特に心に残っている母親のことばがあります。

「子供の命は社会が、大人が守ってやらなければいけない」

二度と尊い命が失われることがないように、今後も取材を続けようと思います。

  • 横浜放送局記者 豊嶋真太郎 令和元年入局
    横浜放送局で警察や司法の取材を担当
    11月から小田原支局で勤務

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