“逮捕しました”
息子の命が奪われてから10年10か月経ったある日。突然、捜査員から電話がかかってきました。
父親は、紙に『逮捕された』と書いて、そばにいた母親に見せました。
リビングで目線と同じ高さに置いてある息子の遺影。
10年以上、見つめ続けてきました。
「息子のためにできることはなんでもやってきた」
父親が思いを語りました。
(神戸放送局記者 唐木駿太)
2021年11月4日事件
“逮捕しました”
息子の命が奪われてから10年10か月経ったある日。突然、捜査員から電話がかかってきました。
父親は、紙に『逮捕された』と書いて、そばにいた母親に見せました。
リビングで目線と同じ高さに置いてある息子の遺影。
10年以上、見つめ続けてきました。
「息子のためにできることはなんでもやってきた」
父親が思いを語りました。
(神戸放送局記者 唐木駿太)
電気工事業を営んできた、神戸市北区の堤 敏さん(62)。
平成22年、高校2年生だった息子の将太さん(当時16)を亡くしました。自宅近くの路上で何者かに刃物で刺され、殺害されたのです。
堤さんがいつも座っている自宅のリビングの席。正面の出窓には、将太さんの遺影が置かれています。
堤さんの目線とちょうど同じ高さ。10年以上、亡き息子を見つめ続けてきました。
堤さん
「将太のことを考えると『ああすればよかった、こうすればよかった』と思い返すことばかり。だからずっと向き合っているんです」
容疑者逮捕のしらせを受けたのは今年8月4日の昼前。顔なじみの捜査員から自宅に電話がかかってきました。
「逮捕しました。愛知県で逮捕しました。私も今、愛知にいます」
電話をしながら、目の前にあったファックス用紙にボールペンで『逮捕された』とだけ書いて、妻に見せました。電話を切った後、しばらく言葉が出てきませんでした。
夜になってからニュースで報じられ、初めて事件が動いたことを実感したといいます。
堤さん
「一報を聞いたときは頭が真っ白になりました。『本当だろうか』と。
その日は、妻と一緒にずっとテレビを見ていましたが逮捕のニュースはないので、本当に捕まったのだろうかと2人で思っていました」
夜、逮捕が報じられると自宅にはあちこちから電話がかかってきました。将太さんの友人たちが手を合わせたいと自宅に来てくれました。
逮捕されたのは愛知県に住むパート従業員の元少年(28)。事件の前に高校を中退し、県外から現場の近くに引っ越してきた人物でした。
「容疑者の名前も顔もニュースで報じられない。何かすっきりしない。どう気持ちを持っていけばいいのか、今も苦しんで、のたうち回っています」
去年「人を殺したことがある」と話す人物がいるという情報が警察に寄せられ、捜査が進んだのです。
事件に似た小説を書いて電子書籍で一時公開していたこともわかりました。
現在、刑事責任を問えるかどうか、精神鑑定が行われています。
事件が起きたのは、平成22年10月4日の夜。
テレビ番組を見終わった将太さんは、「友達の家に本を取りに行く」と言って、自宅を出ました。
「はよ帰ってこいよ」と声をかけたのが最後のやりとりでした。
堤さんは「どんな理由でもいいから強く止めればよかった」と振り返ります。
午後11時ごろ、将太さんは近所の路上で友人の女子中学生と2人でいたところ、刃物を持った男に突然刺され、亡くなりました。
17歳の誕生日を迎える6日前でした。
警察によりますと逮捕された元少年は、女子生徒と一緒にいる将太さんをたまたま見かけ、腹を立てたという趣旨の供述をしているということです。将太さんと面識はなかったとみられています。
堤さんは、この前後の記憶はあまりないと言います。
将太さんは4人きょうだいの末っ子でした。
小学4年生から打ち込んだのは野球。
兄とキャッチボールをしたり素振りをしたりするなど、練習に励みました。
高校は甲子園出場経験もある兵庫県内の強豪校に進学しました。
しかし、チームには有力選手ばかり。監督から「卒業まで球拾いかも」と言われ、断念しました。
堤さん
「その後も野球は変わらず好きで、プロ野球の選手名鑑をよく読んでいました。卒業した中学校の野球部に呼ばれて、後輩たちの練習の手伝いもしていました。
今でも将太の姉が毎年、新しい名鑑を買って供えています」
父親の堤さんはラクビー好き。野球部に入らなかった将太さんにラグビーを勧めましたが、「ルールが分からないから」と断られました。
ラグビーに打ち込んでいたら、あの日、部活で忙しくて夜、出かけなかったかもしれない。堤さんは「強く勧めて、将太がラグビー部に入っていたら、事件に遭わず、違う人生を歩んでいたかもしれない」と今も後悔しています。
そんな将太さんは、事件の数か月前の高校2年生の夏休みに、堤さんの電気工事の仕事を手伝いました。職人たちともすっかり打ち解けて仲良くなりました。
「おとんの仕事を継ぐのもいいかもな」
将太さんはそう話すようになったといいます。
堤さん
「うれしかったですよ。一緒にバイクを組み立てたりもしたんですよ。生きていたら28歳。どんな大人になっていたか」
私(記者)は将太さんと同い年です。
堤さんの心にしまってある将太さんとの大切な思い出を聞いていたら、私も胸がいっぱいになりました。
事件の後、悲しみにくれる堤さんはいわれなき中傷を受け続けてきました。
堤さんは私に1冊のファイルを差し出して見せてくれました。インターネットの掲示板の書き込みを印刷したものです。
「ヤンキー、暴走族」
「こんなヤツ死んで当然」
「バカだから死んで良かったんじゃないの?」
私は、あまりのひどさにことばを失いました。
堤さん
「息子のことをもっと知りたい、もしかしたら容疑者につながる情報があるかもしれないという思いでパソコンを開いたらこんなんばかり。
頭にきて全部プリントアウトしたら何冊にもなった。これは一部です」
SNSのプロフィール写真が茶髪だったこと。バイクが好きだったこと。事件が起きたのが深夜だったこと。
それだけで『ヤンキー』『暴走族』と決めつける書き込みでした。
堤さん
「夏休みとか冬休みとか、長期休みに友達と家で髪の毛を染めていたけど、学校が始まったら黒に戻していました。遊びたい盛りの本当に普通の高校生だったんです」
「うちの息子の何を知っているんだ。おそらく面識もないのに。何でこんな事言われなあかんの。腹が立ったし、傷ついたよ」
息子を失った悲しみ。さらに追い打ちをかける中傷。「あのときああすれば良かった」と後悔が募りました。
そんな日々の支えになってくれたのは、将太さんの友人たちです。
将太さんの通夜や葬儀にはのべ1500人が参列。その直後に迎えた将太さんの17歳の誕生日にも自宅に集まってくれました。毎年、命日には訪ねてくれます。
「将太が好きだから」とコーラを買ってきて供えてくれる友人もいます。
「将太は本当に良い仲間を持っていた」と言う堤さん。
もう後悔しない。犯人逮捕に向けて「やれるだけのことはやってやる」と決意しました。
堤さんが始めたのは、情報提供を求めるビラ配り。自宅のコピー機で刷り、近所の住宅に配りました。
事件のあった10月4日には毎年、近くの駅前に立ち、情報提供を呼びかけるなど活動を続けました。
マスコミの取材にも、できる限り応じてきました。
堤さん
「犯人に『自首してくれ』とは思いませんでした。ずっとびくびくしていろと。絶対、捕まえてやると。だから、そこに向けて、自分でできることは何でもやってきたと思っています」
自首
・刑法42条に規定。罪を犯した者が捜査機関に自ら進んで申告し、処罰を求めること。容疑者が逮捕された今、堤さんは大学の通信教育で法律を学んでいます。
元少年だということで、少年法に関する本も読んで勉強しています。
さらに、時間を見つけては、神戸地方裁判所に通い、県内で起きた別の殺人事件の裁判員裁判を傍聴しています。
どんな手続きで裁判は行われるのか。遺族が発言する機会はどのようなものか。今後を見据えて準備を進めています。
堤さん
「10年10か月、捕まえるという意識だけで平静を保ってきたし、死ぬまで追っかけてやるという気持ちでしたから。
捕まったと聞いて、今は裁判に向けて『どうしたらいいんやろ』って将太に話しかけています。
事件を全部解明して、適正な処罰を科してほしい。それが将太への弔いになると思います。まだまだ頑張るし、一緒に頑張ろう、今はそういう思いです」
62歳の堤さん。
事件後の10年10か月をこう振り返ります。
「ぼくは人生の6分の1を犯人に奪われた」
愛する息子はもう帰ってこない。
それでも父親としてできる限りのことをやってやる。
堤さんは将太さんの写真に語り続けています。
神戸放送局記者
唐木駿太 平成29年入局
兵庫県警を担当し、事件事故を取材
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