証言 当事者たちの声小倉美咲さん母親の手記【全文】キャンプ場行方不明から2年

2021年9月20日事件 事故

山梨県道志村のキャンプ場で、小倉美咲さんの行方がわからなくなってから9月21日で2年になりました。

あの日のこと。学校に行けなくなったお姉ちゃんのこと。ひぼう中傷。

母親のとも子さんがこの2年間の思いを手記につづってくれました。

全文を掲載します。

(甲府放送局記者 宇佐美貫太)

大切な娘に突然会えなくなって、もうすぐ2年が経とうとしています。

「2年も経つんですね」そう言われることがつらいです。

私たち家族にとっては大切な美咲の行方がわからなくなって2年間、毎日つらく悲しい日々を過ごしてきました。

2年経つなんて考えられないし、考えたくもありませんでした。

しかし9月になって取材の依頼やチラシ掲示、配布の協力について連絡が多数あり、これだけたくさんの方が気にかけてくれていることに気付き、このつらく苦しい2年間希望を持ち続け、前を向き続けられたのも、たくさんの方の支えがあったからだと改めて思いました。

母親のとも子さんから寄せられた手記

2年前の2019年9月21日、私たちにとって大きく人生が変わってしまう出来事がありました。

21日に小学校の運動会が予定されていましたが悪天候が予想され、前日に9月24日への延期が決まりました。

そのため以前から友人に誘われていたキャンプに急きょ参加することになりました。

いつも横に私がいないと眠れない美咲も、前日の夜はキャンプが楽しみで長女と先に寝てくれました。

深夜、キャンプの準備が終わって子どもたちの布団を掛け直しながら「本当に可愛い子だなぁ」とほおをなでて、一生守ってあげないといけないなと思っていました。

21日の朝、雨が降ることもなく近所の人に見送られながら子どもたちと手を振り、山梨に向けて出発しました。(主人は仕事のため、次の日から参加予定でした)

車の中でおやつを食べたり、歌を歌ったり、どんな所なのかなぁと皆で楽しく話していました。

そして、キャンプ場についてお昼を食べたり、サイト横の南の森の中で3時間ほど遊んだりして過ごしました。

15:20頃にみんなで手作りのチョコバナナをジャンケンで勝った順に食べる楽しいおやつタイムが終わり、先に食べ終わった子どもたちが120メートルほど離れた所へ向かいました。

それから数分後、美咲がおやつを食べ終え「ママ、私もお姉ちゃんたちの所へ行ってもいい?」と聞いてきたので、「いいよ、いってらっしゃい」と答えました。

微笑みながらスキップして小走りで坂を下って行く娘の姿を見送りながら、ちゃんと声をかけてくれてお姉さんになったなぁとしみじみ成長を感じました。

まさかこの会話が美咲との最後の会話になるとは、当時は全く想像もしていませんでした。

この約10分後に美咲が行方不明になったことに気が付きました。

最初は迷子になってしまったのか、どこかに隠れているのだと思いましたが、どれだけ捜しても見つからず、1時間後に警察に通報しましたが見つけることができず、行方がわからないまま2年が経ちました。

あの日の美咲の笑顔やスキップして追いかけて行く姿は、今も目に焼き付いています。
思い出さない日はこの2年間1度もありませんでした。

「あの日に戻れるなら…」

何度も何度もあの時の自分を責め、悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、あの時の自分を許すことができませんでした。

あの日からずっと自分を責め続け、涙も一生分流しました。
「私の命は要らないから美咲を助けてほしい」と神様にお願いし続けました。

きっと私一人だったら、美咲が見つかる前に本当に命がなくなってしまっていたかもしれません。

この2年間を振り返ると、いつも誰かが私や家族を支えてくれました。

キャンプ場で娘の行方が突然わからなくなった時、支えてくれたのは一緒に行っていた友達でした。

友達が帰った後は、家族やたくさんの友達、ボランティアさんが支えてくれました。もちろん警察や消防、自衛隊の方々のご協力にも支えられました。

現地の捜索が打ち切りになり自宅に戻ってからは、長女を守り笑顔を取り戻すのと、美咲を見つけるために自分の全ての時間とエネルギーを注ぎました。

私が20日ほどキャンプ場で美咲の捜索をしている間、長女で当時小学4年生だった美咲の姉は、長女を支えるため先に帰宅した主人や主人の家族と、美咲や私の帰りを待っていました。

長女は当時、小学校で「美咲ちゃんのお姉ちゃん」と呼ばれて友達から名前で呼ばれなくなり、いつも顔色をうかがわれ「大丈夫?」と言われるたびに、気持ちを押し殺して「大丈夫だよ」と1日何十回も答えていたそうです。

学校で1年生を見るたびに「何で美咲が…」と思ってしまうことがつらかった、でも学校へ行きたくないと言ったら祖父母にも迷惑がかかる、と我慢して学校へ行っていたようです。

私が山梨から帰った日に「自分が自分じゃなくなっちゃった。本当に苦しかった」と泣きながら抱えていた思いを話してくれました。

娘を抱き締め、「無理しなくていいよ。頑張ったね。ごめんね」と一緒に声を出して何時間も泣きました。

長女(美咲さんの姉)

それから家族の生活は一変しました。

家の中では長女が泣き出してしまうので「美咲」「山梨」 という言葉は発することができなくなりました。

主人は口数が減りため息ばかり、長女も家に引きこもるようになり不登校に。
家では私にイライラをぶつけて暴言を吐いたり、泣いたり叫んだりしていました。

それから4か月ほど経ち、長女が学校や友達の支えもあって次第に登校できるようになり、半年が経つ頃には美咲のことも少しずつ受け止められるようになりました。

次第に美咲との思い出や美咲の話ができるようになってきて、笑顔も見せてくれるようになりました。

今では「美咲を見つけるために私もできることをしたい」「私もママを助けたい」とチラシの送付作業を手伝ってくれたり、一緒に山梨にも来てくれるようになりました。

この2年で様々な経験や思いを抱きながら大きく成長してくれました。

美咲が戻ってきたら「勉強も教えてあげたい」「一緒に小学校に通えるのもあと半年しかないし、小学校で守ってあげたいから1日も早く戻ってきてほしい」と話しています。

長女のことで苦しんだり泣いたりしたこともたくさんありましたが、今では立派なパートナーになってくれています。

長女と一緒にチラシ配りに

美咲がいない苦しみの中で、もうひとつ私たちに追い打ちをかけたのが、誹謗中傷でした。

大切な娘の行方がわからなくなり数日が経った頃、睡眠も食事も取れず身も心もボロボロな私にインターネットで「言葉の刃」での攻撃が一日何百と浴びせられるようになりました。

攻撃は日に日にエスカレートし、SNS、個人ブログや動画サイト等で考察を立て、私を犯人視するような書き込みを連日されたり、自宅や私たち家族のプライベートを探るような書き込みや私に対する目をふさぎたくなるような暴言。

自首しないなら殺すぞ」などという脅迫により、更なる恐怖で苦しめられました。

誹謗中傷に対して「つらいからやめてほしいです」と書けば、「美咲ちゃんが一番つらいんだから親がつらいとか言って悲劇のヒロイン気取ってるんじゃねぇ」「自業自得だ」等の言葉を浴びせられ、ただ黙って我慢することしかできない状態でした。

次第にその「言葉の刃」は娘たちや家族にも向けられるようになりました。

私に向けられた悪口や犯人視する言葉は我慢することができても、苦しみの中で頑張っている娘たちへの中傷は、親として到底許すことができませんでした。

これを長女が見たらどれだけ傷つくか。美咲が見たらどれだけ自分を責めるか。
考えるだけで涙が止まりませんでした。

投稿者の特定求め提訴 2021年4月

しかしこの時も、私や家族を支えてくれる人がいました。

支えてくれたのは、私のことを実際に知っている人たちでした。

友人、お店のスタッフやお客様、たくさんの優しい方々が美咲や私たちのために涙を流してくれ、温かい言葉で励ましてくれました。

ネットを通しても誹謗中傷以上に、応援や励ましの言葉、同じ誹謗中傷にあった方々から「お母さんの頑張りに励まされています」「誹謗中傷されてから学校へ行けなくなり、引きこもっています」等のメッセージが届くようになりました。

その頃から1人の大人として子どもたちの親として、このままでいいのか。

「自分の子どもたちの今を守るためにも子どもたちの未来を守るためにも、このままじゃいけない」「私と同じ苦しみを他の人に味わってほしくない」と少しずつ考えるようになりました。

それからインターネット上で支えてくれていた顔も知らない協力者の方々や弁護士の先生のお力添えを頂き、意を決して声をあげて訴えることにしました。

いつも勇気を頂いている木村響子さん(編集部記:SNS上でひぼう中傷を受け、自ら命を絶ったプロレスラーの木村花さんの母親)たちの働きかけもあり、ネットで誹謗中傷をしてはいけないという世間の変化を感じています。

2021年4月の記者会見後は、私に向けられる誹謗中傷がとても少なくなっていると感じています。

他のことで心が荒らされたり時間を割かれることが少なくなったので、現在は「美咲を捜すための活動」と「美咲が戻ってくるまでに生活を整えること」に集中できるようになりました。

美咲が行方不明になり生活が一変してしまってから、以前は当たり前だった「家族揃って食卓を囲むこと」「子どもたちが笑顔で登校してくれること」「子どもが学校へ行っているから仕事ができること」「子どもの髪を乾かしてあげられること、結んであげられること」「一緒の布団に入って絵本を読んであげられること」など、普通の生活がどんなに幸せだったのか初めて気が付きました。

以前の生活に少しでも近づけるように時間がある時は仕事をして、長女の「今」という時間を大切に過ごして、美咲が戻ってきた後の幸せな生活を想像することから活力を得て、日々の活動を続けています。

私たちにとって美咲が戻ってくることは、奇跡でも偶然でもなく「必然」です。
必ずまた一緒に笑顔で生活ができると信じています。

今では美咲が戻ってくる日にまた1日近づいたと考えるようになり、希望を持ちながら日々過ごしています。

神様が美咲を守ってくれ、必ず願いを聞いてくださると信じています。

大切な娘を助けるために、全国の皆様のご協力が不可欠だと思っています。

どうかいま一度、美咲の顔を覚えていただき、似ている子がいないか不自然な子連れがいないか、生活圏内だけでも構いませんので気にかけていただけたらありがたいです。

この2年間ご協力頂いた皆様、お気持ちを寄せてくださった全ての皆様に心より感謝しています。

どうか美咲が戻る日までご協力よろしくお願い致します。

小倉美咲の母 小倉とも子

美咲さんの9歳の誕生日 「まってるよ」とメッセージが

情報を求めています
▽行方不明になったのは、2019年9月21日。
▽現場は、山梨県道志村の「椿荘オートキャンプ場」。
▽美咲さんは当日、黒のハイネックの長袖に青系のジーパンを身に着け、エメラルドグリーンのスニーカーを履いていた。
▽口元の右側にホクロあり。
▽連絡先は、山梨県警・大月警察署 「0554-22-0110」。
▽とも子さんが開設したHPはこちら https://misakiogura.com/(NHKのサイトを離れます)

新たに作成したポスター
  • 甲府放送局記者 宇佐美貫太 2019年入局 
    警察・司法を担当
    大学時代まで野球に打ち込む