証言 当事者たちの声息子が遺した1冊 ~ガラスが刺さった本が教えてくれたもの~

2021年3月3日事故

突然のバス事故で亡くなった息子が、死の直前まで読んでいた1冊の本があります。ガラスの破片が刺さった本の一節には、こう書かれていました。

―社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くことー

亡くなった息子からのメッセージと受け止めた父親。
背中を押され、再発防止のために5年間走り続けてきました。

社会を変えるために・・・。

(長野放送局記者 斉藤光峻/首都圏局記者 生田隆之介)

15人死亡 26人重軽傷

2016年1月15日午前2時前。
乗客およそ40人を乗せたスキーバスが長野県軽井沢町の国道を走っていました。

同じ大学に通う友人どうしなど10代や20代の若者が多く乗っていました。
向かっていたのは長野県内のスキー場です。

バスは下り坂を蛇行して左側のガードレールに衝突。
対向車線にはみ出して右側のガードレールを突き破り、道路脇に転落しました。

事故の直前、時速およそ96キロのスピードが出ていたとされています。

バスはめちゃめちゃに壊れ、屋根はくの字にひしゃげました。

13人の大学生が突然命を奪われ、26人が重軽傷を負った軽井沢スキーバス事故。
就職を間近に控えていた若者もいました。

バスの運転手2人も死亡し、このうち1人がハンドル操作などを誤ったとみられるー
警察は捜査でそう結論づけました。

駆け出しの記者が遺族の担当に

私は当時記者2年目で長野県警を担当していました。
発生の連絡を受けてから捜査関係者の取材に明け暮れます。

「事故直前にバスに異変はなかったのか」
「バス会社の社長は警察の調べにどのようなことを話しているのか」

バス会社が、国が定めた基準を大幅に下回る運賃で仕事を請け負うなど安全を軽視した姿勢が相次いで明るみに出て、取材合戦は過熱しました。
    
そして事故から半年が過ぎたころ、遺族を取材することになりました。

遺族会の代表

2016年10月、私は遺族会の代表に会うために長野から大阪に向かいました。

遺族会「1.15サクラソウの会」の代表を務めるのは大学生だった息子の寛(かん)さんを失った田原義則さんでした。
 

田原寛さん

月に一度東京で開かれている遺族会の会合で名刺を交換したことはありました。
ただ田原さんはその場では大勢の記者に囲まれます。

先輩から住まいは大阪だと引き継ぎがあり、直接訪ねてじっくりと話を聞きたいと思ったのです。

田原さんはこの日ちょうど仕事で出張していたようで会うことはできませんでした。玄関先で対応してくれた妻の由起子さんは「必ず連絡をするように夫に伝えます」と約束してくれました。

その日の夜すぐに田原さんから連絡があり、次の遺族会の会合のあとに個別に時間を設けてもらうことになりました。

翌月の遺族会の日。会が開かれた都内の貸会議室が取材場所でした。
私と田原さんは事実上初対面です。これまでもほかの記者からさんざん聞かれているであろう質問を一からしなければなりません。

少し緊張しながら「よろしくお願いします」とノートを広げ、私は取材を始めました。田原さんのそばには、妻の由起子さんもいました。

記者の取材メモ

「事故があったことを聞いた時に何を感じましたか」
「寛さんとの印象的なエピソードはありますか」

私はひとつひとつ、質問していきました。

「まさか寛がそのバスに乗っているとは思わなくて、LINEを送ったんですが返信がありませんでした。早く着いて寝ているのかなと思っていました」

「遺体安置所では妻が『起きて!起きて!』と叫んでいたのが目に焼き付いています」

「寛はサッカー少年で、よくガンバ大阪の試合を一緒に見に行ってましたね。キーパーでレギュラーだったんですが高校最後の試合では0対9でぼろ負けでした」

寛さんが社会福祉士を目指していたこと。
その資格を取るために当時の首都大学東京に進学したこと。
成人式で昔の友だちに会うのを楽しみにしていたこと。

田原さんは表情をほとんど変えずに淡々と話してくれました。
時折ことばを慎重に選びながら寛さんについて静かに語る様子が印象に残りました。

インタビューでは、取材相手に自分の言葉で心情を語ってもらわなければなりません。つらい体験を振り返ってもらう質問も投げかけます。

私も何度か経験しましたが、感情があふれたりうまく言葉で表現できなかったりして、インタビューを中断せざるを得ないことがあります。
でも田原さんは違いました。

先頭に立って

事故から1か月後。

田原さんはほかの遺族に呼びかけて再発防止を訴える遺族会を立ち上げます。
活動を支援する弁護士も「こんなに動きが早い遺族を知らない」と驚くほどでした。

大阪で仕事をしながら都内と往復を続け、バス事業者を管轄する国土交通省などとも意見交換を重ねました。国土交通省はその後、遺族会の要望を含めた85項目にわたる再発防止策を取りまとめます。国の監査体制が強化され、貸し切りバス会社の安全対策が不十分な場合は事業許可が取り消されることになりました。

JR福知山線の脱線事故や笹子トンネル事故などの遺族とも連絡を取りあい、大事故を起こした企業の責任を問う「組織罰」の創設を訴える活動も始めました。

私の目には「田原さんの行動が周囲の意識を、社会を変えている」ようにうつりました。同時になぜ、という思いも湧き上がってきました。

「突然息子を亡くして話をするのもつらいはずなのに、どうしてこんなに気丈にがんばれるのだろう」

自分がもし田原さんの立場だったらどうか。到底できないと思いました。
何がその背中を押しているのか、聞いてみたいと思いました。

ガラスの破片が刺さった本

インタビュー取材をした大阪のホテルの1室で、田原さんは私に1冊の本を見せてくれました。

タイトルは「社会を変えるには」。
歴史社会学者の小熊英二さんの著作です。

戻ってきた遺品のかばんの中に入っていました。寛さんがこの本を読んでいることは全く知らなかったそうです。

「最初は気づかなかったんですけど、この間ふとパラパラとめくっていたらこのページにガラスの破片が挟まっていて」

田原さんは事故を忘れないようにと、ガラスの破片をテープでページにとめていました。
事故の衝撃を思い知らされましたが、それ以上に本の一節に目を奪われたといいます。

―社会を変えるには、あなたが変わること。あなたが変わるには、あなたが動くことー

「いつも前向きだった寛は私と妻に『悲しくても、前を向いて』と言っているはず」

寛さんのお通夜以来、そう自分に言い聞かせながら遺族会の代表として走り続けてきたと明かしました。
死の直前まで読んでいたこの本の一節が、寛さんから今の自分へのメッセージのように感じたと、本の表紙をなでながら話してくれました。

お通夜の前日、田原さんは寛さんの棺を前に、これから自分に何が出来るのか考え、寛さんにある約束をしていました。

「遺族みずからが世の中を変えることが出来たらいいなと、寛の棺の前で約束していたので、偶然かもしれませんが本を見つけたとき本当に驚きました。自分がやっていることは間違っていない、寛も背中を押してくれているんだなと確信しました」

私は初めて遺族会の代表としてではなく、父親としての声を聞けた気がしました。
「社会を変える」という寛さんとの約束のために、取材を受け続けているのだと思いました。

願いが1つかなう

事故から5年がすぎたことし1月。遺族会の活動がまた1つ実を結びました。

バスを運行していた会社の社長と運行管理担当の元社員を、長野地方検察庁が業務上過失致死傷の罪で在宅起訴したのです。
これでバス会社側の管理責任が問えるかどうか、公開の法廷で審理されることになります。

事故の責任の所在を明確にすべきだとして田原さんたち遺族はおよそ4万7000人分の署名を集めて長野地検に提出していました。
寛さんとの約束を果たしたいと田原さんが求め続けてきたことでした。

その日の夜、報道機関向けにオンラインで会見が開かれました。
田原さんはここがスタートだと強調しました。

「あの悲惨な事故から5年が経過しました。事故現場で感じた悲しさ、悔しさは5年たっても全く変わることはありません。本日ようやく起訴されて、遺族会として求め続けてきた本当の原因究明に少し近づけたということを寛に報告しました」

「遺族としては処罰を求めるものではありません。責任の所在の明確化と再発防止です。
バス会社の関係者の方々には、あのとき会社で何が起きていたのか、なぜ安全安心な運行管理ができなかったのか。正直に法廷で説明をお願いしたいです。

あのような悲惨な事故が2度と起きないよう、再発防止を1日でも早く完結できることを切に願っています」

口うるさく言うこと

「これまでの5年間の活動は間違いではなかったと思っています。私は口うるさく言うことが遺族の役割だと思います。裁判で原因が少しでも明らかになればそれをまた再発防止につなげないといけないので終わりではないです。まだ先で想像もできませんが裁判が終わっても一区切りになるという考えはないですね」

田原さんはこう話します。

いまは新型コロナウイルスの影響でバス業界も苦境に立たされています。

ただどんなに苦しい状況でも、コスト削減のために安全が犠牲になるようなことがあってはならない。そして何より息子たちが犠牲になった軽井沢のバス事故を忘れないでほしい。

田原さんは体力と気持ちが続く限り声を上げ続けるつもりです。
社会を変えるために・・・。

取材後記

私は田原さんのオンライン会見の中で出たある質問が気になりました。

「報道機関に対して思うことは」という質問です。

田原さんは「感謝しているところはたくさんあります」と答えていましたが、もっと突っ込んで聞きたいと思いました。

時間がたつにつれて軽井沢スキーバス事故がニュースとなる機会は少なくなっていました。
それでも田原さんはインタビューをお願いすると、静かに淡々と答えてくれました。
大勢の記者に囲まれていても1対1の時も、それは変わりませんでした。
私が知る限り一度もぶれることがなかったと思います。

どうしてここまできちんと取材を受けてくれるのか。
私がずっと聞きたかったことでした。

「報道も何もされなかったら何が起きたのかの検証もないがしろにされてしまっていたかもしれないと思います。私たちの目的は再発防止でそれには報道の力も借りないといけない部分があります」

「事故直後は報道されますが、数か月、半年と時間がたつと報道も少なくなります。節目で取材を受けると思い出してもらえる。私は報道で多くの人に事故を思い出してもらうことが再発防止につながると感じているので、取材を受けるようにしています」

田原さんの答えを聞いて内心、少しほっとしました。他人からは想像もできない悲しみの中にある遺族にカメラを向けるーそれが事件や事故の再発防止につながるのだと自分に言い聞かせていますが、やはり毎回葛藤を抱えます。

ただ田原さんのように伝えたい思いを胸に秘めている人もいて、その声を伝えることも記者の大事な仕事の1つなのだと改めて強く感じました。

「社会を変えよう」と動き続ける田原さんを間近で取材する記者として、安全が見過ごされる社会に戻ってしまうことがないよう取材を続けていきたいと思います。

  • 長野放送局 斉藤光峻 2017年入局
    警察・司法を担当し、現在の担当はバス業界を含む交通分野と経済など。
    バス事故の取材を一貫して続けている。

  • ⾸都圏局 ⽣⽥隆之介 2014年入局 
    初任地の長野放送局で
    軽井沢のスキーバス事故や
    御嶽山の噴火災害などを取材。
    札幌局を経てR2年(2020年)から首都圏局。

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