証言 当事者たちの声家族に残された最期の言葉 ~日航機墜落事故 遺族の36年

2021年8月11日事故

「まち子 子供 よろしく 谷口正勝」

墜落する直前、夫が震える字で私に宛てて書いた遺書です。

よろしくと言われても、幼い2人の息子がいるのにどうすればいいの。

前を向けずにいた私を励ましてくれたのは、あなたが植えた1本の柿の木でした。

長男 「飛行機が行方不明」

谷口正勝さんと真知子さん家族

昭和60年8月12日、午後6時12分
日本航空123便が大阪に向けて羽田空港を離陸

あのとき私は、茨城県で開かれていた「つくば万博」で展示や販売の仕事をしていたので、長期間、大阪の自宅を離れていました。

中学1年と小学3年の2人の息子の世話は夫がしてくれていましたが、あの日は上司の葬儀に参列するため、日帰りで東京に来ていたんです。

葬儀が終わると電話をくれました。

「そっちに寄ろうか?」
「子どもたちがいるから帰ってあげて」

息子たちが心配だったのでそう言いましたが、今も一生の後悔として残っています。

午後6時56分
群馬県上野村の御巣鷹山に墜落

その日の夜。
自宅に電話をかけて長男と話しました。

「パパ帰ってる?」
「まだ帰ってないよ」
「そうなんだ…」

すると長男が言いました。

「ママ、今テレビで飛行機が行方不明って言ってるけど、パパ飛行機に乗ったのかな」

お盆の時期でしたし、飛行機のチケットは取れないだろうと思っていました。

「新幹線だと思うよ。もうちょっと待ってみて」

そう言いつつ、何か胸騒ぎがしたのを覚えています。

社員名簿で夫の同僚の自宅に電話すると、奥さんが泣きながらこう言いました。

「空港でこれから伊丹行きの飛行機に乗ると、主人から電話があったの。谷口くんも一緒だと言っていたので、もうだめかもしれない」

それを聞いたとたん私は過呼吸になって倒れてしまい、救急車で病院に運ばれました。

ごめんなさい パパを助けられなかった

翌日、なんとか大阪の自宅に帰りましたが、歩くこともままならない状態でした。

そんな私を見た長男が「ママは家で待ってて。僕がパパを助けて連れて帰るから。パパはボーイスカウトの副隊長だから沢の水を飲んででも生きていると思う」と言って、親族と一緒に現地に向かったんです。

奇跡的に助かった人のニュースも報道されていたので、どうか無事でいてほしいと願っていましたが、それは叶いませんでした。

3日後の8月15日だったと思います。
現地に入った親族から、夫が亡くなったと知らせを受けました。

テレビを見ていると、身元確認のため遺体安置所に行く長男の姿が写っていました。

両脇を支えられ、ずるずると引きずられるようにして連れて行かれるのを見て、「私はなんてむごいことを13歳の子どもにさせてしまったんやろ」と申し訳なくて、一番つらかったです。

戻ってきた正勝さんのメガネ

大阪空港まで遺体を引き取りに行くと、長男は開口一番こう言いました。

「ママごめんなさい。パパを助けられなかった」

「あなたが悪いのと違うよ」

「ごめんね、ごめんね」

ぽろぽろと涙を流す長男を抱きしめて、一緒に泣きました。

おれの子どもたちは世界一

夫との出会いは職場でした。

同じ化学メーカーに勤務していて、営業担当だった夫を手伝う機会があったんですが、「いろいろ世話になったのでお茶でも飲みに行きましょう」って誘われたんです。

笑い話なんですけど、そのとき夫が既婚者だと誤解していて「この人何言ってるの、最低」とか思って「結構です」と断ったんですけど、後で聞いたら独身だったとわかって。

正勝さんと真知子さん

結婚して、2人の息子が生まれて。

本当に子煩悩な人で、親バカですが「おれの子どもたちは世界一だ」っていつも言っていました。

休みのたびに釣りに行ったり、バーベキューをしたり。

亡くなったあと、車のサンバイザーから甲子園のチケットが3枚落ちてきて、息子たちを連れて高校野球を見に行くつもりだったんだと知りました。

震える字で書かれた遺書

名前の右に「6゜30」と時刻が

「子供よろしく」と夫が残した遺書は、ズボンの後ろポケットから見つかりました。

家族に確実に届くようにと考えたのか、運転免許証と一緒に入っていたそうです。

座席に備え付けの紙袋に書かれていて、左半分が茶色く変色しているのは血の痕です。

時刻の「午後6時30分」は、墜落する26分前。
乱れた字になっているのは、揺れる機内で書いたからだと思います。

でもこのメモを見つけたとき、正直こう感じたんです。

「“子供よろしく”だけで、私のことはどうなの」
「ずっと一緒にいるって言ったくせにうそつき。責任放棄やわ」

子どもたちとどうやって生きていくのか。

いつのまにか体重は10キロ減り、髪も白くなっていました。

正勝さんが植えた柿の木

谷口真知子さん

正勝さん(当時40)を亡くしたときの詳しい状況を語ってくれた、妻の真知子さん。

当時の気持ちをこう振り返りました。

真知子さん
主人を亡くした喪失感が強くて、「子供よろしく」って書かれても自信がなくて。どうやって暮らしていけばいいのか分からないよと思っていました。

喪失感にさいなまれる中で、前を向くきっかけになったのは1本の柿の木でした。

事故から1か月余りがたった、ある日。
次男が大きな声で真知子さんを呼びました。

「柿の木に実がなってる」

事故の5年前、子どもたちに柿を食べさせたいと正勝さんが庭に植えたものでした。
このとき初めて実をつけたのです。

真知子さん
“桃栗三年、柿八年”というのに実がなったので驚きました。私が泣いてばかりいたので、主人が心配して柿の木に成り代わって「頑張ってくれよ」って言いに来たのかなって思ったんです。少し頑張ってみようかなって、ちょっとずつですが前向きになれました。

絵本につづられた家族の物語

当時のことは、5年前に真知子さんが制作した絵本で紹介されています。

次男の目線で、墜落事故前後の家族の物語が描かれています。

今年も夏がやってきた!
パパはボクたちを、いろんなところに連れて行ってくれる。

あの日から、
パパは帰ってこなくなった。

お兄ちゃんが「パパからのプレゼントだ」っていった。
とっても、とってもおいしかったんだけど、なんだか涙の味もした。

パパの柿の木は、冬になると枯れたように見える。
でも、春になると、そこから小さな芽が力強く生えてくるんだ。

果たした正勝さんとの約束

夫がそばで応援してくれていると感じた真知子さん。
資格を取り、アパート経営を始めました。

さみしい思いをさせたくないと、正勝さんが息子たちに連れて行くと話していたハワイ旅行やスキーにも行きました。

子育てに悩むことも少なくありませんでしたが、毎年小さな芽を出す柿の木を見て、「私ももう1年頑張ってみよう」と言い聞かせていたそうです。

真知子さん
暑い夏は葉が日陰を作り、秋には柿の実のプレゼント。冬は葉がなくなり、暖かい日ざしが入る。春になるときれいな新芽が出て、主人が頑張れと言ってくれている気がするんです。

そして、息子たちを大学卒業まで無事に育てあげました。
2人とも結婚し、真知子さんには3人の孫がいます。

真知子さん
亡くなった人との約束だから、何がなんでもちゃんと育てないといけないと思ってやってきました。何十年かたってからやっとですが、一番つらくて悲しかったのは家に帰りたいのに帰れなかった、生きたかったのに生きられなかった主人だと。あの状況でよく遺書を残してくれたなと思います。

“当たり前”は失われるかもしれない

読み聞かせの活動 2016年

真知子さんは、制作した絵本の読み聞かせの活動を始めました。

伝えたいのは、“当たり前”は失われるかもしれないということです。

真知子さん
当たり前だと思っていたことが失われることってあると思うんです。だからこそ何気ない日常が一番大切なんだよって。この瞬間、瞬間を大切に生きてほしい。

誰の人生にも冬の時代はあると思いますが、そこで諦めずに前を向いて歩いていけば、また違った形の新しい幸せがやってくる。

そんな思いを込めて小学校や中学校を中心に2か月に1回、絵本の読み聞かせを行ってきました。

コロナ禍で活動できない時期も続きましたが、今月、オンラインで久しぶりに朗読しました。

取材後記

墜落事故から36年。
真知子さんを支えてきた柿の木は、2階のベランダにまで達していました。

毎年200個ほどの実をつけるそうで、正勝さんからのプレゼントとして離れて暮らす孫たちに送っています。

真知子さんが制作した絵本。
最後は、こう結ばれています。

パパとはずっと一緒にいたかったし、
お酒だって一緒に飲みたかった。
そして、僕の娘を抱いて欲しかった。

でもね、僕はパパが僕たちのパパでほんとうに幸せだった。
パパ、いつも僕たちを見守ってくれて、ありがとう。

事故が発生したとき、私(記者)は2歳でした。

群馬県で生まれ育った私は幼い頃からこの悲惨な事故をニュースなどで見聞きし、両親からも教わった記憶があります。

遺族は癒えることのない悲しみとともに、今も歩みを重ねています。

真知子さんを取材して、改めて大切な人との時間や当たり前を大事にしたい。そして、その当たり前を奪う事故や事件が少しでも減るような報道を続けていきたい。
そう強く感じました。

真知子さんの慰霊登山に同行 2021年8月8日
  • 前橋放送局記者 千明英樹(ちぎら・ひでき) 群馬県出身
    2012年入局
    日航機墜落事故を継続して取材