私の娘、リンちゃんです。
4年前、小学校への登校途中に殺害されました。
まだ9歳でした。
遺体の発見から3週間後、その知らせは衝撃的でした。
通学路でリンちゃんたちの見守り活動をしていた、小学校の保護者会の会長が逮捕されたのです。
事件のあと誰も信じられなくなりました。
それでも、私は日本で生きていこうとある決断をしました。
(※2023年10月6日更新)
2021年6月4日事件
私の娘、リンちゃんです。
4年前、小学校への登校途中に殺害されました。
まだ9歳でした。
遺体の発見から3週間後、その知らせは衝撃的でした。
通学路でリンちゃんたちの見守り活動をしていた、小学校の保護者会の会長が逮捕されたのです。
事件のあと誰も信じられなくなりました。
それでも、私は日本で生きていこうとある決断をしました。
(※2023年10月6日更新)
2017年3月24日。
小学校の終業式に行ったきり、リンちゃんは帰ってきませんでした。
学校からの連絡を受けて、近所の人たちと一緒に夜まで必死に捜しました。
でも見つからず、夜も眠れませんでした。
2日後、自宅がある千葉県松戸市から10キロ以上も離れた排水路脇で、女の子の遺体が見つかったと連絡を受けます。
リンちゃんではないよね?
何度もそう願いながら、我孫子警察署に向かいました。
警察署の霊安室で横たわっていたのは、変わり果てたリンちゃんでした。
いったい誰が。
なぜこんなことを。
現実を受け入れられず、リンちゃんを捜し回る夢を見ました。
自分の魂が自分の体から飛び出てしまうような感覚に何度も襲われました。
遺体の発見から3週間後。
信じられない知らせが届きました。
遺体を遺棄した疑いで逮捕されたのは、リンちゃんが通う小学校の保護者会の会長、澁谷恭正被告だったのです(その後、殺人罪などで起訴)。
通学路でリンちゃんたち小学生を見守る活動をしていた人物です。
もう誰も信じられない。
事件から数か月は怖くてなかなか外出ができなくなりました。
家でふさぎこんで泣いてばかりいる妻のグェンをなだめることしかできませんでした。
2007年にベトナムで生まれたリンちゃん。
私が仕事の関係で先に日本に住んでいて、親しみを込めて、ミドルネームは「日本」を意味する「ニャット」と名付けました。
日本は子どもが1人で小学校に通えるほど治安が良くて、みな元気に授業を受けているよ。
2歳のころ、私がそう言ってリンちゃんを日本の小学校に通わせようと、ベトナムから妻のグェンとともに呼び寄せたんです。
リンちゃんは正直で素直で、忍耐強い性格。
絵を描いたり歌ったりすることが大好きでした。
日本語は、毎朝私が学校に行く前に教えました。
ホワイトボードに日本語を書く練習を一緒にして、ちょっとずつ上手になりました。
いつも一生懸命、練習をしていた様子が今でも目に浮かびます。
気がつくと、私や妻よりも得意になっていました。
「ベトナムでわいろんなたべものがあります。そのなかでゆうめいなたべものわくだものです」
小学校の宿題の絵日記では、こんな風にベトナムの料理や文化を紹介していました。
大好きな学校に毎日元気に通って、将来は日本とベトナムの“懸け橋”になることを夢見ていたんです。
リンちゃんが学校で書いてくれた手紙には、私と妻へのメッセージが記されています。
おとうさん おかあさんへ
いつもありがとうそだててくれて
これからもよろしこねがいします。
ちさいころもありがとございます。
日本で生まれた弟をかわいがり、穏やかに暮らしていたんです。
あの日までは。
安全だと信じていた日本にいるのが怖い。
事件のあと、私はベトナムに戻ることを考えていました。
事件のあと生活が一変した、父親のレェ・アイン・ハオさん(38)。
そんな失意のどん底にあったハオさん家族に寄り添い、支え続けた人たちがいます。
リンちゃんの同級生の息子を持つ渡邉広さん家族です。
渡邉さんの長男が2年生の時、リンちゃんと同じクラスになったのをきっかけに交流が始まりました。
渡邉さん
家もすぐ近くて『遊びに来てね』と言って、それでリンちゃんが遊びに来るようになって。
先生から『面倒見てあげてね』と言われたところから始まって、学校からも一緒に帰ってきて連れてきました。宿題を見てあげたりもできるから。
それからは家族ぐるみのつきあいとなりました。
学校から配布されるプリントの内容を分かりやすく妻のグェンさんに伝えたり、グェンさんがベトナムに帰国しているときに、リンちゃんを家で預かったりしたといいます。
リンちゃんの行方が分からなくなった、あの日。
ハオさんから連絡を受けた渡邉さんは、仕事を切り上げて家族総出で夜まで懐中電灯を持って捜しました。
遺体が見つかった日はすぐハオさんのもとに駆けつけました。
「ごめんね・・・」
そう言って抱きしめることしかできなかったそうです。
その後は、ハオさんたちが少しでも元気になれる時間を作ろうと買い物に連れ出したり、月に1度はほかの同級生の家族も交えた食事会を開いたりしました。
渡邉さん
(ハオさんが)急に事件のことを思い出して、悲しくなっちゃう。抑えきれなくて、泣き出しちゃうということがしばらく続いていた。そのときは本当に見るのもつらかったですね。
一時はベトナムに戻ることを考えていたハオさん。
でも日本に残り、被告に極刑を求める署名活動に打ち込むようになりました。
渡邉さんも必要な手続きに同行したり、一緒に街頭に立ったりとサポートするようになりました。
裁判で被告は「捜査機関によって架空の事実や証拠がねつ造された」などとして一貫して無罪を主張しています。
被告には法律の中で最大限の罪を償ってほしい。
ハオさんはそのために活動することがリンちゃんのためだと信じ、仕事も休職して街頭に立ち続けました。
インターネットなどを通じてベトナムからもたくさんの署名が集まり、その数は135万人分にのぼったといいます。
1審と2審は無期懲役の判決が言い渡されました。
そして裁判はこの春、大きな局面を迎えました。
検察が最高裁判所に上告せず、被告に極刑が下されることはなくなったのです。
(※2023年10月6日更新
被告側が上告していましたが、最高裁は上告を退ける決定をし、無期懲役が確定しています)
ハオさん
リンちゃんのために何ができるか見えないですよね。どうすればいいか分からないです。
4年間一生懸命やってきたことが無駄になった。署名してくれた人には申し訳ない…
自らを奮い立たせて臨んできた裁判にひとつの区切りがついた今、
ハオさんは何を思うのか。
4月上旬、松戸市内の元山駅近くにオープンしたベトナム料理店にその姿がありました。
日本とベトナムの“懸け橋”になろうとしていたリンちゃん。
友だちにベトナム料理を作ってあげることが好きだった。
ベトナムと日本に関係する仕事がしたいと、ベトナム語と日本語の勉強を頑張っていた。
リンちゃんのために自分は何が出来るのか。
日本で生きていく。
日本でベトナム料理店を開く。
それがリンちゃんの夢をかなえることになるのではないか。
妻のグェンさんの提案を受けて、決断しました。
オープンの日。
ハオさんはずっと支えてくれた渡邉さん家族を招待しました。
渡邉さんに誘われたほかの同級生家族も店を訪れました。
おすすめの1つはリンちゃんも好きだったベトナムのサンドイッチ「バインミー」です。
渡邉さん
1人目のお客さんになったことは光栄です。心配だったからこれからが楽しみ。近くに住んでいるから、できることをやりながら一緒に進んでいきたい。
事件はあったけれども、それとは別の部分で未来に向かって進んでいくから、応援していければ良いかな。
リンちゃんと過ごした家にいるだけで涙が止まらず、ベトナムに帰ろうと思っていた妻のグェンさん。
リンちゃんの思いを継いだ店について話してくれました。
グェンさん
リンちゃんも見てくれたと思いました。
リンちゃんが好きな食べ物、店で作ってみなさんに知ってほしいです。もしリンちゃんがここにいたら、もっと楽しかったと思うと、涙が止まらなかった。
今日もリンちゃんの同級生の友達と家族も来て、日本人も来てくれて、とても楽しかったんです。これからもリンちゃんの願いを発信していきたいです。だから、安心して眠ってほしいなと思います。
ハオさん
リンちゃんが将来、社会の役に立つ人になることを望んでいたんですね。
そう教えていました。
結局私はリンちゃんに3年生までしか、教え続けられなかったんですよ。
だから、これからは自分が何とか役に立つ人になりたいと思いますね。
リンちゃんに、人の役に立つ人になってほしいと伝えていたハオさん。
リンちゃんが生きることができなかった分、自分がそう生きていきたい。
事件から4年。
ハオさんを支えているのは、ずっと寄り添ってくれた地域の人たち。
そして「リンちゃんのためにできることをしたい」という強い思いです。
リンちゃんの弟はこの春、小学2年生になりました。
家から小学校までは歩いて10分ほどですが、ハオさんは毎日送り迎えをしています。
事件から4年がたった今も恐怖は消えていないからです。
もし私が同じように異国で家族を殺害される事件に巻きこまれたら、その土地で生きていく選択ができるか分かりません。
「日本で生活を続けることはつらくないのですか」と聞くと、ハオさんはこう答えました。
「リンちゃんを待っているんです。(あの日)リンちゃんに『全部ごはん食べましたか』と聞いて、『食べました』と話した。リンちゃんは学校に行った。リンちゃんが帰ってくることを信じていたいんです」
リンちゃんは事件に巻き込まれていなければ中学2年生です。
もう帰ってこないことはわかっています。
それでもハオさんの心の中ではリンちゃんは小学3年生のままで、今でも“帰ってきたら使えるように”と、当時使っていた勉強机やその引き出しの中にある教科書やノートを大切に残しています。
大切な人を失った遺族の気持ちは何年たっても変わらない。
その現実を伝え続けていかなければならないと感じました。
富山放送局記者
杉山加奈 2018年入局
前任の千葉放送局で発生時に現場に駆けつける。継続してこの事故を取材。
「どうして代わってあげられなかったんだろう」能登半島地震 珠洲市で土砂崩れに巻き込まれ、家族4人を亡くした警察官の大間圭介さんは
2024年2月1日