追跡 記者のノートから“兜町の風雲児”の最期

2021年4月9日事件

東京・葛飾区の木造アパートで去年火事があり、1人の男性の遺体が見つかった。警察が身元を調べたところ、意外な人物であることが判明した。

亡くなっていたのは中江滋樹氏(66)。

昭和から平成に向かう時代、バブルがはじける前の日本で、投資家・相場師として巨万の富を築いた、知る人ぞ知る人物である。

かつては「兜町の風雲児」と呼ばれ、メディアにも大きく取り上げられたが、違法な資金集めをしたとして絶頂期に逮捕され服役した。

あれから30年以上がたち、時代は令和に。刑務所を出たあとの動向は、ほとんど知られていない。

カネを追いかけ、そして翻弄された男は、下町のアパートで何を思っていたのだろうか。栄光と転落の人生をたどった。

(社会部記者 倉岡洋平)
※敬称一部略

異色の相場師・中江滋樹

ひげ面に長髪、スーツという姿で、東京・日本橋近くの金融街をかっ歩する1人の男。

昭和50年代に撮影された中江滋樹の姿である。

この頃、中江はまだ30歳そこそこだった。

当時は、日本が経済大国としての地位を確立し、株価は右肩上がりを続けていた時期だ。

好景気を背景に株式投資がブームとなり、それまで縁のなかったサラリーマンや自営業者などの個人が、株の売買を始めるようになっていた。

1980年代の東京証券取引所

当時証券業界では、野村證券や大和証券などのいわゆる4大証券を中心とした古くからの証券会社が幅をきかせていたが、そこに突如現れたのが中江だった。

中江は投資顧問会社「投資ジャーナル」を設立して、情報誌を発行。

値上がりが見込める株をズバリ指南した。

さらに、まだ珍しかったテレビCMも大々的に展開し、1000万円を投資すれば、億単位のもうけが出ると派手に宣伝していた。

投資ジャーナルが発行していた情報誌

実際に、中江が推奨する株は次々に値上がりし、個人の投資家からは続々と資金が集まった。
中江は、株式市場を的確に見通すことができる「若き相場師」として持ち上げられ、最盛期には200近くの関連会社を抱えていたという。

政治家や財界人、そして芸能人との派手な交遊で常に話題を振りまいていた姿は、まさにバブルを予感させるものだった。

しかし数年後には、手持ちの資金がショートし、違法に巨額のカネを集めたとして警視庁に逮捕される。「投資ジャーナル事件」と呼ばれ、日本の経済界を大きく揺るがした事件である。

警視庁に連行される中江を乗せた車

相場師としての原点は

中江滋樹とは、どんな男だったのだろうか。

中江が亡くなったと分かった時、私は名前を聞いたことがあるくらいで、実は詳しい人物像を知らなかった。兜町の風雲児と呼ばれた男の原点を知ろうと、まずは彼の生まれ故郷である滋賀県近江八幡市を訪ねることにした。

ここは、織田信長が天下統一を目指す拠点とした土地で、市内には今も江戸時代の商家の趣が残る町並みが続いている。

小学校時代の中江滋樹

中江が育ったという地区に到着して聞き込みを進めると、彼と高校時代に同級生だった何人かと会うことができた。

そこで聞く中江の姿は、普通の高校生とは大きくかけ離れ、すでに相場師としての片鱗を見せていた。

高校の同級生
「株式市場の動向を伝える専門番組を聞くために短波放送のラジオを学校に持ちこんでいたからね。授業中もこっそりラジオを聞いて、株価をチェックしていたみたいで」

「休み時間になると公衆電話に急いで走って行って、電話で株の売買注文をしていたようだね。そんなことをする奴は、中江以外に誰もいなかったけど」

当時は、昭和40年代。当然、インターネットや携帯電話のない時代である。

株を売買するには、電話で注文するしかなかった。

実は、中江の父親が証券会社に勤務していて、早くから投資に興味を持ったのは、その影響もあったのかもしれない。

高校時代

小学生の頃から株に興味を持ち、中学生ではすでに株の値動きを示す「チャート」を描いていたという話があったくらいだった。

中江が通っていたのは、彦根市内の滋賀県有数の進学校だ。

しかし、中江は大学には進まず、愛知県にある会社に就職する。

「三愛経済研究所」という投資関係の会社だった。

当時、中江と一緒にアパートの部屋で生活していた人物に会うことができた。

現在は、家電の販売店を経営する大口清さん。

中江と同居したことのある大口清さん

中江より少し年下だった大口さんは、高校を卒業したあと愛知県に行って証券関係の会社に就職したが、この時故郷の先輩である中江とアパートで同居することになった。

当時はまだ2人とも給料が安く、慎ましい生活だったという。

大口清さん
「私は、中江さんよりもさらにお金がなかったから、彼にはいつもごちそうになっていたんです。

ただ、ごちそうになるといってもモヤシなんですけどね。安いモヤシですよ。体にええから言うて、一緒にモヤシをいっぱい食べてましたわ。

寝る時も、質素なもので、敷き布団とかけ布団を2人で1枚ずつ使ってましたよ」

当時、中江は20歳。

4畳半1間のアパートで、毎晩、株の値動きを研究し、手書きでチャートを描いていた姿が目に焼き付いていると、大口さんは振り返っている。

大口清さん
「株の値動きを一生懸命、B4くらいの方眼紙に毎日つけとったね。
当時から、壮大な夢みたいなことは言うとったな。とにかく、自分は株の世界で大きくなってやるんやと」

独立、そして東京へ

青年・中江滋樹。

彼は3年ほど愛知県内の会社に勤めたあと、早くも独立する。

すでに株の売買で儲けていて、普通のサラリーマン以上の収入はあったという。

それまで株というと、ベテラン証券マンが長年の経験則や相場観で銘柄を選ぶことが多かったようだが、小さい頃から数学が得意だった中江は、統計的手法を用いて値上がりする株を見つけていたという。

20代前半で、株の動向などを予想し会員向けにレポートで伝える会社を設立した。

手書きの情報レポートは「よく当たる」と評判になり、当初は関西を中心に活動していたが、大阪の金融街ではすでに名前を知られるようになっていたという。

そして、日本の株価がどんどん上昇するのに呼応するかのように、20代の半ばには東京への進出を果たす。「投資ジャーナル」社を設立して、本格的に投資顧問業として証券業界に足を踏み入れることになった。

中江が手がける株は、頭文字をとって「N銘柄」と呼ばれ、大きな注目を集めるようになる。

当時の大手全国紙では、「顧客3000人、運用する資金は数百億円」などと報じられ、数々の証券会社が集まる東京・兜町では、いつしか「風雲児」と呼ばれるようになっていた。

まさに、上り調子だったころ、その生活ぶりはある意味ですさまじかったという。
中江が、後に当時のことを振り返った音声の記録が残っている。

中江の肉声
「20代で何十億って稼いでいたからね。自分の力で、無から有にするっていうことをやっていたということです。相場がある限り、金なんかいくらでも儲けたるわいと思っていたんでね」

「会社の手提げ金庫の中に入っている現金をわし掴みにして、紙袋に毎日1千万円入れて、銀座に行ってたよ。飲み代と飯代だけで毎月2億くらいかな。もうむちゃくちゃだった、僕の金銭感覚は」

“ワンマン社長”の素顔は

東京に進出後、最盛期だった頃の中江を知る人物を探しあてることができた。「投資ジャーナル」で社員として働いていた、鈴木克洋さん(69歳)。

鈴木さんはもともと、テレビの制作会社で仕事をしていたが、知人から「30歳手前くらいの若者で何百億も持っている人間がいる」と聞かされ、面白いと思って中江に会いに行ったという。

すると中江は逆に、鈴木さんの芸能関係などの人脈を見込み、社員として働いてくれないかと打診したという。

中江は、単に目先のカネを稼ぐだけではなく、先々のことも見据えて人脈を作ることに、特に力を入れていた。
 
鈴木さんによると、投資ジャーナル社では、およそ100人以上の全社員によるミーティングが1日4回も行われていたという。

1回あたり10分から15分ほどで、午前8時の「朝礼」から始まり、午後9時頃の「終礼」までだ。社員はこの間、ぶっ通しで働く。

ミーティングでは、中江が日本経済の先行きや、株価の最新動向を詳しく独自の切り口で話したほか、仕事に向き合う際の心構えなどを厳しく説いていたという。

投資ジャーナル社の元社員・鈴木克洋さん
「彼の口癖は、『ギブ・アンド・テイク』ではなく『ギブ・アンド・ギブだ』でしたね。『すぐに結果を求めない。相手には与えて、与えて、与えて、最後にテイクを受けとればいい』と。
要するに目先の利益だけにとらわれてはいけない、ということを何度も言われました」

「1日に何回も社員を集めて話をするんだけど、そのたびにいろんな幅広い話をする。その話の1つ1つが社員の心を打つんだよね。演出かもしれないが、人の心をつかむのが本当にうまい男でしたよ」

この頃、雑誌には中江と有名な芸者とのツーショットが掲載され、当時人気があったアイドルの女性との交際の噂もあった。

しかし、こうしたこともすべて計算で、自分を目立たせるための演出の意味もあったのではないかと、鈴木さんは話した。

鈴木克洋さん
「遊びも好きだったかもしれませんが、毎日豪遊していたわけではありません。ふだんは、身内が経営しているような居酒屋や、お気に入りの銀座のクラブでおとなしく飲んでいた感じですね。酔っ払うこともなく、酒を酌み交わして世間話をするだけです」

「ただ、有名な投資家や、人脈を築きたい有力者を接待する場合は別でしたね。赤坂の超一流の料亭に連れて行き、芸者とゲームをするんです」

「勝った方には100万円や200万円を札束でぽんと渡しますし、札束を惜しまずばらまいていました。今考えると、自分がいかに成功しているかを見せつけて、出資を募るためのイメージ戦略だったのかなと思いますね」

その一方で、社内では喜怒哀楽が激しい、いわゆる「ワンマン社長」ぶりも徹底していたという。

中江がいる社長室のテーブルにはいつもゆで卵が10個ほど積んであり、朝礼に遅れた社員や、仕事で失敗をした社員は、中江からそのゆで卵を投げつけられたという。

また、朝礼に遅刻した幹部社員がいると、その場で腕時計やネックレス、財布を没収したこともあった。

ただ、手柄を立てた社員の名前はしっかりと記憶し、『よくやった、お前は将来の兜町を背負って立つ男だ』と激励するのが常だった。

いわば「アメとムチ」で人心を掌握し、社内ではカリスマとして君臨していたという。

冷ややかに見ていた証券界のベテランたち

証券・金融業界で破竹の勢いだった中江を、ベテランの証券マンたちはどのように見ていたのだろうか。

4大証券の1つ、日興證券(現:SMBC日興証券)に長く勤め、半世紀以上にわたって業界で生き抜いてきたプロから返ってきたのは、少し意外な答えだった。

証券アナリスト 植木靖男さん

証券アナリスト 植木靖男さん
「中江さんに、そこまで相場を読む力はなかったと思いますよ。まだ規制も今より厳しくなく、資金さえあれば株価なんてある程度は操作できる時代だったんです。とにかく資金さえ集めれば、いくらでも相場を作ることができますから」

「相場を読むのが上手だったんじゃなくて、狙った株の価格をつり上げて相場を作っていたのではないでしょうか」

中江は、株式市場で「仕手戦」と呼ばれるさまざまな仕掛けをしていたとされている。

狙いをつけた会社の株価を意図的に暴騰させ、高値になったところで売り抜けて多額の利益を得る手法だ。

植木さんは、中江の分析力には演出の部分も多く含まれていたのではないか、とみている。

そして、日本経済が巨大なバブルに向かう中で、中江もある意味でその犠牲になったのではないかと話す。

植木靖男さん
「日本の経済が、実態とかけ離れてどんどん大きくなって、中江さんもまたそれにつられて大きくなった。日本中でものすごいカネ余りとなって、中江さん自身がそれに飲み込まれた部分もあったのではないでしょうか」

早かった転落

中江が有名になるにつれ、その存在は業界で徐々に疎ましく思われるようになっていったようだ。

まだ若造のような中江が新しい手法で客を集め、個人投資家からもてはやされるのをよく思わなかった人物もいたという。

昭和59年、30歳になった中江は、大きな勝負に出ていた。
ある化学メーカーの株に狙いをつけて株価が上がると分析し、投資家からそれまで以上に多額の資金を集めようとしていた。

「大衆投資家にロマンを」などといったうたい文句で宣伝し、資金は次々に集まったが、株価はなかなか伸びない。

それどころか、「中江の扱う株は危険だ」という噂が流れ、しばらくすると買っていた株が軒並み暴落してしまう。

集めた数百億円もの金を顧客に返すことができなくなり、翌年には顧客をだまして違法に資金を集めたとして詐欺の疑いで警視庁に逮捕された。

容疑者となった中江

事件を伝える当時の新聞では「証券業界で最大級の事件」と報じられた。

中江は、裁判で「だますつもりはなかった」と主張したが、懲役6年の実刑判決が確定した。

業界の古いやり方を打ち破ろうとした中江は、もともと個人投資家の熱狂的な支持があって躍進したが、逆に顧客が離れていくのも早かった。

事件からまもなくすると、中江滋樹の名前は、兜町でもいつしか忘れ去られていった。

証券アナリスト 植木靖男さん
「相場は勝ち続けるということはなく、必ずどこかで損はするわけです。

本当は、ほどほどのところで身を引くのが一番なんですが、中江さんには顧客もついていたし、引くに引けなくなっていた部分もあるのでしょう。

ある意味で中江さんも、かわいそうな部分があったのかもしれないと思っています」

下町のアパートにたどり着くまで

中江は刑務所での服役を終えたあと、一時は海外に住んでいたが、その後滋賀県の実家に戻った時期もあった。

2010年頃の中江滋樹

そして、最終的には2012年頃から、東京・葛飾区にある6畳1間のアパートに住み始めたという。

現場を歩いてみたが、近所の人は世間を騒がせたあの中江だとは誰も知らなかったようだ。

近所の人
「1人暮らしのはずなのに、毎晩、怒鳴るような声が聞こえた」

「酔っ払っては、何かしゃべっていたのが印象に残っている」

ひとりアパートの1室で

すべてを失った中江だが、社会と断絶していたわけではない。フリージャーナリストの比嘉満広さんは、出所したあとの中江に時々会って取材を続けてきた数少ない人物だ。

ジャーナリスト 比嘉満広さん

ジャーナリスト 比嘉満広さん
「昔の証券業界の話や、彼が事件で逮捕された時の話をしたら、『よく知っているね~』と言われてね。彼はすごく気さくで、なんとなく気が合ったというか、信用してくれたのでしょうね。不思議な雰囲気のある悪党といった感じでしたね」

比嘉さんが中江と最後に電話で話したのは、中江が亡くなるおよそ20日前だったという。

比嘉満広さん
「久しぶりに電話したら、彼は『やっと電話きた、うれしい』と言っていてね。小一時間、話をしたんだけど、ろれつが回ってなくて。最後に『もっと話していけば、思い出せることもいっぱいあるから、また近いうちにぜひ電話してくださいよ』と言われて、会話が終わったんです。

もう話し相手も周りにいなくなっちゃったみたいなんですね。それが、彼にとっては辛かったんじゃないかなと思います」

下町のアパートの1室で、孤独ゆえに酒に溺れていたのだろうか。

知人を訪ね歩く中で、かつての投資ジャーナル時代の知人に送った手紙を見つけることができた。

日付は2014年5月20日。中江が葛飾区のアパートに住み始めて2年目のころのものだ。

そこには、まるで遺書のような言葉が記されていた。

知人にあてた手紙

「人生の大筋の方程式を解くに至りました。(中略)一日一日を、何とか自分を騙し騙し、生きております。ありがとうございました。合掌!! 遺言にかえて 中江滋樹拝」

最後まであきらめていなかった

本当に、もう再起をあきらめていたのだろうか。

私は、中江が亡くなった現場のアパートに改めて向かうことにした。火事から1か月ほどがたっていたが、部屋の中はまだ何も片づけられておらず、周囲には焦げ臭いにおいがただよっていた。
どうしても部屋の中を見たいと思い、アパートの関係者に頼みこんで許可を得ると、火事の熱で変形したドアを開けて室内に入った。

部屋には灰まみれになった酒瓶が並び、床には黒ずんだ家具の残骸とタバコの吸い殻が無数に散らばっていた。警察の捜査では、火事の原因は、タバコの不始末だとみられているが、はっきりしない。

焼け焦げたアパートの室内

部屋の中央には炭化した布団があり、それを囲むように1メートルほどの高さに上る真っ黒な塊がいくつも置かれていた。

よく見ると、積み重なっていたものは、株関係の本やノートだった。

現場から見つかった手書きのチャート

ノートをそっとめくってみると、そこには相場に対する心構えや自らの考えがびっしりと記されていた。

さらに、最近の株式相場の推移を記した手書きのチャートも見つかった。この頃は、アメリカのトランプ大統領の過激な政策や新型コロナウイルスのまん延で、世界の金融市場が不安定になり、株の値段は乱高下していた時期だった。

中江は、この部屋で毎日相場のことを考えていたのだろうか。

かつて社会人になりたての20歳の頃、4畳半1間のアパートで相場の研究に没頭していたという中江。

それから40年以上がたったが、部屋に残っていた焼け焦げた手書きのチャートからは、もう一度奮起しようという執念がにじみ出ているかのようだった。

中江が最後に暮らしていたアパート

中江の死からちょうど1年後のことし2月20日。私は、命日に誰か現場を訪れるのではないかと思って、アパートの前にいた。

しかし、一日中待っても部屋を訪れる人は確認できなかった。

下町を望む川に夕日が沈んで暗くなったころ、私は現場でそっと手を合わせた。

昭和から平成に向かう激動の時代に、兜町の風雲児と呼ばれた中江滋樹。

一度は遺書のような手紙を知人に送っていたが、令和の時代になってもなお、はい上がろうともがいていたのかもしれない。
いや、そうに違いないと思いながら、現場のアパートを離れた。

  • 社会部 記者 倉岡洋平 2010年入局 
    松江局・青森局・札幌局を経て2019年から社会部

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